愛妻弁当と侵入者――第一級警戒態勢――
王国軍第一大隊本部には、三段階の警戒態勢が定められている。
【第三級】
周辺地域における軽微な異常。通常警備の範囲内で対処可能な事案。
【第二級】
敵性勢力による工作、侵入、あるいは襲撃の可能性がある場合。全部隊の半数以上が即応態勢へ移行する。
そして【第一級】
王都、王宮、あるいは軍中枢に対する重大な脅威が確認された場合。全隊員が戦闘配置につく。
創設以来、第一大隊本部で第一級警戒態勢が発令されたのは、わずか三度。
一度目は、隣国との戦争。
二度目は、王都を標的とした大規模テロ未遂。
三度目は……。
「―――侵入者だ!」
昼下がり。
第一大隊本部に、けたたましい警鐘が鳴り響いた。
アルベルトは手にしていた羽ペンを止め、反射的に立ち上がった。会議室にいた士官たちも一斉に顔を上げる。
「北棟三階! 何者かが侵入した!」
「人数は!?」
「不明!」
「正門の記録は!?」
「ありません!」
「転移魔法の痕跡は!?」
「ありません!」
「では、どのように侵入した!?」
「不明です!」
兵士たちが走る。
剣が抜かれ、魔導銃に弾薬が装填される。
廊下を駆ける軍靴の音が重なり、つい数分前まで穏やかだった本部は、瞬く間に戦場さながらの緊張に包まれた。
その中心。
作戦会議室の扉が勢いよく開く。
「隊長!」
アルベルト・クロフォードは、広げていた地図から顔を上げた。声を荒らげることなく、しかし一瞬で指揮官の顔に戻る。
「何だ」
「侵入者です!」
その一言で、彼の表情から私情が消える。
「場所は」
「北棟三階で目撃されました。現在、行方不明です」
「特徴は」
「白っぽい髪の、小柄な人物だったと」
アルベルトの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……性別は」
「確認できていません」
「服装は」
「黒です。身軽で、非常に素早かったとのことです」
沈黙。
副官が怪訝そうに隊長を見る。アルベルトは何でもないふりをしようとしたが、指先が地図の端を無意識に押さえつけていた。
「隊長?」
「…………」
アルベルトの脳裏に、非常に嫌な可能性が浮かんだ。
白銀の髪。
小柄。
黒い服。
異常な身軽さ。
正門を使わない。
そして、今朝。
『アル、今日のお昼は?』
『食堂で取る』
『何時?』
『十二時頃だ』
『ふうん』
『……何だ』
『別に?』
にこにこと笑っていたあの笑顔。
アルベルトは、今さらながら背筋に冷たいものを感じた。
「……まさかな」
「隊長?」
アルベルトは額を押さえた。
「いや。何でもない」
そうであってほしい。
心の底からそう願いながら、彼は剣を取った。
※
その頃、第一大隊本部、北棟四階。
「広いなあ」
リリア・クロフォードは迷子になっていた。
右手には、大きな包み。
中身は弁当だ。
今朝、夫が軍服へ着替える姿を眺めながら、ふと思った。
―――お弁当を届けよう。
ただそれだけだった。
結婚してからというもの、アルベルトは仕事中の姿をほとんど見せてくれない。
『遊びに来る場所ではない』
彼はそう言う。
だから、遊びに来たわけではない。
弁当を届けに来たのだ。
完璧な理屈だ。
問題があるとすれば―――リリアは正門から入っていなかった。
「だって、止められると思ったし」
誰に言うでもなく呟く。
以前、一度だけ正面からアルベルトを訪ねたことがある。
受付の兵士に「面会のご予約は」と尋ねられた。
予約などしていない。
そこで「妻です」と答えたところ、確認に二十分を要した。
二十分は長い。
壁を越えれば三十秒で済む。
したがって、今回は壁を越えた。
合理的だ。
少なくとも、リリアにとっては。
「アルの部屋、どこだろう」
廊下の角から顔を出す。
兵士が二人、走ってきた。
「いたか!?」
「いや!」
「北棟を封鎖しろ!」
「……何かあったのかな」
リリアは首を傾げた。手にした包みが傾きかけ、慌てて抱え直す。
邪魔になってはいけない。
そう判断すると、天井近くにある梁へ軽々と飛び乗った。
兵士たちが真下を通り過ぎる。
「…………」
誰にも気づかれなかった。
さすが自分。
リリアは少し得意になった。
なお、彼らが捜しているのは自分だとは露とも思っていない。
「痕跡がありません」
報告を受け、アルベルトは険しい顔をした。
「北棟三階から四階へ移動した可能性があります。しかし、監視要員は誰一人として姿を確認していません」
「窓は」
「一箇所、開いていました」
「侵入経路か」
「おそらく」
副官が低い声で続ける。
「隊長。かなりの手練れです」
「……そうだろうな」
アルベルトは苦々しく答えた。否定できないことが、余計に腹立たしい。
