第一大隊、隊長夫妻の休日に遭遇してしまったにつき。
王国軍第一大隊の兵士たちは、アルベルト・クロフォードという男をよく知っている。
時間には厳しい。
規律には、もっと厳しい。
訓練中の妥協は許さず、装備の不備を見逃さず、報告書の誤字を三行目で発見する。
笑わないわけではない。
ただ、第一大隊の若い兵士たちの間では、
『隊長の笑顔を見た者は、その直後に追加訓練を命じられる』
という、ほとんど怪談のような噂があった。
もちろん事実ではない。
たぶん。
ただ、隊長が妙に機嫌よく笑った翌日には、なぜか訓練時間が延びる。
そのため兵士たちは、笑顔よりも、その後に待つ追加訓練を恐れていた。
そんな彼らがその日、見てはいけないものを見た。
※
休日の王都中央広場。
抜けるような青空の下、噴水の周囲には家族連れや恋人たちが行き交い、通りには焼き菓子や香辛料の甘い匂いが漂っていた。
第一大隊所属の若い兵士三人も、珍しく揃った非番を満喫していた。
目的は昼食。
それだけだった。
「あそこの肉料理、量が多いらしいぞ」
「昨日の訓練で死にかけたから、肉が食いたい」
「死にかけた原因は、お前が隊長の前で『あと五分くらい早く終わりません?』って言ったからだろ」
「あれは失言だった」
「遺言になるところだったな」
笑いながら大通りへ差しかかった、その時だった。
先頭の兵士が突然立ち止まり、後ろの二人が背中へ衝突する。
「痛っ。何だよ」
「……あれ」
震える指の先を二人も見る。
そして、固まった。
「…………隊長?」
いた。
アルベルト・クロフォードが。
軍服ではない。濃紺の上着に白いシャツ、黒いズボンという簡素な私服姿で、休日の人混みを歩いている。
それだけなら問題はない。
第一大隊長にも、休日くらいある。
問題は、その隣だった。
「アル、見て!」
白銀の髪が陽光を弾く。
淡い紫のワンピース姿のリリアが露店の前で立ち止まり、夫の袖を引っ張っていた。
「走るな。転ぶぞ」
「走ってないよ」
「今、走った」
「三歩だけ」
「歩数の問題ではない」
いつものやり取りだ。
兵士たちは安堵した。
「なんだ。いつもの隊長じゃないか」
「奥方様相手でも厳しいんだな」
「規律の男だ」
安心するのが早すぎた。
「アル、これ食べたい」
リリアが指差したのは、蜂蜜をたっぷりかけた焼き菓子だった。
アルベルトが眉を寄せる。
「さっき菓子を食べただろう」
「食べた」
「その前にも果物を食べていたな」
「食べた」
「昼食前だぞ」
「知ってる」
「なら我慢しろ」
「はーい」
意外にも、素直に引き下がった。
兵士たちは頷く。
「やはり隊長だ」
「奥方様にも容赦ない」
頷いたその足で、アルベルトが焼き菓子を二つ買った。
「「「…………」」」
追いついたアルベルトがその一つをリリアへ差し出す。
「ほら」
「えっ、いいの!?」
「半分は昼食後にしろ」
「アル大好き!」
「大声で言うな」
言いながら、アルベルトはわずかに顔を背けた。
耳の先が赤い。けれど差し出した手は引っ込めず、リリアが受け取りやすいよう包みの向きをそっと整えている。
「……それ、アルの分は?」
「俺はいい」
「でも二つ買ったよね?」
「お前が残したら食べる」
「残さないよ」
「なら、俺の分はないな」
ぶっきらぼうに言いながら、口元だけがほんの少し緩む。
兵士の一人が震えた。
「……今の、何?」
「分からん」
「『我慢しろ』って言ったよな?」
「言った」
「十秒前に」
「言った」
三人は顔を見合わせた。
世界にはまだ、自分たちの知らないアルベルト・クロフォードがいるらしい。
※
そこで帰ればよかった。
しかし、人間は未知を前にすると好奇心に負ける。
ましてや相手は、普段一分の遅刻すら見逃さない上官なのだ。
「……もう少しだけ見る?」
「見る」
「俺も」
尾行が始まった。
なお、相手の妻は元暗殺者である。
開始二分で、気づかれていた。
「アル」
「何だ」
「後ろに三人いる」
「知っている」
「どうする?」
