白猫、第一大隊の新人教育を任される。
王国軍第一大隊には、毎年新兵が配属される。
厳しい選抜と基礎訓練をくぐり抜け、特に優秀と認められた者だけが第一大隊の門をくぐる。
つまり、彼らは精鋭の卵だ。
少なくとも、その日の朝までは全員がそう思っていた。
「本日の訓練について説明する」
午前八時。第一大隊本部、第三訓練場。
整列した新人十二名の前に立ったアルベルト・クロフォードは、隙のない軍服姿で彼らを見渡した。
新人たちの背筋が伸びる。
王国軍第一大隊長。若くして大隊を率いる、王国屈指の指揮官。
配属初日から聞かされてきた人物を前に、新人たちの表情には緊張と憧憬が入り混じっていた。
斜め後ろには、副官テオドールが書類を抱えて立っている。
ここまでは普通だった。
「今日は俺ではなく、特別講師に指導を任せる」
ざわり、と空気が揺れた。
アルベルトが視線を横へ向ける。
「入れ」
「はーい!」
明るい声とともに扉が開いた。
白銀の長い髪を揺らし、小柄な女性が入ってくる。
「こんにちは!」
新人十二名が固まった。
知っている。知らないはずがない。
第一大隊本部へ壁から侵入し、第一級警戒態勢を発令させた女。
元・王宮直属暗殺者。
かつて《白猫》の名で恐れられ、現在は第一大隊長の妻。
リリア・クロフォード。
「今日はよろしくね!」
可愛い。
あまりにも無邪気で、暗殺者の面影などどこにもない。
噂と一致しない。
《白猫》と聞けば、闇夜に紛れて標的の喉を裂く冷酷な暗殺者を想像する。
だが目の前にいるのは、朝から機嫌よく夫へ手を振り、敵意の欠片もなく笑う小柄な美女だった。
その笑顔のまま、どれほど静かに背後へ立てるのかを、新人たちはまだ知らない。
「アル、先生って何すればいいの?」
「そこからなのか」
アルベルトの眉間に皺が寄った。
「新人に危機察知と護身の基礎を教えてやってくれ。お前なら実戦的な内容を教えられるだろう」
「基礎ね」
「ああ。基礎だ」
念を押したのは、嫌な予感がしたからだった。
リリアは少し考え、ぱっと顔を上げた。
「分かった!」
無邪気な笑顔だった。
アルベルトの予感が確信に変わる。
「待て」
「じゃあ最初は、背後から首を切られそうになった時の避け方から――」
「待てと言っている」
「え? 基礎だよ?」
「お前の基礎は、一般兵にとって応用の最終試験だ」
「じゃあ、首じゃなくて足を狙うね」
「そういう問題ではない」
開始数秒。教育方針に修正が入った。
※
「まず大事なのは、死なないことです」
リリアは訓練場の中央で、木製の短剣を片手に説明していた。
新人十二名は真剣に聞いている。ここだけなら、まともな授業だった。
「戦うことより、危険に気づくほうが大事。強い人でも、寝てる時に刺されたら普通に死ぬからね」
新人たちが頷く。
「だから私は、寝る時は扉に糸を張って、窓に鈴を仕掛けて、枕の下に短剣を一本、ベッドの裏に二本――」
「待て」
「何?」
「一般兵はそこまでしない」
「え? じゃあ、どうやって寝るの?」
「普通に寝る」
「無防備すぎない?」
「軍本部だ」
「軍本部にも侵入できるよ?」
「お前を基準にするな」
第一級警戒態勢を引き起こした本人に言われると、説得力が違った。
「……続けろ。ただし、一般兵向けにだ」
「はーい」
リリアは素直に返事をした。
「じゃあ、扉に糸は張らない」
「そうだ」
「鈴も仕掛けない」
「そうだ」
「枕の下の短剣も一本だけにするね」
「減らす方向がそこなのか?」
「アル、一般兵向けって難しいね」
「お前が難しくしている」
リリアは首を傾げた。
