隊長夫妻、夫婦喧嘩をしない日に限って周囲が怯える。
王国軍第一大隊には、危険を察知するための指標がいくつかある。
敵軍の移動。
王都周辺における不審者の増加。
情報局から届く緊急報告。
そして近頃、非公式に追加された項目。
『クロフォード夫妻が妙に静か』
危険度については、現在検討中である。
※
異変が確認されたのは、午前八時十三分だった。
第一大隊本部。
朝の報告を終えたアルベルト・クロフォードが執務室へ戻ると、そこにはすでにリリアがいた。
「おはよう、アル」
窓際のソファで、白銀の髪を朝日に透かしながら、機嫌よく紅茶を飲んでいる。
アルベルトは足を止めた。
「……どうやって入った」
室内の空気が張り詰める。
書類を整理していたテオドールも、わずかに手を止めた。
来た。
いつものやつである。
窓。
天井。
壁。
地下。
過去の実績から考えれば、その四択だった。
リリアはきょとんとした。
「正門から」
「……正門?」
「うん。ちゃんと許可証も見せたよ」
「そうか」
「警備の人にもおはようって言った」
「そうか」
アルベルトはそれ以上何も言わず、自分の机へ向かった。
リリアも紅茶へ戻る。
話が終わった。
テオドールは顔を上げた。
おかしい。
いつもならここから応酬が始まる。
『なぜ今日は正門なんだ』
『昨日アルが正門から入れって言ったから』
『珍しく素直だな』
『じゃあ次は窓にする?』
『そういう意味ではない!』
今日はない。
テオドールは眼鏡の位置を直した。
「……隊長」
「何だ」
「いえ」
まだ判断するには早い。
そう結論づけた副官は、リリアが正門から入った事実を、なぜか報告書の端に書き留めた。
※
午前九時二十六分、第二の異変が起きた。
「アル、これ見て」
リリアが一枚の書類を持ってくる。
「新人さんの訓練内容、考えてみたの」
アルベルトの眉が動いた。
前回の新人教育では、第三訓練場に用途不明の地下通路が発見された。
その犯人が目の前にいる。
警戒しながら紙を受け取る。
『危機察知訓練案』
一、周囲の確認。
二、死角の把握。
三、複数人で行動する際の相互警戒。
四、不審な物音を確認する際は単独行動を避ける。
五、床や壁に不自然な継ぎ目がないか確認する。
以上。
アルベルトは紙を裏返し、透かして見た。
何もない。
「どう?」
「……まともだな」
「でしょ?」
リリアは嬉しそうに笑った。
「地下から襲わないのか」
「アルが駄目って言ったから」
「梁から降りないのか」
「危ないって言ったから」
「壁は」
「壊さないよ?」
「床は」
「今日は壊さない」
アルベルトは訓練案へ署名した。
「これでいい」
「やった!」
リリアが素直に喜ぶ。
アルベルトの口元も、ごくわずかに緩んだ。
それを廊下から見ていた兵士二人が、そっと扉を閉じた。
「……おい」
「何だ」
「隊長、怒らなかったぞ」
「見れば分かる」
「奥方様も何も壊してない」
「見れば分かる」
「さっき、床の継ぎ目を確認してなかったか?」
「見なかったことにしろ」
「どうする?」
「分からん」
二人は青ざめた。
何も起きていない。
だから怖かった。
※
午前十時四十分。
噂は第一大隊本部の三割へ広がった。
『本日、隊長夫妻に口論なし』
午前十一時十五分、五割に広がる。
『奥方様、正門から入場』
午前十一時四十七分、ここで七割に。
『隊長、すでに二回笑ったとの情報あり』
昼休みを迎える頃には、内容が少し変質していた。
「何かあったらしい」
「何が?」
「分からない」
「喧嘩?」
「してない」
「じゃあ何があったんだ」
「だから分からないんだよ!」
兵士たちは混乱していた。
クロフォード夫妻が喧嘩をすれば、王都が封鎖されることがある。
リリアが弁当を届ければ、第一級警戒態勢になることがある。
二人が休日を過ごせば、偶然遭遇した兵士が翌日追加訓練になる。
つまり、何かが起きれば何かが起きる。