「放っておけ。休日まで部下を叱る気はない」
その言葉を三人はもちろん聞いていない。
距離は二十メートル。本人たちは完璧に隠れているつもりだった。
リリアは笑いを堪えながら前を向いた。
「優しいね」
「普通だ」
「じゃあ私にも優しくして」
「十分している」
「もっと」
「要求するな」
そう言いながら、アルベルトの両手には荷物が六つ。リリアは手ぶらだった。
宝飾店の小箱、紅茶、焼き菓子、花、猫の形をした置物、先ほど買った果物。
兵士たちが固まる。
「隊長が……荷物を全部持ってる」
「奥方様、何も持ってないぞ」
「俺たちが遠征で荷物を一個増やした時、『自己管理も任務の一部だ』って言われたんだけど」
「思い出させるな」
その時、リリアが荷物へ手を伸ばした。
「一個持つよ?」
「いい」
「重いでしょ」
「この程度で重いわけがない」
「でも」
「お前は人混みで勝手に消えるから、俺の袖でも掴んでいろ」
「はーい」
素直に袖を掴む。
アルベルトの歩調が自然に遅くなり、人とすれ違うたび、荷物を持つ腕を外側へ回してリリアを内側へ庇った。
「……袖、そんなに離したくないの?」
「人混みではぐれるなと言った」
「手を繋いでもいい?」
アルベルトの足が止まる。
「……袖で十分だろう」
「嫌?」
「そうは言っていない」
彼は荷物を片腕にまとめ、空いた手を差し出した。視線は向けない。指先だけがわずかに緊張している。
リリアがその手を取ると、アルベルトは一度だけ握り直した。
「離すなよ」
「うん」
「絶対に」
「アルのほうが離さないでね」
「……分かっている」
三人の兵士は物陰で沈黙した。
「……俺、今すごいもの見てる気がする」
「俺も」
「隊長って、奥方様に甘くない?」
残る二人が、同時に口を塞いだ。
「馬鹿! 口に出すな!」
「聞こえたら殺されるぞ!」
聞こえていた。
アルベルトの眉間に皺が寄り、リリアは肩を震わせている。
※
決定的な事件が起きたのはその少し後だった。
広場の端の小さな花屋で、リリアが白い花の前に足を止める。
「綺麗」
「欲しいのか」
「ううん。見るだけ」
そう言って歩き出したリリアを、アルベルトは一瞬だけ見送った。
「それを一本」
即買った。
兵士三人が同時に胸を押さえる。
「嘘だろ……」
「隊長が花を……」
「何の作戦だ?」
「妻に花を買う作戦だろ」
「そんな作戦があるか!」
ある。
現在進行中の作戦だ。
アルベルトはリリアに追いつくと、無言で花を差し出した。
「ん?」
「欲しかったんだろう」
「見るだけって言ったよ?」
「だから何だ」
リリアは花と夫を交互に見て、どうしようもなく嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
その笑顔を見たアルベルトの目元が、ほんの少し柔らかくなる。
リリアが花を胸元へ抱くと、アルベルトは視線を逸らしながら、髪に落ちていた小さな花びらを指先で払った。
「……髪についていた」
「花をくれたから?」
「風で飛んできただけだ」
「じゃあ、もう一回つけて」
「何を言っている」
「アルに取ってほしいから」
アルベルトは返事をしなかった。
ただ、困ったように眉を寄せ、何もついていない髪を名残惜しそうに撫でてしまう。
「……これでいいだろう」
「うん。もっと嬉しい」
「そういうことを、簡単に言うな」
「どうして?」
「……調子が狂う」
リリアが目を丸くする。
アルベルトはしまったという顔で横を向いた。
「アル、照れてる?」
「照れていない」
「顔、赤いよ」
「花粉のせいだ」
「花粉なんて飛んでないよ?」
「リリア」
三人には致命傷だった。
「……笑った」
「隊長が?」
「今、笑った」
「嘘をつけ」
「口元見ろ!」
「見るな! 見たら消される!」
「隊長の笑顔を見たら追加訓練って噂、本当だったらどうする!」
混乱のあまり、声量が上がった。
アルベルトが振り返る。
三人も止まる。
目が合った。
「「「…………」」」
三人は直立不動になった。