「では皆さん。この中に暗殺者が一人います」
「「「え?」」」
新人十二名の顔色が変わった。
アルベルトも顔を上げる。
「リリア」
「危機察知訓練だよ」
「暗殺者を連れてきたのか?」
「連れてきてないよ?」
アルベルトが安堵する。
「私が暗殺者役」
安堵が死んだ。
「先に言え」
「今言ったよ?」
「そういう意味ではない」
※
訓練内容は単純だった。
新人十二名が訓練場の端から反対側まで歩き、その間にリリアが襲撃する。攻撃を察知できれば合格。
「簡単そうだな」
新人のひとりが余裕げに告げると横の一人が頷いた。
「十二対一だぞ。しかも木剣だ」
二人は知らなかった。
訓練場の外で、第一大隊の古参兵たちが気の毒そうに見守っていることを。
「始め!」
アルベルトの号令が響く。
新人たちが歩き出す。
最初の五歩では全員が前方だけを見ていた。十歩を過ぎると二人が振り返り、別の一人が梁を見上げる。
「……どこだ?」
十五歩。
「姿が見えないぞ」
互いの死角を埋めようと、自然に横一列へ広がる。
二十歩。
最後尾の新人の肩が、ぽん、と叩かれた。
「はい、死亡」
「うわああああ!?」
いつの間にか背後にリリアがいた。
「ど、どこから!?」
「上」
全員が見上げる。
訓練場の梁。高さ、およそ七メートル。
「そこにいたんですか!?」
「うん」
「どうやって登ったんですか!?」
「柱」
「柱に足場ありませんよ!?」
「あるよ?」
リリアが指差す。
「ここ、三ミリくらい出てる」
新人十二名が沈黙した。
アルベルトは目を閉じた。
「続けるよー」
「待て。今のは一般兵向けではない」
「でも、上を見たよ?」
「見ればいいという話ではない」
「じゃあ、次は見なくても分かるようにするね」
「それは絶対にやめろ」
二回目。
今度は全員が上を警戒した。
「上だ! 梁を確認!」
「死角を作るな!」
新人たちは慎重に進む。
背後、左右、天井。
一人が足を止め、風のない場所で揺れた布を指差した。
「今、何か動いた!」
「近づくな。囮かもしれない」
完璧だった。
少なくとも、彼らにはそう思えた。
「はい、死亡」
先頭の新人の腹部に木製短剣が当たっていた。
リリアは地面から現れたように、彼の足元にしゃがみ込んでいる。
「どこから!?」
「下」
「下!?」
地面に、小さな穴がある。
アルベルトのこめかみが動いた。
「リリア。いつ掘った」
「昨日。準備しておこうと思って」
「誰の許可を取った」
沈黙。
リリアがにこっと笑う。
「……アル?」
「俺は許可していない」
「じゃあテオ?」
突然巻き込まれたテオドールが書類から顔を上げる。
「私も許可していません」
「じゃあ誰だろう」
「お前だ」
「私だった」
「埋め戻せ」
「はーい」
リリアは穴へ入り、数分前まで誰も存在を知らなかった地下通路を軽い足取りで戻っていった。
新人教育開始から四十五分。
第三訓練場に、用途不明の地下通路が発見された。
犯人は講師だった。
そして処分を決める責任者は、その講師の夫だった。
「アル、これ埋めたら怒る?」
「怒る」
「埋めなくても怒る?」
「怒る」
「じゃあ、埋めてから怒られるね」
「そういう問題ではない」
「でも、埋めたら安全だよ?」
「お前が掘らなければ、最初から安全だった」
リリアは少し考えた。
「じゃあ、次は掘らないようにする」
アルベルトがわずかに安堵した、その直後。
「代わりに壁を抜くね」
「絶対にやめろ!」
※
昼前、新人十二名は地面に座り込んでいた。
「……俺たち、精鋭なんだよな」
「たぶん」
「一回も気づけなかった」
