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夫婦喧嘩につき、王都封鎖中。

王国軍第一大隊隊長、アルベルト・クロフォードには、人生において三つの信条がある。


一つ。規律を守ること。

二つ。己の職務を最後まで遂行すること。

三つ。―――妻を、決して野放しにしないこと。


「アルー。これ、食べてもいい?」


リリアが棚へ手を伸ばす。


「駄目だ」


「まだ何も指していないよ?」


伸ばしかけた手を止め、リリアは不満そうに眉を寄せた。


「お前が指そうとしている棚には、昨夜俺が『明日の朝食用だ』と言った焼き菓子しかない」


「…………」


図星を突かれ、リリアはそっと視線を逸らす。


「手を引け」


「見ていないのに分かるの、怖い」


朝の光が差し込む食堂で、リリア・クロフォードは伸ばしかけていた右手を静かに引っ込めた。

その動きは、悪事を見咎められた子どものように素直である。


彼女は二十三歳、元暗殺部隊所属であり、三年前まで王国の裏社会で《白猫》と呼ばれて恐れられていた。


その華奢な体つきからは想像もつかないほど身軽で、二階建て程度の建物なら壁を蹴ってよじ登り、施錠された扉を開けるのに十秒とかからず、人の気配を読むことにかけては軍の斥候兵よりも鋭い。


