副官殿、王女殿下を名前で呼べない。
王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉は、恋人ができてからというもの、人生で初めて知る種類の問題に次々と直面していた。
手を繋ぐタイミング。
別れ際、どこまで見送るべきか。
休日に会いたいと思った場合、それをどの程度前から伝えれば『重い男』にならずに済むのか。
軍務なら規定がある。 過去の事例もある。 最悪の場合、上官へ判断を仰げばいい。
しかし恋愛には、驚くほど何もなかった。
そして現在、最大の難題がひとつ。
「テオドール」
午後三時。第一大隊本部の中庭。
柔らかな陽射しの下、向かいのベンチに座ったシャルロットが紅茶のカップを置いた。
「はい、殿下」
「それ」
「……はい?」
「それよ」
白い指が、まっすぐ彼を指す。
テオドールは自分の軍服を確認した。 襟章、問題なし。釦、問題なし。書類も持っていない。
「何か不備が?」
「あるわ」
シャルロットは少し唇を尖らせた。
「私たち、恋人になったのよね?」
「はい」
即答だった。
そこだけは、もう迷わない。
互いに好意を伝え合い、休日には二人で出かけ、手も繋ぎ、ついには第一大隊と王宮を巻き込んだ『交際認識齟齬事件』の末、正式な交際まで申し込んだ。
「でしたら」
シャルロットは一度だけ視線を伏せた。
「二人きりの時くらい、名前で呼んでくださらない?」
テオドールの思考が止まった。
「……名前」
「ええ」
「殿下の?」
「ほかに誰がいるの?」
正論だった。
名前なら知っている。
シャルロット。
幼少期から王国民なら誰でも知っている、王女殿下の御名だ。
発音もできる。 過去に文書へ記載したことも数えきれない。
なのに。
「…………」
「テオドール?」
「少々お待ちください」
「名前を呼ぶだけなのに?」
「私にとっては非常に重大な行為です」
「どうして?」
どうして。
問われて初めて、テオドール自身も考えた。
『殿下』なら安全なのだ。
そこには身分があり、礼節があり、越えてはいけない線がある。
けれど『シャルロット』と呼んだ瞬間、その線が消える気がした。
王女ではなく、好きな女性になる。
――いや、もうとっくになっているのだが。
それを自分の口で認めるようで、どうにも落ち着かない。
「……善処します」
「軍務みたいに言わないで」
※
翌朝、午前七時四十分。
第一大隊副官席で、テオドールは一人、小さく口を動かしていた。
「シャ……」
止まる。
誰もいない。 もう一度。
「シャル……」
「何してるの?」
「っ!」
振り向けば、いつの間にかリリアが机の横にいた。
「リリアさん!」
「名前の練習?」
「いつからそこに」
「シャ、くらいから」
「ほぼ最初からではありませんか」
リリアは楽しそうに向かいの椅子へ座った。
「普通に呼べばいいのに。シャルロットって」
「あなたには分からないでしょう」
「分かるよ?」
意外な返答に、テオドールが瞬く。
リリアは頬杖をついた。
「名前って、特別な人に呼ばれると嬉しいもん」
その言葉に、昨夜のシャルロットの顔が浮かんだ。
少し期待して、少し恥ずかしそうで。
それでも自分から頼んでくれた。
「……そういうものでしょうか」
「うん。だから早く呼んであげなよ」
そこでリリアはにっこり笑った。
「シャル、とか」
「難易度を上げないでください」
「ロッティ?」
「勝手に愛称を増やさないでください」
「シャルちゃん」
「王女殿下です!」
執務室の奥で書類を確認していたアルベルトが、とうとう顔を上げた。
「朝から何を騒いでいる」
「テオがシャルの名前呼べないんだって」
「リリアさん!」
アルベルトは数秒、副官を見た。
「呼べばいいだろう」
「隊長」
「何だ」
「隊長はリリアさんを最初から自然に名前で呼べたのですか」
沈黙。
リリアがゆっくり夫を見る。
「アル?」
「仕事をしろ」
「最初、『お前』ばっかりだったよね」
「リリア」
「名前で呼んだ時、ちょっと目逸らした」
「記憶違いだ」
「耳も赤かった」
