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侯爵夫人、どうやら義娘と気が合いすぎる。

クロフォード侯爵家に滞在して二日目の朝。 朝食後、リリアが紅茶に角砂糖を二つ落としていると、向かいのエレノアがカップを置いた。


「リリアさん。今日、何か予定はあるかしら」


「ないです!」


返事が早い。 隣で新聞を読んでいたアルベルトが眉を動かした。


「昨日、東の庭園を見ると言っていなかったか」


「それは予定じゃなくて、やりたいこと」


「予定だ」


「違うよ」


「何が違う」


夫婦の定義論争が始まる前に、エレノアが笑った。


「それなら、少し付き合ってもらえる?」


「もちろんです!」


「母上。どちらへ?」


新聞が下がる。


「王都へ買い物に」


「二人で?」


「ええ」


「護衛は」


「要らないわ」


「しかし――」


「アルベルト」


「……何でもありません」


第一大隊長、開始から三秒で敗北。

向かいではアレクシスが優雅に紅茶を飲んでいた。


「諦めなさい、アルベルト。母上がああ言った時は、何を言っても無駄だ」


「経験者のように言わないでください」


「経験者だから言っているんだ」


説得力がありすぎた。

リリアは父子を見比べ、楽しそうに笑った。


※


午前十時。


王都中央区を歩くクロフォード侯爵夫人と義娘は、嫌でも人目を引いた。

エレノアは濃紺のドレスに銀灰色の髪。隣のリリアも、今日は黒と淡い紫の外出着だ。


宝飾店、仕立屋、紅茶専門店と巡る。


「お義母様、これ、すごくいい香りです」


「本当ね。アルベルトも好きそうだわ」


「じゃあ買って帰ります!」


「そうしましょう」


二人は顔を見合わせ、ほとんど同時に微笑んだ。大切な人の好みを覚えているところまで、よく似ている。


平和だった。

ここまでは。


二人が次の菓子店へ向かおうとした時、エレノアが足を止めた。


「あら」


道路工事で道が封鎖されている。


「迂回しなければいけないわね」


「遠回りになりますね」


リリアが周囲を見回し、細い路地の奥を指した。


「……お義母様。あそこ、抜けられます」


路地の先には、高さ二メートルほどの石塀がある。


「道は?」


「ないです」


「門は?」


「ないです」


「では、どうやって?」


リリアは、にっこり笑った。


「越えます」


普通の侯爵夫人なら、ここで却下する。

アルベルトなら、即座に却下する。

エレノアは数秒、石塀を見つめた。


「……その向こうが菓子店なの?」


「はい。三分くらい短縮できます」


「そう」


エレノアは手袋を直した。


「では行きましょう」


「えっ」


今度は、元暗殺者のほうが固まった。


「お義母様、本当に越えるんですか?」


「あなたが提案したのでしょう?」


「しましたけど。普通、そこは止めるところでは?」


「まあ。あなた、越えたくないの?」


「越えたいですけど!」


反射的に答えてから、リリアは口を押さえた。

エレノアが満足そうに頷く。


「では問題ないわね」


「問題しかない気がします」


エレノアはドレスの裾を持ち上げた。


「昔、これくらいの塀ならよく越えたものよ」


「昔!?」


「アレクシスから逃げる時に」


「逃げる時に!?」


リリアの声が一段高くなった。

エレノアは何でもないことのように石塀へ手をかける。


「お義母様、待ってください。心の準備が――」


「早くいらっしゃい」


「まだ私の心が追いついてません!」


「塀は待ってくれるわ」


「そういう問題では――」


言い終わる前に、エレノアは驚くほど軽やかに石塀を越えた。


着地。


裾の乱れ、なし。

呼吸の乱れ、なし。

優雅さ、満点。


「……お義母様」


塀の上で、リリアの目が輝いた。


「大好きです」


「ありがとう。早くいらっしゃい」


「はい!」


リリアは勢いよく塀に手をかけた。

そして、登ったところで一度だけ振り返る。


「これ、アルに言ってもいいですか?」


「駄目と言っても、言うでしょう?」


「はい!」


「では、好きにしなさい」


この日、クロフォード家の嫁姑関係は、極めて良好な方向へ一線を越えた。


――物理的にも。


※


「これ、美味しい!」


「でしょう?」


菓子店に着いた二人は、窓際の席で焼き菓子を食べていた。

エレノアはベリーのタルト、リリアはクリームたっぷりのケーキだ。


「お義母様、こういうところ詳しいんですね」


「昔から甘いものは好きなの」


「アルも甘いもの嫌いじゃないです」


「知っているわ。小さい頃は隠していたけれど」


「えっ」


リリアの目が輝く。


「詳しく」


本人がいないので、止める者はいなかった。

エレノアは、幼いアルベルトが厨房から焼き菓子を一つだけ持ち出し、自室でこっそり食べていた話をした。


「かわいい……!」


「本人は隠せているつもりだったのよ」


「かわいい……!」


「口元に粉砂糖がついていたけれど」


「かわいすぎる……!」


リリアは机に突っ伏した。


「お義母様、ほかにもあります?」


「たくさんあるわ」


「全部聞きたいです」


「あの子が厨房の棚に手を伸ばして、椅子ごと倒れた話まで」


「聞きたいです!」


「リリアさん」


「はい!」


「あなた、いい聞き手ね」


「ありがとうございます!」


『褒められるところではない!』


アルベルトならそう抗議しただろう。

エレノアは次の話を始めた。


リリアは笑い、驚き、時には机を叩きながら聞き入る。


好きな人の話になると隠しきれず表情が緩むところも、かつての自分を見ているようで、エレノアはすっかり気に入っていた。


