クロフォード侯爵、どうやら息子とよく似ている。
クロフォード侯爵家には、長年にわたって守られてきた秩序がある。
使用人は必要以上の足音を立てず、磨き抜かれた床には塵ひとつなく、広大な庭園では薔薇の枝一本ですら庭師の許可なく自由な方向へ伸びることを許されない。
王国でも指折りの武門。
格式、威厳、規律。
ついでに少々、息苦しいほどの完璧さ。
アルベルト・クロフォードにとっては、それが生まれ育った家だった。
軍務に就いてから帰邸の機会は減ったものの、正門から玄関へ続く石畳も、幼い頃に剣を振った中庭も、廊下に並ぶ歴代当主の肖像画も変わらない。
だからこそ、その見慣れた景色の中を白銀の髪が揺れていることには、いまだ不思議な感覚があった。
自分が生まれるより前から存在していた家に、自分が選んだ人間がいる。
その事実を、少しだけ……本当に少しだけ、嬉しいと思っていることは、当然ながら口には出さない。
「リリア!」
重厚な玄関扉が開いた瞬間、そのささやかな感傷は父親の大声によって粉砕された。
「お義父様!」
リリアの顔がぱっと輝く。
アレクシス・クロフォード侯爵は、五十代とは思えない勢いで玄関ホールを横切ると、両腕を広げて義娘を迎えた。
「よく来たね! 待っていたよ。部屋は整えてあるし、前に美味しいと言っていた菓子も取り寄せた。庭の東屋も改装した。それから馬だ。とても賢い牝馬が入ってね、きっとリリアなら気に入ると思って―――」
「父上」
「ああ、アルベルト」
アレクシスがようやく息子を見る。
「おかえり」
「…………」
アルベルトは念のため数秒待った。
続きはなかった。
「俺も三か月ぶりの帰邸なのですが」
「そうだったか?」
「そうです」
「元気そうで何よりだ」
「扱いに差がありすぎませんか」
別に歓迎してほしいわけではない。
二十九にもなる男が父親に抱き締められたいわけでも、好物の菓子を用意してほしいわけでもない。
断じてない。
ただ、実の息子と義理の娘に対する温度差として、これは客観的にどうなのかと指摘しただけである。
「アル」
リリアが楽しそうに袖を引いた。
「なぜ笑っている」
「寂しかった?」
「違う」
「私ばっかり歓迎されたから?」
「違う」
「嫉妬?」
「絶対に違う」
「まだ三つしか聞いてないのに、最後だけ強いね」
アルベルトの眉間に皺が寄る。
そのやり取りを少し離れた場所から眺めていた侯爵夫人、エレノア・クロフォードが、静かに扇を閉じた。
黒に近い濃紺のドレス。隙のない立ち姿。年齢を感じさせない端正な顔立ちに、息子とよく似た涼しい眼差し。
「あなた」
「何だい?」
「リリアさんが玄関から動けていないわ」
「困ってません!」
リリアが元気よく答えた。
アレクシスが勝ち誇ったように妻を見る。
「ほら!」
「では、私が困っています」
「…………」
「落ち着きなさい」
「……はい」
一瞬で侯爵が静かになった。
アルベルトは懐かしさと呆れが入り混じった息を吐く。
昔から変わらない。
クロフォード侯爵家の当主はアレクシスだ。
だが、この家で最も強い人間は間違いなくエレノアだった。
※
夕食が始まって十五分。
アルベルトは早くも帰邸したことを後悔し始めていた。
「リリア、この鴨はどうだい?」
「美味しいです!」
「そうか! 料理長に伝えよう。葡萄も食べるか? こちらは領地から届いたもので――」
「父上」
「何だ」
「少し落ち着いてください。リリアが食事をできていません」
「私は楽しいよ?」
まさかの妻に背後から撃たれる。
アルベルトは横を見る。
リリアは本当に楽しそうだった。
それが一番困る。
父が彼女を可愛がっていること自体は嬉しいのだ。
元暗殺者《白猫》。
その過去を知ってもアレクシスは態度を変えなかった。それどころか結婚式で「お父様」と呼ばれて以来、二十数年分の『娘が欲しかった』という願望を一気に爆発させ、装飾品だの服だの菓子だの、果ては短剣用の宝飾品まで贈り始めた。
ありがたい。
本当にありがたい。
ありがたいのだが。
「リリア、次は二人で領地へ行こう。乗馬も教えて……」
「父上」
気づけば声が一段低くなっていた。
「俺の妻です」
「知っているが?」
「二人で、という必要がありますか」
「ある」
「ありません」
「あるよ?」
リリアまで参加した。
「お前はどちらの味方なんだ」
「楽しいほう」
「最悪の回答だな」
アレクシスがふっと笑う。
「アルベルト」
「何です」
「お前、まさか実の父親に嫉妬しているのか?」
「していません」
「私まで男として警戒対象なのか?」
「していないと言っているでしょう!」
ぱちん、とエレノアが扇を置いた。
父子が同時に背筋を伸ばした。
「食事中よ」
