副官殿、交際の申し込みだけがどうしてもできないにつき。
王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉には、ひとつだけ未完了の案件がある。
シャルロット王女殿下へ、正式に交際を申し込むこと。
期限も命令もない。軍務にも関係しない。 だが本人にとっては、下手な軍事作戦より難しかった。
「…………」
午前七時四十分。
テオドールは自席で、昨夜から数えて十二回目の決意を固めた。
今日こそ言う。
すでに互いの気持ちは確認している。
『殿下を、好きになったようです』
『私も好きよ』
休日には二人で出かけ、手も繋いだ。
ならば次に必要なのは、正式な交際の申し込み。
――私と、お付き合いいただけますか。
たったそれだけ。 第一大隊の年間予算書より短く、軍議の報告より簡潔だ。
問題は言葉そのものではない。
もし断られたら。 今の関係まで失ってしまうかもしれない。
シャルロットと過ごす時間は、テオドールにとって任務の合間の安らぎではなく、いつの間にか帰る場所になっていた。だからこそ、それ以上を望んで失うのが怖い。
シャルロットも同じだった。
テオドールとの時間は、王女ではなくひとりの女性として息をつける大切なもの。正式な恋人になれば、彼に王女の伴侶としての責任や周囲の視線を背負わせることになる。
互いを大切に思うからこそ、二人はあと一歩を踏み出せずにいた。
「副官殿」
「はい」
「その紙、逆です」
顔を上げると、新人兵が困った顔で立っていた。
報告書は見事に上下逆だった。
「……確認していました」
「逆さまで?」
「何か問題でも?」
「ありません!」
新人は逃げた。
テオドールは報告書を戻した。
今日こそ言う。
絶対に。
――言えなかったとしても、今日こそは。
※
午前九時十二分。
シャルロットが第一大隊本部を訪れた。
「おはようございます、テオドール」
顔を上げた瞬間、完璧だった表情が消えた。
「……おはようございます、殿下」
今日も綺麗だ。
淡い色のドレス。朝日に透ける髪。微笑む顔。 それだけで、軍務用に整えられていた思考が役立たずになる。
シャルロットも、彼を見た瞬間に胸が温かくなった。
整った軍服に隙のない姿勢。 けれど自分を見つけたときだけ、目元がわずかに和らぐ。
その特別さが嬉しい。 同時に、確かめる勇気が持てない。
「今日、お忙しい?」
「いえ。午前中は比較的余裕があります」
「よかった。少しだけ、お話ししても?」
好機だった。
二人で話す。 交際を申し込む。 承諾をもらう。
「もちろんです」
テオドールが立ち上がる。
部屋の隅で書類を読んでいたアルベルトが、ちらりと顔を上げた。 その隣には、いつの間にかリリアまでいる。
「テオ、今日こそ言うのかな」
「何をだ」
「付き合ってくださいって」
テオドールの足が止まった。
「リリアさん」
「なに?」
「聞こえています」
「あ」
シャルロットが瞬く。
「付き合って?」
「…………」
「何の話?」
シャルロットが首を傾げる。
「何でもありません」
「テオドール」
「何でもありません」
「二回言ったわね」
テオドールは逃げた。
正確には、そのままシャルロットを中庭へ案内した。 軍事用語では戦略的撤退。
アルベルトが書類から顔を上げる。
「副官」
「はい」
「今のは逃げただけだ」
「隊長まで黙っていてください!」
※
中庭。
二人は石造りのベンチに並んで座った。 距離は約四十センチ。
以前なら気にならなかった距離が、今は妙に近く感じられる。
「テオドール?」
「はい」
「さっきから、何か言いたそうだけれど」
来た。
テオドールは背筋を伸ばした。
「殿下」
「はい」
「私と――」
言え。
「私と」
シャルロットが待っている。
だが、もし答えが望むものではなかったら。 今までのようには会えなくなったら。
シャルロットも、彼の言葉を待ちながら祈っていた。
どうか無理をしていませんように。 王女だからではなく、シャルロットとして自分を見てくれていますように。
急かしたくはない。 けれど、隣にいたいという気持ちを隠し続けるのも苦しかった。
「……次の休日も、出かけませんか」
違う。
「ええ。喜んで」
シャルロットが笑う。
可愛い。
違う。そうではない。
テオドールは内心で頭を抱えた。
結局、正式な言葉は喉の奥へ押し戻された。
※
「言えなかったの?」
「言えませんでした」
食堂の隅で、リリアが呆れた顔をする。