「俺なんて三回死んだ」
「俺は五回」
「途中から数えるのやめた」
少し離れた場所では、リリアがアルベルトの隣で水を飲んでいる。
「みんな頑張ってるね」
「お前が基準を上げすぎている」
「そう?」
「新人教育で天井と地下から襲撃する教官がどこにいる」
「ここ」
「そういう意味ではない」
アルベルトは深く息を吐いた。
しかし、訓練を止めようとはしなかった。
新人たちは疲弊している。だが、開始時とは目が違っていた。
歩く時は自然に周囲を見る。物音に反応する。互いの死角を補う。
誰かが背後を通るたび、反射的に半歩ずれて間合いを取る。
たった数時間で、意識が明らかに変わっていた。
「……効果はあるな」
リリアは聞き逃さなかった。
「褒めた?」
「事実を述べただけだ」
「褒めたよね?」
「調子に乗るな」
「アルが褒めてくれた!」
「聞け」
嬉しそうに腕へ絡みつこうとしたリリアの額を、アルベルトが片手で押さえる。
新人たちが見ていた。
隊長が《白猫》を片手で止めている。その顔は嬉しそうで、まるで褒められた子供だった。
だが新人たちは、つい数分前まで彼女が笑顔のまま全員の死角を抜いていたことを忘れていない。
「……隊長、すごくない?」
「そこ?」
古参兵が遠い目をした。
「お前らも、そのうち慣れる」
「何にですか」
「全部だ」
非常に重い言葉だった。
※
午後になり最後の訓練が始まった。
「最後は簡単だよ!」
新人十二名の顔が引きつる。もう誰も「簡単」という言葉を信用していない。
「私から逃げて、あそこにいるアルに触れたら勝ち」
新人たちの視線がアルベルトへ向く。
距離、五十メートル。遮蔽物なし。そしてリリアは丸腰。
いける。
「全員で行くぞ!」
「散開しろ!」
「誰か一人でも隊長に触れば勝ちだ!」
新人たちが走り出す。
今度は誰も一直線には進まなかった。
二人が左右へ広がり、三人が中央を進み、残りが互いの背後を確認する。
リリアは動かない。
十メートル。まだ動かない。
その顔には、遠足を楽しみにする子供のような笑みが浮かんでいた。
二十メートル。
「いける!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間、十二人の視界からリリアが消えた。
「え?」
一人目が転がる。二人目、三人目。
足を払われ、肩を押され、進路を塞がれる。
気づけば、次々と地面へ転がされていた。
リリアは笑っていた。
遊んでいるような無邪気な表情のまま、誰一人傷つけず、一歩も通さない。
だが、最後の一人が抜けた。
「隊長ぉぉぉ!」
必死の形相でアルベルトへ走る。
あと五メートル。三メートル。一メートル。
手を伸ばす。
「残念」
耳元で声がした。
新人の背後に、リリアがいた。
いつ追いつき、いつ回り込んだのか。誰にも見えなかった。
リリアは襟を掴み、くるりと方向を変える。
勢いを殺された新人は、その場へ座り込んだ。
「終了ー!」
明るい声が訓練場に響く。
十二人全滅。所要時間、二十七秒。
静寂。
やがて一人が、地面に寝転がったまま尋ねた。
「……隊長」
「何だ」
「どうやってこの人捕まえたんですか」
アルベルトが黙った。
リリアも、古参兵たちも黙った。
非常に難しい質問だった。
「……まだ完全には捕まえていない」
「アル?」
「事実だろう」
「妻だよ?」
「それとこれとは別だ」
リリアが頬を膨らませる。
「じゃあ、今から逃げるね」
「逃げるな」
「捕まえられる?」
「そういう話をしているんじゃない」
「でも、訓練だよ?」
「お前の訓練は、俺の胃に悪い」
新人たちは思った。
