第一大隊長、妻の昔の恋愛事情を聞いてしまったにつき。
王国軍第一大隊長、アルベルト・クロフォードには、妻の過去を詮索する趣味はない。
少なくとも、本人はそう思っている。
リリアがかつて王国最凶と恐れられた暗殺者《白猫》だったことも、数え切れないほど危険な任務をこなしてきたことも知っている。彼女が話したくないことを無理に聞き出すつもりもなかった。
過去は変えられない。
大切なのは今だ。
そう考えている。
だから。
「奥方様ほどお綺麗なら、昔は相当おモテになったんでしょうね」
昼休みの食堂で若い兵士が何気なく放ったその一言にも、アルベルトは反応しなかった。
正確には手にしていた紅茶のカップが、一ミリだけ止まった。
「え?」
向かいでアルベルトの昼食を勝手につまんでいたリリアが、きょとんとする。
「私?」
「はい。そりゃもう、男が放っておかなかったんじゃないですか?」
「うーん」
リリアは真剣に考え始めた。
アルベルトは書類へ視線を落とした。
興味はない。
まったくない。
妻の過去に誰が好意を寄せていようが、現在の夫は自分だ。
極めてどうでもいい話だ。
「そういえば、何人かいたかも」
書類をめくる指が止まった。
「何人か?」
別の兵士が身を乗り出す。
「どんな人です?」
「覚えてない」
「一人くらい!」
「んー……」
リリアがフォークをくるくる回す。
「任務先の貴族の息子に、結婚してほしいって言われたことはあるよ」
アルベルトのペン先が紙を貫いた。
沈黙。
隣に座っていたテオドールが、静かにその穴を見る。
「隊長」
「何だ」
「書類が」
「紙が薄かった」
王国軍正式採用品である。
かなり厚い。
テオドールは賢明にも黙った。
「でも、その時は仕事中だったから」
「お断りしたんですか?」
「ううん」
リリアは笑った。
「その人のお父さんを殺しに行ってたから、それどころじゃなくて」
「…………」
食堂から恋愛の気配が消えた。
「奥方様」
兵士が青ざめる。
「恋愛話の途中に暗殺を挟まないでもらえます?」
「だって昔の話を聞いたのそっちじゃん」
正論だった。
アルベルトは額を押さえた。
妻の過去を聞けば、高確率で人が死ぬことを忘れていた。
「ちなみに、その話ならもう少し詳しく知っていますよ」
不意に、聞き覚えのある声が割り込んだ。
アルベルトの眉間に深い皺が刻まれる。
振り返る必要すらなかった。
食堂の入口には、王宮情報局のユリウスが立っていた。
「先輩!」
その隣から、もう一人が顔を出す。
かつてリリアと同じ世界にいた後輩、セドリックだった。
満面の笑みで手を振っている。
アルベルトは二人を見た。
それから静かに目を閉じた。
嫌な予感しかしない。
「……なぜ二人揃っている」
「情報局への報告帰りです」
「僕はユリウスさんに連れてこられました!」
「帰れ」
「まだ何もしてませんよ?」
「これからするだろう」
確信だった。
ユリウスは肩をすくめ、そのまま空いている椅子を引く。セドリックも当然のようにリリアの隣へ座った。
「何の話をしてたんです?」
「リリアの昔の恋愛事情です」
若い兵士が答えた。
セドリックの顔が輝いた。
ユリウスも笑った。
アルベルトだけが無表情になった。
「ちょうどいいところに来ましたね」
「最悪のところに来た」
「白猫時代のリリアなら、結構口説かれてましたよ」
「ユリウス」
「黙れ」
リリアとアルベルトの声が同時に飛んだ。
「夫婦って似ますね」
「似てない」
「似ていない」
また重なった。
テオドールがそっと視線を逸らす。
「たとえば西部潜入任務の時」
「セド」
「商家の跡取り息子がリリアに一目惚れして、毎日花束を贈ってきましたね」
アルベルトのペンが二本目の犠牲になった。
ぱきり、と乾いた音が食堂に響く。
兵士たちが一斉に姿勢を正した。
「隊長」
テオドールが静かに声をかける。
「ペンが」
「古かった」
今朝支給された新品だった。
誰も指摘しなかった。
「ありましたねえ」
ユリウスまで懐かしそうに頷いた。
「先輩、花束を見て『これ、毒入ってる?』って最初に聞いたんですよ」
「だって知らない人が毎日物を送ってくるんだよ? 警戒するでしょ?」
「普通は恋を疑います」
「私は毒を疑う」
「知ってます」
アルベルトは黙って紅茶を飲んだ。
そこはもう驚かない。
非常に妻らしい。
問題は、その前だ。
「……毎日?」
低い声が落ちた。
ユリウスの口元が上がる。
「おや」
「何だ」
「興味ないんじゃなかったんですか?」
「確認しただけだ」
「三週間くらいでしたっけ?」
「二十二日です」
後輩が即答した。
アルベルトのカップが止まった。
「なぜ正確に覚えている」
「最後のほう、花瓶が足りなくなったので」
「全部飾ったのか?」
「先輩が『花に罪はないから』って」
アルベルトがリリアを見る。
リリアは首を傾げた。
「綺麗だったよ?」
「……そうか」
「アル、なんでちょっと嫌そうなの?」
「嫌ではない」
「眉間すごいよ?」
「通常だ」
「いつもより二本多い」
「皺を数えるな」
ユリウスが肩を震わせた。
さらにセドリックが、悪意なく追撃する。
「でも、それくらい普通でしたよ。任務先で告白されるなんて日常茶飯事でしたし」
アルベルトの視線がゆっくり動く。
「日常茶飯事?」
「酒場への潜入で一晩六人とか」