「好きなんだよね?」
「はい」
「シャルも好きって言ってくれたよね?」
「はい」
「手も繋いだよね?」
「……はい」
「じゃあ何が怖いの?」
テオドールは答えられなかった。
両想いになれた。それだけでも十分幸運だった。
正式に恋人になれば、休日に会いたいと言え、手を繋ぐ理由も要らなくなる。
もしかすると『会いたかった』などと言われる可能性すら。
「…………」
「テオ?」
「少々お待ちください。今、想像したら処理能力が落ちました」
リリアが腹を抱えて笑う。
「両想いになったら余計ひどくなってる!」
「自覚しております!」
そこへアルベルトが通りかかった。
「何を騒いでいる」
「アル、テオが付き合ってって言えないんだって」
「先輩!」
アルベルトは副官を見る。
「言えばいいだろう」
「隊長には分かりません。隊長はリリアさんへ公開求婚までしているでしょう」
アルベルトの動きが止まった。
リリアがにやりとする。
「アル、プロポーズの時すっごく緊張してたよね」
「していない」
「手、震えてた」
「リリア」
「言葉も三回くらい――」
「その話はやめろ!」
食堂中が静まり返った。
テオドールは思った。 この人に相談したのが間違いだった。
※
午後三時。
王宮へ戻るシャルロットを、テオドールが正門まで送る。
二人きり。 今度こそ。
「殿下、少しよろしいでしょうか」
「もちろん」
「私は、殿下のことを――」
「……好きです」
「ええ。知っています」
「…………」
「私も好きよ」
テオドールの思考が停止した。
「大丈夫?」
「少々お待ちください」
シャルロットが笑う。
「あなた、最近そればかりね」
彼女が手を差し出す。 テオドールは迷いながらも、その手を取った。
指先から伝わる温度に、胸の奥が熱くなる。
この温度を失いたくない。 だからこそ、正式な言葉が怖い。
「次のお休み、楽しみにしています」
「……私もです」
結局、言えなかった。
※
翌朝。
「本日こそ言います」
午前七時四十一分。
なぜか執務室にはリリア、アルベルト、セドリック、ユリウスまでいる。
「昨日も聞きました」
「一昨日も言ってませんでした?」
「なぜあなたたちまで知っているのですか」
「リリアから」
「面白いから」
「面白くありません」
ユリウスが首を傾げる。
「でも、もう付き合ってるようなものじゃないですか?」
セドリックが足をぶらぶらさせながら無邪気に言う。
「違います」
全員がテオドールを見る。
「両想いで、手も繋いで、休日も二人で出かけているのに?」
「正式に交際の申し込みをしていません」
アルベルトが額を押さえた。
「お前は恋愛まで軍務のように処理するのか」
「大切なことでしょう!」
「本日、必ず申し上げます」
リリアがじっと見る。
「本当に?」
「本当です」
「絶対?」
「絶対です」
その日の午後。
――テオドールは言えなかった。
※
翌日。
昼休みの談話室で、リリアは向かいに座る二人を眺めていた。
シャルロットが話すたび、テオドールの表情が柔らかくなる。 テオドールが紅茶を注げば、シャルロットが嬉しそうに礼を言う。
どう見ても恋人だった。
「そういえば」
リリアは角砂糖をカップへ落とした。
「二人って、いつから恋人になったの?」
テオドールの動きが止まった。 シャルロットも止まる。
「え?」
「違うの?」
長い沈黙。
テオドールはゆっくりカップを置いた。
交際を先延ばしにした結果、曖昧なまま周囲を混乱させるという、さらに面倒な事態を招いてしまったらしい。
「……副官殿?」
廊下から兵士が顔を覗かせる。
「二人って、恋人じゃないの?」
テオドールとシャルロットは顔を見合わせた。
「…………え?」
その瞬間、別の兵士が駆け込んできた。
「大変です! 王宮から緊急の使者が――」
「何だ」
アルベルトが立ち上がる。
「シャルロット王女殿下とテオドール副官殿が、すでに交際中だという話が第一大隊中に広まっております!」
「…………」
「さらに、王宮にも届いたようでして!」
シャルロットの笑顔が引きつった。
テオドールは立ち上がる。
「誰が、どこまで、何を伝えたのですか」
「皆、別々の話をしておりまして!」
リリアが恐る恐る手を挙げる。
「たぶん、私が最初に……」
「リリア」
「でも、アルが隊長室で話してたのも聞かれてたみたいで」
「リリア」
「それからユリウスが、王宮の侍女さんに――」
「待て」
アルベルトの声が低くなる。