「リリア」
「声もちょっと低くなって――」
「その話は終わりだ!」
朝の執務室に怒声が響いた。
テオドールは静かに頷く。
「大変参考になりました」
「何がだ!」
※
問題が第一大隊全体へ広がるまで、それほど時間はかからなかった。
午前十時。
『副官殿、恋人を名前で呼べず』
十一時。
『現在、呼称変更訓練中』
正午。
なぜか賭けが始まった。
三日以内。 一週間以内。 一か月以内。
そして一人だけ『結婚後』へ賭けた兵士がいた。
「誰ですか」
背後から声がした。
食堂の一角が凍りつく。
テオドールが、賭けの一覧表を手に立っていた。
「誰が作ったのです」
沈黙。
「今なら自主申告で済ませます」
恐る恐る一人が手を挙げる。
「……自分です」
「そうですか」
テオドールは一覧表を見る。
「あなたは……」
「はい?」
「どこへ賭けました」
兵士の視線が泳ぐ。
「……結婚後です」
「午後の訓練、三周追加」
「私情では!?」
「私情です」
堂々としていた。
※
午後。
シャルロットが本部を訪れた瞬間、妙な空気を感じ取った。
兵士たちが自分を見る。
テオドールを見る。
時計を見る。
再び自分を見る。
「……テオドール」
「お気になさらず」
「何かあるでしょう?」
「ありません」
「では」
シャルロットが悪戯っぽく笑った。
「私の名前を呼んで?」
廊下の角から、兵士の頭が三つ出た。
テオドールのこめかみが動く。
「…………シャ」
三つの頭が少し前へ出る。
「シャル……」
さらに出る。
「…………殿下」
三つの頭が一斉に引っ込んだ。
「ああ……」
落胆の声。
「聞こえています!」
兵士たちは散った。
シャルロットは口元を押さえた。
「笑わないでください」
「ごめんなさい。でも、本当に呼べないのね」
「努力はしています」
「そうね」
笑っていたシャルロットの声が、少しだけ柔らかくなる。
「……少し、寂しいだけなの」
テオドールが顔を上げた。
「殿下?」
「恋人になったでしょう?」
シャルロットは自分のカップへ視線を落とした。
「私にとってあなたは、もう『ハインツ大尉』ではなくて、テオドールなの」
白い指がカップの縁をなぞる。
「だから私も、あなたにとって『王女殿下』だけではなくなったのだと……少し、実感してみたかったのかもしれないわ」
胸の奥を、不意に掴まれた気がした。
「でも、困らせたいわけではないの」
シャルロットは顔を上げ、いつものように微笑んだ。
「いつか自然に呼んでくれたら、それでいいわ」
その笑顔が優しいからこそ、テオドールには余計に堪えた。
※
夕刻。
王宮へ戻るシャルロットを正門まで送る。
いつもなら、どちらからともなく繋いでいた手は、今日は離れたままだった。
彼女が遠慮している。
自分が困るから。
数歩先を歩く淡い髪を見ながら、テオドールは思った。
この人はいつもそうだ。
王女だからと求めない。 自分の立場を使って何かを強いることもしない。
待ってくれる。
ならば待たせ続けることが誠実なのか。
「殿下」
シャルロットが振り返る。
「はい?」
違う。
その呼び方ではない。
テオドールは息を吸った。
軍議で数十人を前にしても、これほど緊張したことはない。
「……シャルロット」
彼女の目が、大きく開いた。
夕陽が二人の間へ長い影を落としている。
風が髪を揺らした。
ほんの数秒なのに、ひどく長く感じた。
「……もう一度」
シャルロットが言った。
頬が、少し赤い。
「もう一度、呼んで」
テオドールの胸が大きく鳴った。
「シャルロット」
今度は、さっきより自然だった。
彼女が笑う。
王女としてではなく。
ただ、好きな男に名前を呼ばれた一人の女性として。
「はい、テオドール」
その瞬間、テオドールはようやく分かった。
名前を呼ぶことで失うものなど、最初からなかった。
むしろ一歩、彼女へ近づける。
「……シャルロット」
「なあに?」
「いえ」
「用もないの?」
「……はい」
シャルロットが吹き出した。
「なら、何度でも呼んで」
彼女から手が差し出される。