非常に分かりやすい。
だが今日は、何も起きていない。
「……嵐の前の静けさじゃないか?」
誰かが言った。
食堂が静まり返った。
「やめろ」
「でも考えてみろ。奥方様が朝から一度も隊長を怒らせてないんだぞ」
「あり得るのか?」
「昨日、地下を掘るなって言われてた人だぞ」
「もしかして、もう地下に何か仕掛けてあるんじゃ……」
全員が足元を見た。
床は普通だった。
ただ、食堂の隅の床板だけが、ほんのわずかに沈んだ。
誰も気づかなかった。
それが余計に怖かった。
※
午後一時。
テオドールのもとへ、兵士三名が相談に来た。
「副官殿」
「何でしょう」
「本日は訓練を中止したほうがよいのでは」
テオドールは書類から顔を上げた。
「理由は?」
三人は顔を見合わせた。
「……隊長夫妻が」
「仲良しです」
「非常に」
テオドールは数秒黙った。
「それの何が問題なのですか」
「分かりません」
「ですが怖いんです」
「理由の分からない恐怖が」
テオドールは眼鏡を押し上げた。
馬鹿馬鹿しい。
そう切り捨てるべきだった。
だが彼自身、朝から夫妻を観察している。
リリアは正門から入り、アルベルトの仕事を邪魔していない。
昼食も普通に食べ、食後には二人で紅茶を飲んでいた。
一度だけリリアがアルベルトの肩へ頭を乗せ、アルベルトも退かなかった。
平和。
あまりにも平和。
「……警戒だけは継続してください」
「副官殿!?」
「念のためです」
テオドールまで陥落した。
その直後、彼は本部の古い見取り図を取り出した。地下部分だけが、なぜか途中で途切れている。
※
午後二時十二分。
ついにアルベルトが異変に気づいた。
廊下を歩けば兵士が道を譲る。
普段から譲る。
だが今日は三メートル離れる。
訓練場へ出れば全員が必要以上に機敏に動き、食堂へ入れば会話が止まる。
「……何だ」
誰も答えない。
アルベルトの眉間に皺が寄る。
その瞬間一人が叫んだ。
「来た!」
「何がだ!」
「申し訳ありません!」
意味が分からない。
そこへリリアが駆けてきた。
「アル!」
周囲の兵士が一斉に身構えた。
アルベルトはますます険しい顔になる。
「何だ」
「これ」
リリアが差し出したのは、小さな紙袋だった。
「焼き菓子?」
「うん。さっき厨房の人にもらったの。アルの好きなやつが入ってたから取っておいた」
「……そうか」
アルベルトの眉間から皺が消える。
「ありがとう」
「一緒に食べよ」
「ああ」
周囲がざわめいた。
アルベルトが振り返る。
「何なんだ、お前たちは」
沈黙。
やがて、一番若い兵士が覚悟を決めた。
「隊長」
「何だ」
「本日、奥方様と一度も揉めておられません」
「……それがどうした」
「不安です」
アルベルトは黙った。
「何がだ」
「何か大きなことが起きるのではないかと」
「なぜそうなる」
「過去の統計からです」
誰かが答えた。
アルベルトのこめかみに青筋が浮かぶ。
「夫婦が喧嘩をしていないだけで、なぜ軍が警戒する!」
「アル」
リリアが袖を引いた。
「なんだ」
「みんな、私たちのことよく見てくれてるね」
「感心するところではない」
「でも嬉しい」
「喜ぶな」
いつもの調子が戻ってきた。
兵士たちの顔が明るくなる。
「……よかった」
「ああ」
「いつもの隊長夫妻だ」
アルベルトが振り返った。
「何がいつもだ!」
安堵の空気が広がった。
ようやく世界が正常に戻った。
※
午後三時。
テオドールは、一連の騒動について報告を受けていた。
「つまり」
眼鏡の奥で、青灰色の目が静かに細められる。
「隊長夫妻が一日仲良くしていたため、第一大隊全体の集中力が低下した、と」
「はい」
報告役の兵士は直立している。
「理由は?」
「異常事態への警戒です」
「異常事態とは」
「隊長夫妻が一日仲良くしていることです」
テオドールは額を押さえた。
胃薬の必要性について、真剣に検討した。