王国軍第一大隊は、王国最強クラスの部隊だと聞いていた。
違った。
もっとおかしい場所だった。
※
翌朝、新人十二名は昨日より十五分早く訓練場へ集合した。
周囲を確認し、梁を確認し、地面まで確認してから整列する。
それを見たテオドールが静かに頷いた。
「成果は出ていますね」
「……認めたくはないがな」
アルベルトも腕を組む。
「おはよー!」
壁の上から声がした。
新人十二名が反射的に散開する。
全員が武器へ手をかけた。
リリアが壁の上で目を丸くする。
「すごい!」
ぱっと笑った。
「昨日より強くなってる!」
新人たちの顔に少しだけ誇らしさが浮かぶ。
アルベルトもほんのわずかに口元を緩めた。
悪くない。
方法には大いに問題がある。教育課程として正式採用するつもりは絶対にない。
だが、新人たちは一日で危険を見る目を覚えた。
元《白猫》。王国最凶と呼ばれた暗殺者。
その経験が、今は誰かを殺すためではなく、若い兵士を生きて帰すために使われている。
無邪気に笑いながら、誰よりも早く危険を見つけ、誰よりも正確に無力化する。
その落差こそが、彼女にしか教えられないものだった。
そう思えばアルベルトとしても悪い気はしなかった。
「リリア」
「なに?」
「今日は正門から入れ」
「えー」
「教育以前の問題だ」
「でも新人さん、壁も警戒できるようになったよ?」
「お前のせいだ!」
新人十二名が、一斉に頷いた。
「じゃあ、正門から入るね」
リリアが素直に答えた。
アルベルトがわずかに肩の力を抜く。
「分かればいい」
「正門の下から」
「何でだ!」
新人十二名が、今度は一斉に地面を見た。
リリアは満足そうに笑った。
「ほら、みんな地下も警戒できてる」
アルベルトは額を押さえた。
「お前は新人教育を口実に、俺を困らせたいだけではないのか」
「違うよ?」
「なら、なぜ毎回俺が困る」
「アルが困ってると、みんなが危険に気づくから」
「俺を教材にするな」
「でも、分かりやすいよ?」
「何がだ」
「アルが怒ると、危険」
新人たちは、深く頷いた。
※
第一大隊新人教育課程には、新たな項目が非公式に追加された。
『上方警戒』
『地下警戒』
『背後警戒』
『窓警戒』
『隊長夫人警戒』
最後の一項だけはアルベルトによって即座に削除されたが、翌日には誰かの手で復活していた。
さらに、その横には小さな文字でこう追記されていた。
『※笑顔でも油断しないこと』
それを発見したリリアは大いに喜び、アルベルトは頭を抱え、テオドールは無言で胃薬の在庫を確認した。
「テオ、胃薬っておいしい?」
「味わうものではありません」
「アルも飲む?」
「俺はまだ必要ない」
「昨日もそう言ってたよ?」
「昨日の話はするな」
「じゃあ、今日の分を先に飲む?」
「予防で飲むものでもない」
「でも、危険は早めに気づいたほうがいいよ」
テオドールは静かに胃薬を二錠取り出した。
「隊長。予防は大切です」
「お前まで何を言っている」
こうして第一大隊の新人十二名は、配属二日目にして一つの重要な教訓を学んだ。
この本部で生き残るために必要なのは、剣の腕でも体力でもない。
常識を捨てることである。
なお、その教育方針について隊長本人に尋ねたところこのような回答が得られた。
「そんなものを教えた覚えはない」
その直後に壁の向こうからリリアの声が響く。
「アルー! 正門の下、掘っていい?」
「駄目だ!」
「まだ掘ってないよ?」
「掘る前に聞くな!」
「じゃあ、聞いたからいい?」
「よくない!」
第一大隊は今日も順調に精鋭を育成している。