「ご存じなのですか?」
「いや」
即答した。
認めたくないだけだった。
そこへ兵士が飛び込んできた。
「報告!」
「何だ」
「侵入者と思われる人物が、第四資料室付近で目撃されました!」
「確保は」
「失敗しました!」
「何をしている!」
「天井へ消えました!」
アルベルトは目を閉じた。こめかみがぴくりと動く。
副官が瞬きをする。
「……天井?」
「…………」
「隊長」
「何だ」
「今、非常に心当たりがおありのような表情をなさいませんでしたか」
「していない」
「しました」
「していない」
アルベルトは歩き出した。
「俺が行く」
「お供します」
「いや」
即座に制止する。
「俺一人でいい」
「しかし、相手は侵入者です」
「……だからだ」
もし本当にあの馬鹿だった場合、部下数十人が見ている前で説教する自信がない。
※
北棟四階。
リリアはようやく、それらしい扉を見つけた。
『第一大隊長執務室』
「あった!」
顔を輝かせる。
だが、扉には鍵がかかっていた。
「…………」
リリアは取っ手を回す。
開かない。
「アル、いないのかな」
普通の人間なら、ここで待つ。
あるいは受付へ戻る。
リリアは腰の飾りから細い針金を二本抜いた。弁当を床へ置かないよう、片腕で抱えたまま器用に鍵穴へ向き直る。
鍵穴へ差し込む。
三秒でかちりと音がした。
「開いた」
第一大隊長執務室の軍用特殊錠が、三秒で突破された。
リリアは何の罪悪感も抱かず、中へ入る。
「お邪魔しまーす」
誰もいない。
きちんと整えられた机。
書類に地図。整然と並んだ本棚。
見慣れた夫の筆跡。
「わあ」
リリアは嬉しくなった。
「本当にアルの部屋だ」
当たり前だ。
机の上に弁当を置く。
せっかくだから驚かせよう。
そう思った時だった。
廊下から足音が聞こえた。
リリアの目が輝く。
「アルかな」
驚かせたい。
隠れよう。
反射的に窓際のカーテンの陰へ身を滑らせた。息まで潜める。
扉が開く。
アルベルトが入ってきた。
誰もいない。
しかし机の上に見覚えのない包みが置かれている。
「…………」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
軍中枢への侵入者。
隊長執務室。
正体不明の包み。
最悪の組み合わせだ。
剣へ手をかける。
慎重に近づく。
背後でカーテンが、わずかに動いた。
アルベルトは振り向きざまに剣を抜いた。
「動くな!」
「わっ!」
銀色の髪が飛び出した。
「アル、びっくりした!」
「…………」
剣を構えたまま。
アルベルトは固まった。
「…………リリア」
「うん!」
リリアは両手を上げたまま、にこにこと笑っている。アルベルトの剣先が自分に向いていることなど、まるで気にしていない。
「なぜここにいる」
「お弁当を届けに来た!」
満面の笑顔。
アルベルトは天井を仰いだ。
神よ。
やはり、そうだったか。
「……正門は」
「通ってないよ」
「なぜだ」
「時間がかかるから」
「どうやって入った」
「北側の壁」
「高さ十二メートルあるぞ」
「途中に足をかけるところがあったよ?」
「警備兵は」
「いた」
「いたのか!?」
「見つからないように入った」
「なぜだ!」
怒声が部屋を揺らした。
リリアが肩をすくめる。けれど、怒られているというより、困らせてしまったことに気づいたように眉を下げた。
「だって、見つかったら止められると思って」
「止めるに決まっているだろう!」
「でも、お弁当」
「弁当を届けるために軍事施設へ潜入する人間がどこにいる!」
「ここ」
リリアが自分を指差す。
「そういう意味ではない!」
アルベルトは額を押さえた。
頭痛がする。
胃も痛い。
おそらく寿命も縮んでいる。
「それで」
嫌な予感を覚えながら尋ねる。
「途中で兵士に見つかったか」
「うん」
「何をした」
「逃げた」
「なぜ」
「忙しそうだったから」
「お前を捜していたんだ!」
「えっ」
リリアの目が丸くなる。
「私?」
「第一級警戒態勢だ!」
「なんで!?」
「侵入者が出たからだ!」
「大変じゃん!」
「お前だ!」
沈黙。
リリアがゆっくり二回瞬きをする。
やがて、胸元へ手を当てて小さく首を傾げた。
「……私?」
「お前以外に誰がいる!」
「でも私、何もしてないよ?」
「軍事施設の壁を越え、警備を突破し、兵から逃走し、特殊錠を解錠して隊長執務室へ侵入した!」
指折り数える。
「十分すぎる!」
「……お弁当を届けただけなのに」
「過程が暗殺なんだ!」
その瞬間。
廊下から大勢の足音が響いた。
「隊長!」
「ご無事ですか!」
まずい。
アルベルトが振り向く。リリアもつられて扉の方を見た。
扉が開く。
武装した兵士十数名が執務室内部を鋭く見回す。