そのとき、廊下の床下から、かすかに三度、乾いた音が響いた。
兵士が振り返る。
「今の音は?」
テオドールは見取り図へ目を落とした。
「……古い配管でしょう」
そう言いながら、彼は報告書の余白に『地下の異音』と書き加えた。
※
午後五時。
アルベルトは帰宅の準備をしていた。
リリアが隣で待っている。
「今日、楽しかったね」
「お前は何もしていないだろう」
「ちゃんと正門から入ったよ」
「それは本来、褒められることではない」
「訓練案もまともだった」
「まともであることを自己申告するな」
「地下も掘ってない」
「当然だ」
「窓からも入ってない」
「当然だ」
「アルと喧嘩もしなかった」
アルベルトは手を止めた。
「……喧嘩したかったのか?」
「ううん」
リリアは笑った。
「今日はずっと一緒にいられたから」
あまりに素直な言葉だった。
アルベルトは一瞬だけ黙り、それからリリアの頭へ手を置いた。
白銀の髪を、乱さない程度に撫でる。
「なら、それでいい」
「うん」
廊下の向こう、帰宅途中の兵士四名がその光景を見た。
立ち止まる。
隊長が妻の頭を撫でている。
妻が幸せそうに笑っている。
今日一日、喧嘩なし。
全員の脳裏に、同じ言葉が浮かんだ。
明日、何か起きる。
「おい」
アルベルトの低い声が飛んだ。
四人が跳ねる。
「何を見ている」
「何も見ておりません!」
「帰れ!」
「はい!」
兵士たちは全力で逃げた。
リリアが首を傾げる。
「みんな今日、変だったね」
「誰のせいだと思っている」
「アル?」
「なぜ俺なんだ!」
「怒った」
「怒らせたのはお前だ!」
リリアが楽しそうに笑う。
その声を遠くで聞いた兵士たちは、心の底から安堵した。
大丈夫だ。
明日も王国は平和である。
おそらく。
※
翌朝。
第一大隊本部の掲示板に、新たな非公式警戒項目が貼られていた。
『クロフォード夫妻の状態による警戒基準』
口論あり――平常。
奥様逃走――第二級警戒。
隊長追跡開始――第一級警戒。
王都封鎖――国王へ報告。
終日円満――原因不明につき経過観察。
アルベルトは無言で紙を剥がした。
だがすぐに、元の位置に戻っていた。
もう一度剥がした。
昼には二枚に増えていた。
「テオドール」
「私ではありません」
「まだ何も聞いていない」
「先に申し上げておきます」
アルベルトは深く息を吸った。
その背後から、リリアが掲示板を覗き込む。
「アル、これ面白いね」
「面白くない」
「『終日円満』だって」
「読むな」
「今日も円満にする?」
アルベルトは答えなかった。
ただ、リリアの頭へ手を置き、掲示板から引き離す。
「帰るぞ」
「まだ朝だよ?」
「なら執務室へ行くぞ」
「手つないで?」
「本部では駄目だ」
「じゃあ腕」
「もっと駄目だ」
「けち」
「規律だ」
廊下の兵士たちが、ほっとしたように頷いた。
※
本日の第一大隊、異常なし。
なお、夫婦仲も極めて良好である。
それが一番の異常事態だと認識されていることだけを除けば。
そして、その日の夕刻、掲示板の隅に誰かが新しい一行を書き足した。
『妙に静かな日――最終警戒。静けさが続く限り、何かはすでに始まっている』
その夜、第一大隊本部の古い見取り図から、地下部分だけが切り取られていることにテオドールが気づいた。
切り口は新しかった。
※
翌朝、王都全域の鐘が鳴った。
敵襲ではなかった。
第一大隊本部の地下から、見覚えのない階段が見つかったのである。
階段の入口は、食堂の隅の床板の下に隠されていた。
兵士たちは一斉にリリアを見た。
リリアは首を傾げた。
「今日は掘ってないよ?」
アルベルトはゆっくりと彼女を見る。
「……今日は、か」
その瞬間、第一大隊の警戒基準が正式に改訂された。
終日円満――原因不明につき経過観察。
妙に静か――地下を確認。
さらに追加。
クロフォード夫妻が何もしていないと主張した場合――すでに手遅れ。