「舞踏会なら十二人いましたね」
ユリウスが補足する。
「市場では三人。あと女性が二人」
「そうそう」
二人の証言が妙に噛み合っている。
アルベルトの手元で、三本目のペンが軋んだ。
テオドールが無言で手を差し出した。
「何だ」
「ペンをこちらへ」
「なぜだ」
「備品保護です」
アルベルトは数秒黙り、素直に渡した。
賢明な副官だった。
「でも、先輩は全部断ってましたよね」
後輩が何気なく続けた。
アルベルトの視線が、ほんのわずかに上がる。
「そうなの?」
兵士が尋ねると、リリアはケーキの最後の一口を食べながら頷いた。
「だって興味なかったし」
「一人も?」
「うん」
「好きな人とかも?」
「いなかったよ」
アルベルトが顔を上げた。
リリアはその視線に気づくと、紫の瞳を瞬かせる。
「何?」
「……いや」
「アル、さっきから変だよ」
「変ではない」
「じゃあ、なんで私が口説かれた話をするたびに物が壊れるの?」
核心だった。
食堂中が静まり返る。
ユリウスが口元を押さえる。
セドリックは笑いを堪えている。
兵士たちは全力で耳だけをこちらへ向けている。
テオドールは書類を読み始めた。
逃げた。
「もしかして」
リリアが身を乗り出す。
「嫉妬?」
「違う」
即答だった。
「早い」
「違うものは違う」
「じゃあ、私が昔誰かと付き合ってても平気?」
「…………」
長い沈黙。
リリアの口元が、ゆっくり上がった。
「アル?」
「……過去のことだ」
「うん」
「俺が口を出すことではない」
「うん」
「だから問題ない」
「そっか」
リリアは頷いた。
「じゃあ昔、恋人が三人いたって言っても?」
アルベルトの椅子が鳴った。
立ち上がりかけた。
食堂全員が見た。
「三人?」
「嘘」
「リリア!」
リリアが腹を抱えて笑い出す。
「ご、ごめん! アル、顔!」
「お前……!」
「だって絶対嫉妬してる!」
「していない!」
「してるよ!」
「していない!」
「じゃあ何で立ったの?」
「……姿勢を変えただけだ」
「勢いよく?」
「そうだ」
苦しすぎた。
ついに兵士の一人が吹き出し、それをきっかけに食堂のあちこちから咳に偽装した笑い声が漏れた。
アルベルトが睨む。
一瞬で静かになった。
リリアだけは笑っている。
やがて彼女は目尻の涙を拭うと、アルベルトの袖をちょんと引いた。
「でもね、アル」
「何だ」
「本当にいなかったよ」
先ほどまでとは違う、柔らかな声だった。
「何が」
「好きな人」
アルベルトが黙る。
リリアは少しだけ照れたように、それでも真っ直ぐ彼を見る。
「誰かと一緒にいたいとか、その人が笑ったら嬉しいとか、会えないと寂しいとか。そういうの、昔は全然分からなかった」
暗殺者だった頃。
人は依頼人か、標的か、敵か、それ以外か。
好意を向けられても、リリアにはその意味がよく分からなかった。
けれど。
「初めてだったよ」
「……何がだ」
「アルを好きになったの」
今度こそアルベルトは完全に黙った。
耳が赤い。
明確に赤い。
リリアの顔がぱっと明るくなる。
「照れた!」
「照れていない」
「赤い!」
「暑いだけだ」
「さっき照明のせいって言ったよ?」
「黙れ」
「アル、こっち見て」
「見ない」
「好き?」
「聞くな」
「私は好き!」
「知っている!」
食堂中の視線が集まっている。
それでもリリアは楽しそうに彼の腕へ抱きついた。
「ねえ、アル」
「今度は何だ」
「私の初恋がアルで嬉しい?」
「…………」
アルベルトは長い沈黙の末、妻の頭へ片手を置いた。
銀白の髪を乱さないよう、ごく軽く撫でる。
「……悪い気はしない」
それが限界だった。
リリアは満面の笑みを浮かべる。
周囲から生温かい空気が漂った。
「隊長」
若い兵士が思わず口を開いた。
「めちゃくちゃ嬉しそうですね」
「午後の訓練、追加一時間」
「なぜですか!?」
「口を動かす余裕があるようだからだ」
「横暴!」
食堂が笑いに包まれる。
その騒ぎの中ユリウスが、隣の後輩へ小声で囁いた。
「ちなみに、僕が把握しているだけで二十七人です」
「少ないですね。僕は三十一人知ってます」
アルベルトの動きが止まった。
「……何人?」
聞こえていた。
ユリウスとセドリックが同時にアルベルトを見る。
それから、同時に立ち上がった。
「では我々はこれで」
「先輩、またね!」
「待て」
二人の顔が引きつる。
「逃げますよ」
「はい!」
「廊下を走るな!」
三人が食堂から飛び出した。
「隊長も走ってますよ!」
「お前たちを捕まえるためだ!」
「嫉妬じゃないんですかー!?」
「違う!」
怒声が廊下の向こうへ消えていく。
残されたリリアは、しばらくぽかんとしていた。
やがて楽しそうに笑うと、アルベルトが置いていった書類を抱えて立ち上がる。
「しょうがないなあ」
その顔は、どうしようもなく幸せそうだった。
王国軍第一大隊長、アルベルト・クロフォード。
妻の暗殺者時代については、冷静に受け止められる。
妻が命を狙われれば、冷静に対処できる。
国家規模の危機にも動じない。
ただし。
妻を昔口説いた人間の話だけは、どうにも冷静に処理できないらしい。
※
なお、その日の午後。
第一大隊の訓練が一時間延長された理由について、公式記録にはこう記された。
――隊員の基礎体力向上のため。
嫉妬ではない。
断じて。