今度はテオドールから、その指を取った。
※
翌朝、第一大隊本部。
掲示板に一枚の紙が貼られていた。
『祝・副官殿、王女殿下を名前で呼ぶ』
その下。
『昨日午後五時十二分、正門付近』
『呼称――シャルロット』
『確認回数――二回』
『その後、手繋ぎ確認』
「…………」
午前七時三十九分。
テオドールは無言で紙を見ていた。
「誰ですか」
静かになった。
「誰が時刻まで記録したのですか」
沈黙。
そこへリリアが現れる。
「あ、テオ。おはよう」
「リリアさん」
「名前で呼べたんだって?」
「なぜ知っているのです」
「セドから聞いた」
廊下の奥で、セドリックがそっと後退した。
「セドリック」
「……何だよ」
「こちらへ」
「俺、仕事あるから」
「こちらへ」
「先輩!」
セドリックは即座にリリアの背後へ避難した。
「助けて!」
「何したの?」
「俺は二回呼んだって言っただけ!」
「十分です!」
「時刻は俺じゃない!」
「では誰です!」
「僕」
反対側からユリウスが顔を出した。
手には小さな手帳。
「昨日たまたま見かけたから、時間を記録した」
「なぜ!」
「面白かったから」
「記録理由として最低です!」
ユリウスは肩を竦める。
「でもリリアにも教えた」
「なんで私を巻き込むの?」
「リリア、喜ぶと思って」
「喜んだ!」
「喜ばないでください!」
そこへアルベルトまで現れた。
「朝から何の騒ぎだ」
「隊長!」
テオドールは振り返った。
「この本部には、個人の私生活という概念が存在しないのですか!」
アルベルトが止まる。
リリアを見る。
リリアがにこっと笑う。
アルベルトは数秒沈黙し、副官の肩へ手を置いた。
「……諦めろ」
「隊長!?」
「俺も通った道だ」
妙に重かった。
※
午前九時十二分。
シャルロットが本部へやって来た。
いつものように視線が集まる。
だが今日は、テオドールも逃げなかった。
彼女を見る。
少しだけ息を吸う。
「おはようございます、シャルロット」
第一大隊本部が静まり返った。
シャルロットが、嬉しそうに笑った。
「おはよう、テオドール」
廊下の奥で、誰かが囁く。
「三回目」
「聞こえています」
兵士が逃げた。
シャルロットが笑う。
「大変ね、副官殿」
「誰のせいだと思っているのです」
「あら。私?」
「……いいえ」
テオドールは小さく息を吐いた。
それから、人目があることを承知のうえで、彼女の手を取った。
周囲が息を呑む。
以前の自分なら、絶対にしなかった。
けれど今は。
「行きましょう、シャルロット」
「ええ」
二人が歩き出す。
背後で兵士たちがざわめいた。
「四回目」
「手も繋いだぞ」
「昨日より自然だった」
「これは今日中に十回――」
テオドールが振り返った。
「全員、午後の訓練二周追加」
「まだ何もしておりません!」
「今しました」
「横暴です!」
「副官権限です」
シャルロットがとうとう声を上げて笑った。
※
その日の昼。
第一大隊本部に新たな通達が掲示された。
『副官および王女殿下の呼称回数を記録、集計、予測する行為を禁止する』
翌朝その下に、小さな紙が増えていた。
『昨日最終記録――十一回』
さらにその下。
『うち、用事もなく呼んだ回数――三回』
テオドールは無言で剥がした。
昼には復活していた。
もう一度剥がした。
夕方には二枚になっていた。
「……隊長」
「俺を見るな」
「まだ何も言っていません」
「分かる」
「どうすれば止まりますか」
アルベルトはしばらく考えた。
そして、遠い目をした。
「俺が知りたい」
そこへリリアが二人の間から顔を出す。
「テオ」
「何でしょう」
「今日、シャルって呼んでみたら?」
「呼びません」
「じゃあロッティ」
「もっと呼びません」
「シャルちゃん」
「絶対に呼びません!」
第一大隊本部に、珍しく副官の怒声が響いた。
その日の記録には、最後に一行だけ追記された。
『副官殿、王女殿下を名前で呼ぶことには成功。ただし愛称への移行は難航中』
翌朝、それを発見したテオドールによって、掲示板そのものが撤去された。