その中央に弁当を持った銀髪の女。
全員が固まった。
「…………」
「…………」
「…………奥方様?」
リリアはにこっと笑った。
「こんにちは」
兵士たちは一斉に武器を下ろした。張り詰めていた空気が、音を立てて抜けていく。
副官が顔を覆った。
「やはり……」
「何だ、その反応は」
アルベルトが睨む。
「途中から、もしやとは思っておりました」
「なら言え!」
「申し上げたら、隊長がお怒りになるかと」
「今も怒っている!」
「アル」
「何だ!」
「お弁当、食べない?」
「今その話をするな!」
「冷めちゃう」
「もう冷めている!」
「では、一緒に食べよう」
「話を聞け!」
兵士たちが、そっと視線を逸らした。誰もが、隊長の怒声よりも奥方の一言の方が強いことを理解していた。
※
三十分後に第一級警戒態勢は解除された。
『侵入者の身元を確認。敵性なし』
なお、正式な記録には、侵入者が第一大隊長夫人だったことは記載されなかった。
軍の名誉のためである。
「おいしい?」
執務室。
アルベルトの向かいで、リリアが頬杖をついている。
「……ああ」
結局食べている。
弁当の中身は、肉料理と野菜、卵焼き、それから小さな焼き菓子。
すべてアルベルトの好物だった。
「朝から作ったの」
「そうか」
「お肉、少し焦げたけど」
「問題ない」
「卵は?」
「うまい」
「本当?」
「ああ」
リリアが嬉しそうに笑う。
その顔を見ていると怒り続けるのが難しい。
非常に難しい。
アルベルトは箸を置いた。叱るべきことは山ほどある。それでも、目の前で自分のために作られた弁当を嬉しそうに見つめる妻を前にすると、声が自然と柔らかくなった。
「リリア」
「ん?」
「嬉しくないわけではない」
リリアが瞬きをする。
「弁当を届けようと思ってくれたことは、嬉しい」
「……うん」
「だが」
声を低くする。
「二度と壁を越えるな」
「はい」
「警備兵から逃げるな」
「はい」
「軍用錠を開けるな」
「はい」
「天井を移動するな」
「はい」
「正門から入れ」
「はい」
素直だ。
アルベルトは少しだけ安心する。だが、その安心が長く続かないことを、彼はまだ知らない。
「分かったな」
「分かった」
リリアはにこっと笑った。
「次は地下から入るね」
「なぜそうなる!」
「だって、壁は駄目なんでしょ?」
「正門から入れと言っただろう!」
「でも時間がかかるし」
「俺が許可証を出す!」
「本当?」
「ああ!」
「待たなくていい?」
「いい!」
「アルの部屋まで来ていい?」
「……事前に連絡すればな」
「やった!」
リリアが身を乗り出す。
そのままアルベルトの頬へ口づけた。
「ありがとう。大好き」
「…………」
突然のことに、アルベルトの動きが止まる。
リリアは何事もなかったように椅子へ戻った。
「残りも食べて」
「……ああ」
耳が少し赤い。
その時、開け放たれた扉の外からぼそりと声がした。
「隊長、顔赤くない?」
「しっ。殺されるぞ」
アルベルトの眉が動いた。
「聞こえている」
廊下から猛烈な勢いで軍靴が遠ざかっていく。
リリアが吹き出した。
「アル、部下と仲良しだね」
「どこを見てそう思った」
「楽しそう」
「……お前が来るまでは静かな職場だった」
「じゃあ、また来るね」
「事前に連絡しろ」
「うん!」
「正門からだぞ」
「うん!」
「絶対だぞ」
「分かってるってば」
リリアは満面の笑みを浮かべた。
アルベルトはその顔をしばらく見つめる。
「……許可証は明日用意する」
「やった!」
結局この男は、妻に甘い。
※
翌日、第一大隊本部正門。
「こんにちは!」
「奥方様!」
リリアが堂々とやって来た。
首から正式な入構許可証を下げている。
「隊長にお弁当をお届けします!」
「承知しました! どうぞ!」
「ありがとう!」
警備兵が門を開く。
リリアは嬉しそうに中へ入った。
完璧だ。
何の問題もない。
※
「隊長!」
執務室へ副官が飛び込んできた。
「何だ」
「奥方様が!」
アルベルトは立ち上がった。
「今度は何をした!」
「中庭で訓練を見学していたのですが!」
「それで!?」
「兵士に『その構えでは三秒で死ぬよ』と助言を!」
「…………」
「現在、近接戦闘班全員が奥方様に稽古をつけてもらおうと列を作っています!」
アルベルトは静かに目を閉じた。
「次の人!」
遠くから楽しそうな妻の声。
「お願いします、奥方様!」
部下たちの声。
「…………」
アルベルトは額を押さえた。
壁を越えなくなった。
警備から逃げなくなった。
鍵も開けていない。
約束は、完璧に守っている。
だからこそ叱れない。
「隊長」
「何だ」
「奥方様、大人気ですね」
「……黙れ」
第一大隊は今日もおそらく平和だった。