「……申し訳ありません」
「すまない」
王国軍第一大隊長と元王国軍将官が揃って叱られている。
リリアはとうとう耐えきれず、肩を震わせた。
「笑うな」
「だってアル、お義母様に弱い」
「あなたもよ、アレクシス」
「え?」
エレノアは夫へ涼しい視線を向け、それから何でもないことのように続けた。
「アルベルトは、若い頃のあなたによく似ているわ」
父子が同時に固まる。
「どこがです」
「どこがだい?」
声まで綺麗に重なった。
エレノアは優雅に紅茶を一口飲んだ。
「そういうところよ」
※
男性陣が書斎へ移ったあと、リリアはエレノアと二人でテラスにいた。
月明かりに照らされた庭園から、薔薇の甘い香りが流れてくる。
ここでアルは育ったのだ。
きっと小さな頃から真面目だったのだろう。時間通りに起き、剣を振り、勉強をして、教師に褒められても澄ました顔で「当然です」などと言っていたに違いない。
「ねえ、お義母様」
「何かしら」
「アルって、小さい頃からあんな感じだったんですか?」
エレノアの目元がわずかに柔らかくなる。
「ええ。八歳の頃には既に、父親が買ってきた木馬の車軸の緩みを指摘していたわ」
「八歳で?」
「十歳でぬいぐるみを贈られて、『何に使うものですか』とも聞いていたわね」
「可愛くない!」
「でしょう?」
実母だった。
「でも見たい。ちっちゃいアル」
「写真ならあるわ」
「見たい!」
「あとで持っていきましょう」
「母上に絶対見せるなと伝えてください!」
屋敷のどこかからアルベルトの声が飛んできた。
リリアが目を丸くする。
「聞こえてた」
「昔から耳はいいの」
「嫌な情報まで聞こえています!」
再び声がした。
エレノアは完全に無視した。
「お義父様も昔から今みたいだったの?」
「いいえ。あの人はアルベルトとほとんど同じだったわ」
リリアが勢いよく振り返った。
「お義父様が!?」
「無口で、生真面目で、仕事ばかり。『侯爵家の人間には節度が必要だ』『人前で必要以上に親しくするものではない』と」
「…………アルだ」
聞き覚えがありすぎる。
「私も言われた! 『本部では人前で必要以上にくっつくな』って」
「あら」
「だから三日、本部に行かなかったの」
「それで?」
「九時十二分になるたびに時計見てた」
エレノアが沈黙した。
やがて、非常に遠い目をする。
「……血ね」
「血?」
「恐ろしいものだわ」
「お義父様も?」
「昔、喧嘩をして私が三日ほど実家へ帰ったことがあるの」
「三日!」
リリアの目が輝いた。
「アレクシスも『好きにすればいい』と言ったものだから、本当に好きにしたのだけれど」
「それで!?」
「三日目には仕事にならなくなって、書類を逆さまに持っていたそうよ」
リリアが吹き出す。
「それから三日間、毎日私の実家の前まで来たわ」
「迎えに?」
「いいえ」
「じゃあ何しに?」
「知らないわ。門を見て帰ったそうよ」
リリアはとうとうテーブルへ突っ伏した。
「アルだ……!」
「ええ」
「すごい、アルだ……!」
「私も今、少し怖くなってきたわ」
※
その頃、書斎ではアレクシスがまったく異なる歴史を息子へ伝えていた。
「まあ、当時はエレノアのほうが私に惚れていたんだが」
「あなた」
背後から声がした。
アレクシスの肩が跳ねる。
扉にはエレノア。
その横には、期待に満ちた顔のリリア。
「私の実家の前を三日間うろついた話をする?」
「…………」
「書類も逆さまだったんですか!?」
「リリア、誰から聞いた!」
「私よ」
「エレノア!」
アルベルトは父をじっと見つめた。
幼い頃から大きな存在だった。
厳格で、何でもできて、自分がいつか追いつくべき人間。
そんな父が、妻が三日いないだけで書類を逆さまにしていた。
「……父上」
「何だ」
「少し安心しました」
「なぜだ!」
「俺より酷い」
「アルも一緒だよ」
「リリア」
「九時十二分」
「やめろ」
「時計」
「リリア」
「三日」
「黙れ!」
アレクシスが息子を見る。
そして、なぜか嬉しそうに笑った。
「アルベルト」
「何です」
「お前、やはり私の息子だな」
「今ほど血縁を否定したいと思ったことはありません」
※
騒ぎが一段落し、女性陣が先に部屋を出る。
暖炉の薪が小さく爆ぜる中、アレクシスは酒杯を揺らしながら、不意に口を開いた。
「アルベルト」
「はい」
「幸せか」
予想もしなかった問いだった。
アルベルトは黙る。
幼い頃から父に問われてきたのは、できるか、耐えられるか、責任を果たせるか。
幸せかなどと聞かれた記憶はない。
窓の向こうへ目を向ける。
月明かりの下を、エレノアとリリアが並んで歩いていた。
リリアが何かを話し、母が笑う。
ほんのわずかな笑み。