「こんにちは、隊長!」
声が裏返る。
「奇遇ですね!」
「我々も今来たところです!」
何が今なのかは誰にも分からない。
アルベルトは無言で三人を見る。
その隣からリリアがひょこっと顔を出した。
「ずっとついてきてたよね?」
「奥方様!?」
「最初の角から」
「そんな早く知ってた!?」
「うん」
元《白猫》を尾行した勇気だけは評価してもいい。
技術は零点だった。
アルベルトが深いため息をつく。
「休日に何をしている」
「社会勉強です!」
「散歩です!」
「偵察――」
三人目の口を、二人が塞いだ。
遅かった。
「偵察?」
声が低くなる。
「違います、隊長!」
「何が違う」
「我々は決して、隊長が奥方様に焼き菓子を買ったり、荷物を全部持ったり、花を贈ったり、笑ったりしたところを観察していたわけでは――」
「全部見てるじゃないか」
リリアが笑った。
アルベルトは片手で顔を覆った。
もう遅い。
明日の本部で何が起きるか、容易に想像できた。
「アル」
リリアが楽しそうに袖を引く。
「何だ」
「恥ずかしい?」
「違う」
「耳、赤いよ?」
「暑いだけだ」
「今日、涼しいよ?」
「リリア」
三人の兵士は震えながら思った。
知ってはいけない。
本部の第一大隊長と、休日のアルベルト・クロフォードは、同一人物ではない。
「お前たち」
三人が跳ねる。
「はい!」
アルベルトは静かに告げた。
「今日見たことは忘れろ」
「はい!」
完璧な返事だった。
ただし、その返事が完璧すぎたせいで、三人とも翌日の追加訓練を確信していた。
※
翌朝、第一大隊本部。
「聞いたか?」
「何を?」
「隊長、休日は奥方様の荷物を全部持つらしいぞ」
「花も買うって」
「菓子も」
「笑うらしい」
「笑う!?」
噂は本部全体へ広がっていた。
アルベルトが執務室へ入る。
全員が一斉に黙った。
「……何だ」
「何でもありません!」
見事に揃った。
テオドールだけが書類から顔を上げる。
「隊長」
「何だ」
「昨日はよい休日だったそうで」
アルベルトの目が細くなる。
「……誰から聞いた」
「現在、本部の約七割が知っています」
「忘れろと言ったはずだ」
「人の記憶に命令するのは難しいかと」
正論だった。
その時、執務室の扉が開く。
「アルー!」
リリアだった。
手には包みを持っている。
「昨日のお菓子、半分残しておいたから一緒に食べよ!」
全員の視線がアルベルトへ集中した。
沈黙。
逃げ場はない。
アルベルトは目を閉じ、数秒だけ耐えたあと、妻から包みを受け取った。
「……昼休みにな」
「うん!」
リリアが嬉しそうに笑う。
兵士たちは確信した。
噂は事実だった。
王国軍第一大隊長アルベルト・クロフォード。
規律に厳しく、妥協を許さず、部下から恐れられる王国屈指の指揮官。
ただし、休日に限り、妻の荷物を持ち、菓子を買い、花を贈り、歩幅を合わせ、人混みから庇い、手を繋ぎ――たまに笑う。
その日の午後、第一大隊では、予定になかった追加訓練が一時間実施された。
理由について、アルベルトは最後まで言い張った。
「最近、隊員の集中力が不足している」
なお、参加した兵士たちは全員『絶対、照れ隠しだ』と思っていたが、それを口に出す勇者は一人も現れなかった。
ただ、訓練終了の号令がかかった直後、アルベルトの口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
それを見た兵士たちは、反射的に背筋を伸ばした。
「……今、笑いましたよね」
誰かが、うっかり呟いた。
全員が凍りつく。
アルベルトはゆっくり振り返った。
「そうか」
低い声だった。
「笑顔を見抜ける程度には集中力が戻ったようだな」
兵士たちの顔から血の気が引く。
「明日から、追加訓練は二時間にする」
「「「やっぱり照れ隠しだったんですか!?」」」
第一大隊の全員が叫んだ。
アルベルトは耳まで真っ赤にして、即座に怒鳴った。
「違う!」
その否定が、これまでで一番分かりやすい照れ隠しだった。




