隊長殿、妻と二人きりで休日を過ごしたいそうです。
王国軍第一大隊長アルベルト・クロフォードは、計画を立てることに長けている。
作戦目的を定め、必要な人員と物資を算出し、不測の事態を想定した複数の代替案を用意する。
戦場であれ王都防衛であれ、彼の指揮が揺らがないのは、そうした周到な準備があってこそだった。
だから今回も、準備に抜かりはなかった。
目的:妻との休日。
参加人員:二名。
・アルベルト・クロフォード
・リリア・クロフォード
以上。
「…………」
執務机の上に広げた王都案内図を見つめながら、アルベルトは改めて確認した。
重要なのは、二名という部分。
明日は珍しく完全な非番だった。緊急招集でもなければ朝から夜まで自由で、リリアにも予定がないことは確認済み。
朝は市場を歩き、西区で評判の菓子店へ寄る。昼食は川沿いの店を予約してあり、午後は特に予定を詰めず、夕刻になったら王都を見下ろせる丘へ行く。
我ながら悪くない。
「隊長」
向かいから声がした。
アルベルトは素早く地図を閉じた。
遅かった。
副官テオドール・ハインツは、手にした報告書から視線だけを上げていた。
「何だ」
「先ほどから二十分ほど、同じ地図をご覧になっていますが」
「王都西区の地理を確認していた」
「休日向け観光案内図で?」
「…………」
テオドールの視線が、地図の表紙に描かれた『恋人たちに人気の王都散策路』という文字へ落ちる。
アルベルトは無言で地図を裏返した。
「何だ」
「何も申し上げておりません」
「顔に出ている」
「生まれつきです」
「最近それで何でも済ませようとしていないか」
テオドールは答えず、書類へ戻った。
しばらくして、アルベルトが低い声で言う。
「……明日、リリアと出かける」
「左様ですか」
「二人でだ」
「承知しました」
念を押したのに反応が薄い。
なぜか少し腹立たしい。
「それだけか」
「他に何か申し上げるべきでしょうか」
「いや」
アルベルトは地図を引き出しへしまった。
その様子を見届けたテオドールが、再びペンを動かしながら淡々と付け加える。
「では、ご武運を」
「待て」
「はい」
「なぜ休日に武運が必要なんだ」
「念のためです」
「何の念だ」
テオドールは答えなかった。
※
翌朝、王都は雲ひとつない青空に恵まれた。
昨夜の雨をわずかに残した石畳が朝日にきらめき、通りでは商人たちが次々と店を開いている。
焼きたてのパン、花、香辛料。
様々な匂いが朝の空気に混じり、休日らしい穏やかな喧騒が街を満たしていた。
官舎の前で待っていたアルベルトも、今日は軍服ではない。
濃紺の外套に白いシャツという簡素な装いだったが、背筋の伸びた立ち姿と隙のない身のこなしのせいで、私服になったところで軍人らしさは消えていなかった。
やがて扉が開く。
「アル、お待たせ!」
振り返ったアルベルトが、一瞬だけ黙った。
リリアは白いブラウスに淡い紫のスカートを合わせ、白銀の髪をいつもより丁寧に編み込んでいた。耳元では紫色の小さな石が朝日を受けて揺れている。
「……なに?」
視線に気づいたリリアが、自分の服を見下ろす。
「変?」
「いや」
「じゃあ、どうしたの?」
「何でもない」
「可愛い?」
「…………」
アルベルトは踵を返した。
「行くぞ」
「あ、逃げた」
「逃げていない」
耳が赤い。
それを見つけたリリアは楽しそうに笑ったが、珍しく追及しなかった。
代わりに駆け寄って、自然に彼の腕へ自分の腕を絡める。
アルベルトは一度だけ周囲を確認した。
ここは本部ではない。
勤務中でもない。
「……今日はいいの?」
「何がだ」
「くっついても」
「好きにしろ」
途端にリリアの身体がもう少し近づいた。
アルベルトは何も言わなかった。
むしろほんの僅かに歩調を緩めた。
※
最初の一時間は完璧だった。
「アル、見て!」
「待て。走るな」
「果物いっぱいある!」
「市場だからな」
「こっちも!」
「聞け!」
リリアは右へ左へと忙しい。
露店を覗き込み、見慣れない果物を見つけては店主へ質問し、焼きたての菓子の匂いがすれば吸い寄せられる。
そのたびにアルベルトは予定より遅れていく時間を気にしたが、不思議と苛立ちはなかった。
「アル、これ」
振り返ったリリアの手には串焼きが二本あった。
「まだ朝だぞ」
「一本アルの」
「いらん」
「もう買った」
「なぜ聞く前に買う」
「アルも食べると思ったから」
「…………」
受け取る。
リリアが嬉しそうに笑った。
「美味しい?」
「……悪くない」
「でしょ?」
その笑顔を見ながら、アルベルトは思った。
予定など、多少遅れても構わない。
今日は一日ある。
二人きりなのだから。
このときまでは、そう思った。
※
「あれ、リリア?」
背後から聞こえた声に、アルベルトの足が止まった。
リリアが振り返る。
「あ、シャルロット!」
数歩先に、護衛を伴ったシャルロットが立っていた。
王女はリリアを見つけた途端、ぱっと顔を明るくした。
「やっぱり! こんなところで会うなんて」
「シャルロットもお出かけ?」
「ええ。少し買い物を――」
そこで彼女はアルベルトに気づいた。