彼女は結婚により引退。


よりにもよって、規律と秩序を重んじ、軍服の襟元が一ミリでも乱れていれば直さずにはいられない男と。


「では、一個だけ」


諦めきれないリリアが、今度は指一本だけを棚へ向ける。


「駄目だと言っている」


「半分」


彼女は指を二本に増やし、交渉の余地を探った。


「量の問題ではない」


「では、匂いだけ」


リリアが身を乗り出すと、アルベルトは即座に手を伸ばして制した。


「顔を近づけるな」


「けち」


唇を尖らせる妻を横目で見ながら、アルベルトは黒い軍服の袖口を整えた。


二十九歳。王国軍第一大隊を率いる若き隊長。


背は高く、鍛え上げられた体躯と鋭い灰色の瞳を持つ。端正ではあるが愛想というものがほとんどなく、初対面の兵士は十人中九人までが彼を「怖い」と評する。


残る一人は、たいてい翌日には「やはり怖い」と訂正する。


そんな男の視線を真正面から受けても、リリアは平然としている。

むしろ楽しげに笑う。


「今日、帰りは遅い?」


「少しな」


アルベルトが袖口から顔を上げる。


「夕飯は?」


「できるだけ戻る」


「できるだけって、何時?」


リリアは椅子の背にもたれ、じっと彼の顔を覗き込んだ。


「分からん」


「では、待っていようかな」


「先に食べろ」


「一人で?」


「そうだ」


「寂しい」


その一言だけは、不意打ちだった。

アルベルトの手が止まる。

ほんの一瞬。だが、リリアは見逃さない。

元暗殺者の観察眼というものは、こういう何気ない場面でこそ恐ろしい。


「今、困った?」


「困っていない」


アルベルトはすぐに手を動かし始めたが、わずかに動きが硬い。


「困った顔をした」


「していない」


「したよ」


リリアは身を乗り出し、彼の表情を覗き込む。


「していない」


「では、見せて」


「何をだ」


「困った顔」


「勤務前にくだらない遊びを始めるな」


「では、帰ったらやろうね」


「やらん」


淡々と切り返しながらも、アルベルトは結局、棚から焼き菓子を一つ取り出した。

リリアの目がきらりと光る。


「半分だ」


「わあ!」


彼女が両手を合わせる。


「朝食を食べた後だ」


「うん!」


「本当に分かっているか?」


「分かっているってば」


満面の笑み。

アルベルトはその顔に弱い。

弱いのだが、それを本人に悟られたら終わりだと思っている。


もっとも、リリアにはお見通しだ。

焼き菓子を嬉しそうに見つめる妻から目を逸らし、アルベルトは咳払いをした。


「それと」


「ん?」


リリアが焼き菓子から彼へ視線を戻す。


「三日後の件だ」


リリアの手が止まった。

三日後。

二人の結婚記念日である。


昨年は郊外まで馬車で出かけた。

一昨年は王都の高級料理店へ行った。

今年については、リリアがひと月も前から「何をする?」「どこへ行く?」「遠出する?」と、一日に三度ほど尋ねてきていた。


アルベルトは視線をわずかに伏せる。


「……悪いが、軍務になった」


「え」


リリアの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


「隣国国境付近の動きが不穏だ。第一大隊に緊急待機命令が出た」


リリアは瞬きをした。

そして、すぐに笑った。


「そう」


「ああ」


「仕事なら仕方ないね」


あまりにもあっさりした返事だった。

アルベルトはわずかに眉を寄せる。


「……怒っているか?」


「怒ってないよ?」


リリアは笑顔を保ったまま、指先で卓上をなぞる。


「本当か」


「うん。アルが遊んでいて忘れたとかなら蹴るけど、仕事でしょ?」


「蹴るな」


「仕事なら仕方ないよ」


にこ、と笑う。

明るくて、素直で、何の翳りもない笑顔。


―――だからアルベルトは安心した。


それが、この日の最大の判断ミスだった。



軍務を終えたアルベルトが帰宅した時、屋敷は妙に静かだった。


いつもなら扉を開けた瞬間、「おかえり」とリリアがどこからともなく現れる。


玄関からとは限らない。

二階の手すりから飛び降りてきたこともあれば、厨房からパンを咥えて出てきたこともある。

一度など、天井裏から降ってきた。

なぜ家の天井裏にいたのか尋ねたところ、「近道」と答えられた。


だが今日は、何もない。


「リリア?」


呼びかけた声が、静かな屋敷に吸い込まれる。

返事がない。

アルベルトは眉をひそめた。


食堂を見る。無人。

寝室の扉を開ける。無人。

浴室、妻といえど入浴中に入るのは憚られて、人の気配がないことを外から確認してからわざわざ押し入る。無人。

裏庭に目を走らせる。無人。


そして食卓の中央に、一枚の紙が置かれていた。

嫌な予感がした。

紙を取る。

丸みのある文字。


『家出します。探さないでください。


 あと結婚記念日を忘れたアルのばか!』