廊下の向こうから、さらに足音が近づいた。
「副官殿! 王宮からの使者が到着しました!」
「第一大隊長! 事情を説明してください!」
「殿下、陛下がお呼びです!」
「テオドール、どういうことなの!?」
シャルロットが振り返る。
テオドールは答えようとした。
だが、口から出たのはいつもの言葉だった。
「……少々お待ちください」
その直後、談話室の扉が勢いよく開いた。
王宮の使者、兵士たち、事情を聞きつけた貴族までが押し寄せる。
誰もが同じ疑問を口にした。
「お二人は、いつから恋人なのですか?」
テオドールとシャルロットは顔を見合わせた。
その瞬間、王国軍第一大隊を巻き込み、王宮まで揺るがす『交際認識齟齬事件』が幕を開けた。
第一報は三分後、第一大隊全域へ伝達された。
『王女殿下と副官殿、交際の事実を極秘裏に確認。現在、関係各所が対応中』
誰が出した報告かは不明だった。
ただし、軍隊において「極秘」と書かれた情報ほど広まるのが早い。
「続報です!」
伝令兵が駆け込んできた。
「お二人は本日、談話室にて重大な関係確認を行う予定だったとの情報が!」
「そんな予定はありません!」
「了解しました! 予定は未定、しかし交戦状態にはない、と記録しておきます!」
「何を記録しているのですか!」
別の兵士が駆け込む。
「王宮側から照会です! 殿下と副官殿の関係は、婚約前段階か、親密な友人関係か、軍務上の協力関係か、至急回答を求めています!」
「最後の選択肢は何ですか!」
「念のためです!」
さらに別の兵士が現れた。
「第一大隊第三中隊では、すでに『副官殿が王配候補に内定した』との認識が!」
「形成されるな!」
「第二中隊では『殿下が副官殿へ申し込んだが、副官殿が保留している』との説が有力です!」
シャルロットが目を見開く。
「私が申し込んだことになっているの?」
「殿下、申し訳ありません!」
テオドールが頭を下げる。
「なぜあなたが謝るの?」
「原因の一端は私にあります!」
「一端どころか、ほぼ全部では?」
リリアが小声で言った。
「リリア!」
「はい!」
「今後、情報の発信を禁止します!」
リリアはにこりとシャルロットに笑いかけた。
「それは軍規にある?」
「今から作ります!」
アルベルトが頭を抱えた。
「全員、静かにしろ!」
兵士たちが一斉に背筋を伸ばす。
「これより情報統制を行う。私的な推測、伝聞、願望、脚色を含む報告は禁止する!」
「了解!」
「特に『いつから恋人なのか』という質問を本人たちへ繰り返すことを禁ずる!」
一拍置いて、兵士のひとりが手を挙げた。
「では、いつから婚約予定なのかという質問は?」
「許可するな!」
「了解!」
王宮の使者が書類をめくる。
「陛下が『交際の申し込みをしていないのに、なぜ王宮まで騒ぎになっているのか』と」
テオドールは目を閉じた。
「……私にも分かりません」
「副官殿!」
また伝令兵が叫ぶ。
「王宮前に第一大隊の兵士たちが集結しております!」
「何のために!」
「交際成立の瞬間を見届けるためだそうです!」
「撤収させろ!」
「すでに見物人の列ができております!」
「なぜ王宮前で!」
「正門が最も格式高い場所だという判断です!」
「申し込むとは言っていません!」
「しかし本日こそ言うと、昨日おっしゃっていたと!」
テオドールはリリアを見た。
リリアは視線を逸らす。
「……情報源は複数だよ」
「あなたですね」
「私だけじゃないもん」
リリアが指を差す。
その先で、ユリウスがそっと後退していた。
「ユリウス」
「僕はただ、王宮の侍女さんに『今日こそ何かあるかも』と」
「それをなぜ伝えたのですか!」
「だって、何かありそうだったから」
「何もありません!」
「でも、今はありますよね」
「あなた方が作ったのです!」
シャルロットは額に手を当てた。
「テオドール。この状況、どう収拾するの?」
「まず、事実関係を整理します」
テオドールは軍議のように周囲を見回した。
「第一に、私と殿下は正式な交際関係ではありません」
「えっ」
兵士たちから声が上がる。
「第二に、互いに好意を伝え合ってはいます」
「おお……」
「第三に、休日に二人で出かけ、手を繋ぐこともあります」
「それはもう恋人では?」
「第四に、正式な交際の申し込みを私がまだ行っていません」
「なぜですか!」
「今、説明している途中です!」
「申し訳ありません!」
「第五に――」
テオドールは言葉を止めた。