遠く離れた侯爵邸で、アルベルトが理由もなく三度悪寒を覚えた。


※


午後四時。

クロフォード侯爵邸で、アルベルトが時計を見た。


「……遅いな」


向かいで書類を読んでいたアレクシスが顔を上げる。


「何がだ?」


「母上たちです。四時には戻ると言っていた」


時計は四時五分を指している。


「五分だぞ」


「分かっています」


アルベルトは書類へ視線を戻した。

戻しただけで、文字は一行も頭に入っていない。

三分後、アレクシスも時計を見た。


「……遅いな」


「父上。まだ八分です」


「分かっている」


さらに七分。

アレクシスが立ち上がった。


「何かあったのでは?」


「父上、落ち着いてください」


「お前も同じ行を三回読んでいるではないか」


「……」


アルベルトは書類を閉じた。


「探してきます」


「私も行こう」


「なぜ父上まで」


「妻が帰らないんだぞ」


「俺の妻もです」


二人は顔を見合わせた。

よく似た眉間に、よく似た皺が寄る。

そして、ほとんど同時に玄関へ向かった。


十五分後。

侯爵家当主と第一大隊長が本気で捜索隊を編成し、王都中の門番に連絡を入れる寸前、玄関扉が開いた。


「ただいまー!」


「ただいま戻りました」


二人の女性が、晴れやかな顔で帰ってきた。

しかも、なぜか二人とも少しだけ靴が汚れている。


「リリア!」


「エレノア!」


男二人の声が重なる。


「遅い!」


さらに重なった。

リリアとエレノアは顔を見合わせる。


「……お義母様」


「ええ」


「やっぱり似てますね」


「でしょう?」


「「似ていない!」」


今度は父と息子の声が重なった。

完全一致だった。


玄関に、妙な沈黙が落ちる。


先に耐えられなくなったのはリリアだった。


「ふふっ」


エレノアも口元を押さえる。


「まあ」


「笑うな!」


「笑っていない」


「父上は笑っているでしょう!」


「私は微笑んでいるだけだ」


「それを笑っていると言うんです!」


帰宅したばかりの二人は、荷物を抱えたまま楽しそうに眺めていた。

捜索隊を編成しかけた男たちの、完全な敗北である。


※


夕食後、リリアは今日買った紅茶をアルベルトへ渡した。


「はい。お土産」


「……俺に?」


「アルが好きそうだったから」


アルベルトの表情が、ほんの少し緩む。


「ありがとう」


その一瞬を、リリアは見逃さなかった。


「今、嬉しかった?」


「普通だ」


「耳が赤いよ」


「照明のせいだ」


「今日は昼間から明るかったけど」


「リリア」


そんな二人を見ながら、エレノアが微笑んだ。


「リリアさん。また二人で出かけましょうね」


「はい!」


即答だった。


「次は少し遠出しましょうか」


「いいですね! 馬で行きます?」


「それも楽しそうね」


「では山のほうとか!」


「駄目です」


アルベルトだった。


「まだ何も決めてないよ?」


「今の会話だけで十分危険だ」


アレクシスも頷く。


「私も反対だ」


「あなたは黙っていて」


「……はい」


侯爵、即死。


リリアが笑いを堪えながらアルベルトの袖を引いた。


「大丈夫だよ。今日だって何も危ないことしてないし」


「本当だろうな」


「本当です」


エレノアも穏やかに頷く。


「少し塀を越えたくらいよ」


「…………」


アルベルトが停止した。

アレクシスも停止した。


食器を置く音だけが、やけに大きく響く。


「母上」


「何?」


「今、何と」


「塀を越えたと」


「なぜ!?」


「近道だったから」


「リリア!」


「私だけじゃないよ! お義母様も!」


「だから余計に問題なんだ!」


アルベルトが頭を抱える。

その隣で、アレクシスが妻を見つめた。


「エレノア。君は昔からそうだ。なぜ普通に道を歩けない」


「あら。あなた、昔はそういう私が好きだと言っていたでしょう?」


「それとこれとは話が――」


「違うの?」


「……違わない」


敗北。

しかも今回は、反論までが早かった。


それを見たリリアが、そっとアルベルトを見る。


「アル」


「言うな」


「私のこと好き?」


「今その流れで聞くな」


「塀を越える私も?」


「リリア」


「好き?」


アルベルトはしばらく黙った。

逃げ道を探すように視線をさまよわせたが、妻は笑顔のまま待っている。


母は楽しそうに見ている。

父はすでに諦めた顔をしている。


味方がいない。


アルベルトは、深く息を吐いた。


「……好きだ」


「やった!」


リリアが満面の笑みで腕へ抱きつく。


「塀を越えても?」


「そこを基準にするな」


「じゃあ、屋根から入っても?」


「それは駄目だ」


「でも好き?」


「……好きだ」


「やった!」


今度は先ほどより強く抱きついた。

その向こうで、エレノアが満足そうに微笑んでいた。


アレクシスとアルベルトは、ほとんど同時に深いため息をつく。


父と息子はよく似ている。

生真面目で、心配性で、頑固で。

何より、惚れた女に弱い。


そしてどうやら、そんな男たちが選んだ妻同士も、想像以上によく似ていたらしい。


「お義母様、次は屋根から入る方法教えますね!」


「面白そうね」


「やめろ!」


「やめなさい!」


男二人の声が、また綺麗に重なった。

今度は誰も驚かなかった。


エレノアとリリアは顔を見合わせ、同時に笑う。


クロフォード家の嫁姑関係は、本日も極めて良好である。


――良好すぎることが、新たな問題になりつつあっても。

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