「…………」


長い沈黙。

アルベルトのこめかみに、青筋が一本浮いた。


「誰が忘れたと言った」


言ったのは「軍務になった」だけである。

忘れたなどとは一言も言っていない。

むしろ、忘れるわけがない。

ひと月前から毎日聞かれている。


「……探すな、だと?」


アルベルトは紙を握りしめた。

探さないという選択肢が、あるはずがない。

相手は一般家庭の妻ではない。

元暗殺者だ。


しかも、人並み外れて身軽で、危機管理能力は高いくせに、「面白そう」という理由で危険な場所へ行く悪癖がある。


十数分後。

第一大隊詰所に、隊長が戻ってきた。


「全員、聞け」


勤務を終えかけていた兵士たちが一斉に立ち上がる。

アルベルトは、いつになく険しい顔で告げた。


「人を捜す」


空気が張り詰めた。


「敵兵でしょうか」


「違う」


「重要参考人ですか?」


「違う」


「逃亡犯ですか?」


アルベルトは一瞬黙った。


「……妻だ」


「はい?」


兵士たちの間に、困惑が広がる。


「リリアが家出した」


兵士たちの顔が固まった。

誰も笑わない。

笑えるはずがない。

第一大隊の兵士たちは皆、知っている。

隊長夫人が、どういう人間かを。


「隊長」


副官が恐る恐る口を開いた。


「奥方を……我々が?」


「捜す」


アルベルトは即答した。


「逃げる気満々の奥方を?」


「そうだ」


「……隊長」


副官は言葉を選ぶように一度口を閉じ、それから続けた。


「今からでも、謝った方が早いのでは」


「俺は何もしていない!」


珍しく声を荒らげたアルベルトに、全員が背筋を伸ばした。



王都東門。


その頃、リリアは屋台で串焼きを食べていた。


「おいしい」


家出中とは思えない暢気さ。

小さな旅行鞄を傍らに置き、足をぶらぶらさせながら露店の椅子に座っている。


本気で夫を嫌っているわけではない。

むしろ大好きだ。

大好きだからこそ、腹が立つ。


「三日後なのに」


串を見つめたまま、リリアはぽつりと呟く。

あれだけ楽しみにしていたのに。

それなのに『軍務になった』と言われた。


仕事なのは分かっている。

アルベルトが職務に誠実な男であることも、誰より理解している。


それでも―――。


「少しくらい残念そうにすればいいのに」


自分だけが楽しみにしていたみたいで、少し寂しかった。

だから家出した。


とはいえ、翌朝には帰るつもりだった。


「奥方様!」


「ん?」


聞き覚えのある声に、リリアが振り返る。

第一大隊の兵士が三人、こちらへ走ってくる。


「隊長命令です! お戻りください!」


「えっ」


リリアの顔がぱっと明るくなる。


「アル、探しているの?」


「はい!」


「へえ」


嬉しい。非常に嬉しい。

口元が大きく笑みの形を作る。

しかし、ここで素直に帰るほど、リリアは大人ではなかった。


「では、捕まえてみて」


「は?」


兵士たちが顔を見合わせた、その瞬間、小さな何かが地面へ投げられた。


白煙が巻き起こる。


「うわっ!」


「煙玉!?」


煙が晴れた時には、リリアの姿は消えていた。


「東門で発見しました!」


「それで?」


「逃げられました!」


「なぜだ!」


「煙玉を!」


「家出で煙玉を使うな!」


アルベルトの怒声が詰所に響く。


「申し訳ありません!!」


何も悪くない兵士たちが涙目で謝った。



一時間後。


「西区の屋根で発見!」


「確保しろ!」


「屋根伝いに逃走!」


「追え!」


二時間後。


「南市場に奥方が!」


「今度こそ捕まえろ!」


「老婆に変装していました!」


「なぜ家出で変装する!」


三時間後。


「隊長、北門に――」


「もういい、俺が行く!」


アルベルトは外套を掴んだ。

その頃には第一大隊が王都中を走り回っていた。


当然、目立つ。

そして軍という組織は、事情を知らない者ほど最悪の想像をする。


「第一大隊が何者かを追っているらしい」


「隊長自ら出たぞ」


「敵国の密偵では?」


「まさか、暗殺者か?」


噂は一刻もしないうちに王宮へ届いた。

第二大隊が警戒態勢に入り、憲兵隊が主要街路を封鎖し、騎士団が王城周辺の巡回を増強した。


さらに、『第一大隊が追跡中の人物は極めて高い潜伏能力を持つ』という情報だけが独り歩きした。


―――結果。


「門を閉鎖せよ!」


誰かが言った。

そして、誰も止めなかった。

王都四門、封鎖。


「……何これ」


鐘楼の上から街を見下ろしていたリリアは、首を傾げた。


兵士が走っている。

騎士も走っている。

憲兵もいる。

大通りには簡易検問まで設置されている。


「アル、やりすぎじゃない?」


自分が原因だとは、少しも思っていない。



王城にて。


「敵は何人だ」


国王は険しい顔で尋ねた。