けれど、アルベルトは知っている。
母があんなふうに笑う相手は多くない。
自分が選んだ妻が、あまりにも自然に自分の家族の中にいる。
その光景を見ていると、胸の奥に張りつめていたものが、ゆっくりほどけていくのを感じた。
リリアはもう、客人として丁重に扱われているのではない。
母に笑いかけられ、父に構われ、そして自分の隣にいることを、誰も疑問に思っていない。
彼女を迎え入れたこの家の空気が、いつの間にか自分自身まで包み込んでいるようだった。
自分が選んだ妻が、自分の家族の中にいる。
そして、自分もまた、その輪の中にいる。
「……はい」
口にすると、思っていた以上に照れくさかった。
「幸せです」
「そうか」
アレクシスは笑わなかった。ただ長い間抱えていた何かを下ろすように、静かに息を吐いた。
「お前は昔から、欲しいものほど欲しいと言わない子だった」
アルベルトの目がわずかに動く。
「剣を与えれば鍛えた。学問を与えれば学んだ。家の期待も軍務も、必要だと言われれば背負った。だから時々、分からなくなったんだ。お前自身は何が欲しいのだろうとな」
窓の向こうで白銀の髪が揺れる。
「だが、彼女だけは、お前が自分で選んだのだろう?」
誰かに命じられたわけではない。
家のためでも、軍のためでもない。
振り回され、怒鳴り、心配し、何度頭を抱えても、 それでも手放さなかった。
「……はい」
「なら、大事にしなさい」
「言われるまでもありません」
即答すると、アレクシスが吹き出した。
「そこも昔の私に似ている」
「今の話を少し感動して聞いていた自分を後悔しています」
※
「リリアさん」
廊下では、エレノアが足を止めていた。
「あの子をよろしくね」
リリアが瞬く。
「アルを?」
「あの子は、我慢することを覚えるのが少し早すぎたから」
エレノアは静かに微笑んだ。
「あなたといると、よく怒るでしょう?」
「毎日怒られてます」
「嫉妬もするでしょう?」
「毎日してます」
「していない!」
また遠くから声が飛んできた。
「してるよ!」
「していない!」
「元気ね」
エレノアは平然としている。
「怒って、困って、心配して、あなたを追いかけているくらいが、あの子にはちょうどいいわ」
リリアは少しだけ黙った。
胸の奥に、柔らかな熱が広がっていく。
「大丈夫です、お義母様」
やがて満面の笑みを浮かべる。
「私、これからもアルのこと、いっぱい困らせます!」
「ほどほどにお願いね」
「はい!」
「そこは元気よく返事をするところではないわ」
「母上!!」
とうとうアルベルト本人が現れた。
「妻に何を吹き込んでいるんですか!」
「あなたが幸せになる方法よ」
「なぜ俺の幸せが苦労前提なんです!」
その後ろからアレクシスも顔を出す。
「アルベルト、諦めなさい」
「父上は黙っていてください!」
「私も二十八年前に同じことを言った」
「だから聞きたくないんです!」
リリアの笑い声が廊下いっぱいに響く。
エレノアはそんな彼女を見てから、夫へ視線を移した。
アレクシスは、息子を見て笑っている。
昔、何でも一人でできるようになろうとしていた小さな息子。
弱音を吐かず、褒められても「当然です」と背筋を伸ばしていた子供が、今では妻一人に振り回されて声を荒らげ、嫉妬し、心配し、ときには自分から手を伸ばしている。
それを成長と呼ぶのかは分からない。
けれど、母には今の息子のほうがずっと人間らしく見えた。
「本当に」
エレノアが微笑む。
「よく似た夫婦だこと」
「似ていません!」
「似てないです!」
アルベルトとリリアの声が、寸分違わず重なった。
アレクシスが堪えきれず吹き出した。
「ほら、そういうところだ!」
「父上!」
「アル、顔怖いよ」
「誰のせいだ!」
「私?」
「八割お前だ!」
「残り二割は?」
アルベルトは父を見る。
アレクシスが真顔になる。
「なぜ私を見る」
「心当たりがないと?」
「ない」
「あなた、ありますよ」
「エレノアまで!?」
静謐と格式を誇るクロフォード侯爵邸に、今夜も当主の悲鳴が響き渡る。
王国有数の武門にして、規律と伝統を重んじる名門クロフォード家。
どうやらこの家の男たちは代々、不器用で、頑固で、愛情深く―――そして欲しいものほど、欲しいと言えない。
そして幸いなことに、そんな男たちの隣には代々、それを全部分かったうえで決して逃がしてくれない妻がいるらしい。
「アル」
「今度は何だ」
「私、三日いなくなってみる?」
「絶対にやめろ」
返事は一秒とかからなかった。
アレクシスが腹を抱えて笑い、エレノアは静かに目を細める。
「やっぱり似てる」
「似ていない!」
クロフォード家の男たちの声が、再び綺麗に重なった。