シャルロットが隣で彼を見ている。
「第五に?」
アルベルトが促す。
テオドールは拳を握った。
ここまで来て、まだ逃げるのか。
「第五に、私は殿下に正式に申し上げたいことがあります」
室内の空気が凍った。
「テオドール?」
「はい」
テオドールは背筋を伸ばした。
もう先延ばしにはできない。
「殿下。私と――」
「全員、退室しろ!」
アルベルトが怒鳴った。
「これは私的な案件だ! 見物するな! 記録するな! 後世に語り継ぐな!」
兵士たちが一斉に退室を始める。
だが扉の外には、すでに人だかりができていた。
「副官殿は何と言った!?」 「交際成立か!?」 「まだ何も言っていない!」 「では不成立か!?」 「判断が早い!」
廊下の騒音は戦場のように膨れ上がる。
王宮の使者は頭を抱え、リリアは目を輝かせ、ユリウスは紙片に状況を書き留めていた。
「ユリウス、何をしているのですか」
「経過報告です」
「提出しないで!」
「嫌です。これは後で回覧します」
「回覧するな!」
シャルロットはとうとう吹き出した。
「ふふっ……もう、何なのかしら」
その笑顔を見て、テオドールの緊張が少しほどけた。
彼女は困っている。 けれど、怒ってはいない。
ならば。
「殿下」
「はい」
「改めて、申し上げます」
廊下の向こうで、誰かが息を呑んだ。
「私と、お付き合いいただけますか」
沈黙。
今度こそ、誰も口を挟まなかった。
シャルロットは目を瞬かせ、それから柔らかく微笑んだ。
「はい。喜んで」
扉の外から、地鳴りのような歓声が上がった。
「交際成立ーっ!」
「王女殿下と副官殿、正式に交際開始!」
「第一大隊、任務完了!」
「誰が任務と言った!」
アルベルトの怒声も歓声にかき消された。
王宮の使者は震える手で書類に記入する。
『本日、王女殿下とテオドール・ハインツ大尉の交際が正式に成立。第一大隊による長期観測の結果、両名の意思を確認』
「長期観測とは何ですか!」
テオドールが叫ぶ。
リリアが胸を張った。
「だって、ずっと見てたから」
「観測ではありません!」
「では、監視?」
「もっと悪いです!」
シャルロットはそっとテオドールの手を取った。
「これで、もう迷わなくて済むわね」
「……はい」
「ずいぶん大げさな交際の始まりになったわね」
テオドールは、押し寄せる兵士たちと、王宮へ走る伝令と、貼り出されようとしている『交際成立速報』を見た。
「……軍隊ですので」
その日の夕刻、第一大隊本部に正式な通達が掲示された。
『王女殿下とテオドール・ハインツ大尉の交際について、両名の意思確認が完了した。今後、未確認の噂を流布した者には厳重注意を与える』
その下には、誰かが小さく追記していた。
『なお、交際開始までの経緯については、各自の判断で自由に語ってよい』
翌朝には、第一大隊の兵士たちがそれぞれ異なる「公式見解」を持つようになっていた。
『副官殿が三度の決死の覚悟で申し込んだ』 『殿下が王宮の許可を得て交際を承認した』 『隊長が作戦指揮を執った』 『リリアが全体を統括した』 『実は最初から全員が知っていた』
どれも正確ではなかった。
しかし誰も訂正しようとはしなかった。
王国軍第一大隊を巻き込み、王宮まで揺るがした『交際認識齟齬事件』は、正式な交際成立という形で終結した。
ただし、後日提出された最終報告書の結論には、次の一文が記されていた。
『本件の主因は、当事者二名が互いに好意を抱きながら、正式な意思確認を長期間先送りしたことにある。今後同様の事案が発生した場合は、速やかに本人同士で確認を行うことを推奨する』
その報告書を読んだテオドールは、深く頷いた。
「まったく、その通りです」
隣でシャルロットが笑う。
「ほんとよ。あなたがもっと早く言ってくれていたら、こんな騒ぎにはならなかったのではなくて?」
「……返す言葉もありません」
「では、罰として」
シャルロットが手を差し出す。
「次の休日も、私と出かけてください」
テオドールはその手を取った。
「喜んで」
廊下の向こうで、誰かが叫んだ。
「続報! 次の休日、殿下と副官殿が再び密会予定!」
「密会ではありません!」
「交際継続を確認!」
「確認するな!」
第一大隊の鐘が、なぜか三度鳴った。
王国軍はその日、新たな作戦を開始した。
『副官殿と王女殿下の交際を、今度こそ正確に把握するための情報統制作戦』
なお、開始から半日で、全軍に新たな噂が広まった。
『二人は次の休日に婚約するらしい』