「一名です」


軍務大臣が答える。


「一名?」


「はい」


「何者だ」


「……第一大隊長夫人です」


国王は黙った。

その場にいた将官たちも黙った。


「夫人?」


「はい」


「クロフォードの?」


「はい」


「……あの小さいのか」


「はい」


国王は額を押さえた。


「なぜ王都を封鎖した」


誰も答えなかった。



夜半。


アルベルトは、ようやく妻を見つけた。

王都中央時計塔、その屋根の上。


月明かりの下で、リリアは尖塔の縁に腰掛けていた。


「リリア」


名を呼ぶと、小さな背中がびくりと揺れた。


「……見つかった」


「当然だ」


「遅かったね」


「誰のせいだと思っている」


アルベルトが屋根へ上がる。

風が軍服の裾を揺らした。

リリアは逃げなかった。


逃げようと思えば逃げられたけれど。


ここまで探してくれた。


その事実が、胸の奥をくすぐっていた。


「帰るぞ」


「やだ」


リリアは膝を抱え、そっぽを向く。


「リリア」


「結婚記念日を忘れたくせに」


「だから、忘れていない!」


アルベルトは思わず声を張った。

リリアが目を丸くする。


「え」


「俺は勤務になったと言っただけだ」


「でも」


「忘れるわけがないだろう」


アルベルトは大きく息を吐いた。

そして、胸元から小さな箱を取り出した。

リリアの視線が吸い寄せられる。


「何、それ」


「三日後に渡すつもりだった」


箱を開ける。

銀細工の髪飾り。

小さな白い花を模した飾りが月光を受けて光った。


以前、二人で歩いていた時にリリアが店先で眺めていたものだ。


リリアは呟くように言った。


「覚えていたの?」


リリアは髪飾りから目を離せないまま尋ねた。


「お前が十分くらい店の前から動かなかったからな」


「そんなに見ていた?」


「見ていた」


リリアは黙った。

胸の奥が急に温かくなる。

同時に、自分がとんでもなく馬鹿なことをした気もしてきた。


「……アル」


「何だ」


「怒っている?」


「怒っている」


「すごく?」


「ものすごく」


アルベルトは険しい顔を崩さない。


「でも、探してくれた」


「当たり前だ」


「好き?」


「今、それを聞くのか」


「聞きたい」


アルベルトは眉間を押さえた。

そして、諦めたように息を吐く。


「好きでなければ、王都中を三時間も走り回るものか」


リリアの顔が綻んだ。

次の瞬間、勢いよく抱きつく。


「アル、大好き!」


「おい、危ない!」


屋根の上だ。

アルベルトは反射的に妻の腰を抱いた。


細い。

軽い。


こんな小さな身体で王都中を翻弄したのかと思うと、頭が痛い。

けれど、腕の中に収まった温度に、張り詰めていたものがわずかにほどけた。


「帰るぞ」


「うん!」


「その前に王宮へ行く」


「え」


リリアが抱きついたまま顔を上げる。


「謝罪だ」


「何で?」


「お前のせいで王都が封鎖された」


「えっ」


リリアが目を瞬いた。


「アルが追いかけるからでしょ?」


「お前が逃げるからだ!」


「だって、追いかけてきたら逃げたくなるじゃん!」


「ならん!」


「なるよ!」


「ならん!」


「アルの石頭!」


「お前が自由すぎる!」


二人の声が夜空に響いた。



翌朝。


王国新聞の一面には、大きな見出しが載った。


『第一大隊長夫妻、王都封鎖騒動』


その下に、小さく国王の言葉。


『夫婦喧嘩は家でやれ』


こうして国を挙げての夫婦喧嘩騒動は幕を下ろした。



三日後、クロフォード家。


「アルー」


「何だ」


「まだ?」


「待て」


玄関で靴を履いたリリアが、そわそわと待っている。


「あと何分?」


「五分」


「長い」


「五分だ」


「もう出ようよ」


「支度中だ」


結局、アルベルトは一日の休暇を取った。

早朝から郊外へ出かける予定である。


「ねえ」


「何だ」


「本当に休み?」


「休みだ」


「呼び出されたりしない?」


「今日は副官に任せた」


「やった!」


リリアは嬉しそうに駆け寄り、勢いよく飛びつく。

アルベルトは今度こそ落ち着いて受け止めた。


「ただし、条件がある」


「何?」


「今後、喧嘩をしても煙玉を使うな」


「うん」


「屋根にも登るな」


「うん」


「変装もしない」


「うん」


「本当に分かったか?」


リリアはにこりと笑った。


「次は地下道を使う!」


「リリア!」


朝の屋敷に、第一大隊長の怒声が響いた。

直後、楽しそうな妻の笑い声が重なる。


 王国史上初めて、夫婦喧嘩で王都を封鎖した夫妻は今日も、概ね円満である。

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