「あ」
「あ?」
「……お二人で?」
嫌な予感がした。
「うん!」
リリアは悪びれもせず答える。
「アルとデート!」
周囲の人間が何人か振り返った。
「リリア、声が大きい」
「だってデートでしょ?」
「そういう問題ではない」
否定しないところがアルベルトだった。
シャルロットの顔がみるみる輝く。
「素敵! どちらへ?」
「これから西区のお菓子屋さん!」
「もしかして、最近できた――」
「殿下」
アルベルトが割って入った。
声は穏やかだった。
しかし戦場なら敵兵が退却を検討する程度には圧がある。
「我々はこれで失礼いたします」
「え?」
「今日は夫婦二人の休日ですので」
明確だった。
実に明確だった。
さすがのシャルロットも意味を理解し、「あっ」と頬を赤らめる。
「ご、ごめんなさい。そうよね。楽しんできて」
「はい」
勝った。
何に勝ったのか分からないが、アルベルトは確かな勝利を感じた。
「じゃあ途中まで一緒に……」
「殿下」
「冗談です」
シャルロットは笑って手を振った。
アルベルトは胸中で安堵する。
危なかった。
だが被害はない。
作戦続行可能。
「アル」
「何だ」
「夫婦二人の休日なんだ?」
「……そうだ」
「ふーん」
「何だ」
「嬉しいだけ」
リリアがにこにこしている。
アルベルトは何となく視線を逸らした。
「あら、リリア?」
その時、別方向から声がした。
アルベルトは目を閉じた。
まだ早い。
休日は始まって一時間二十三分しか経っていない。
◇
昼。
川沿いの店。アルベルトの予約した席は、二人掛けだった。
店員が気を利かせ、長机へ変更してくれた。
現在の参加人数、六名。
アルベルト。
リリア。
シャルロット。
エレノア。
セドリック。
国王。
「…………」
アルベルトは窓の外を眺めていた。
川面が陽光を反射して美しい。
非常に美しい。
いっそ飛び込みたい。
「アル」
隣から袖を引かれる。
「何だ」
「魂抜けてる」
「抜けていない」
「朝より喋らなくなった」
「気のせいだ」
対面では国王が楽しそうにリリアへ料理を勧めている。
「これも美味いぞ」
「ほんと?」
「食べてみろ」
「父上、リリアに与えすぎです」
シャルロットが止め、その隣ではエレノアが笑っている。
セドリックに至っては完全に面白がっていた。
「クロフォード」
「何だ」
「随分賑やかなデートになったな」
アルベルトがゆっくり顔を向ける。
「……なぜデートだと知っている」
「シャルロット殿下から聞いた」
アルベルトがシャルロットを見る。
「ごめんなさい」
「そこから私が聞いたわ」
エレノア。
「私はエレノアからだ」
国王。
「俺は陛下から」
セドリック。
見事な情報伝達網である。
「軍の伝令より速いな」
「アル、褒めてる?」
「褒めていない」
リリアが笑う。
しかし、その横顔を見たとき、彼女の表情がほんの少し変わった。
朝から何度も眉間へ皺を寄せている夫。
いつもなら周囲に誰がいようと堂々としているのに、今日は時折、自分のために用意したらしい予定表を見ている。
そこでようやくリリアは気づいた。
アルは本当に今日を楽しみにしていたんだ。
※
午後。
人数は七名になった。
「なんで俺だけそんなに嫌そうな顔されるの?」
途中参加したユリウスが不満そうに言う。
「増えたからだ」
「俺のせいじゃなくない?」
「七人目だ」
「人数で怒られてる?」
「そうだ」
「理不尽だなあ」
王都を見下ろす丘へ着いた頃には、夕暮れが近づいていた。
空は橙から淡い紫へ移ろい、遠くの王宮や尖塔が柔らかな光の中に浮かんでいる。
本来なら、ここで二人きりで夕日を見る予定だった。
アルベルトは少し離れた場所に立ち、静かに街を眺めていた。
楽しくなかったわけではない。
リリアは一日中笑っていた。
それなら、それでいい―――そう思おうとしている顔だった。
「アル」
リリアが隣へ来た。
「何だ」
「二人がよかった?」
「…………」
アルベルトは答えなかった。
だが、リリアは待った。
ふざけることも、茶化すこともしない。
しばらくしてアルベルトが小さく息を吐く。
「……今日は」
「うん」
「お前と二人で過ごすつもりだった」
リリアの紫の瞳が瞬く。
「三日前から?」
「なぜ知っている」
「テオに聞いた」
「…………あいつ」
明日の追加業務が決定した。
だが、リリアは笑わなかった。
代わりに、アルベルトの手を取る。
「じゃあ行こ」
「どこへ」
「二人になれるところ」
「ここにそんな場所が――」
「あるよ」
その笑顔を見た瞬間、アルベルトは嫌な予感を覚えた。
「リリア」
「走って!」
「待て」
遅かった。
元暗殺者が走り出す。
速い。とてつもなく速い。
「リリア!?」
「どこへ行くの!?」
背後で王女たちの声が上がる。
アルベルトは引っ張られるように走った。
「おい、待て!」
「アル、早く!」
「王族を置いて逃げるな!」
「でもアルも走ってるよ!」
「お前が引っ張っているからだ!」
「クロフォード、追おうか?」
セドリックの声がする。
アルベルトは走りながら振り返った。
「追うな!!」
王都中へ響きそうな怒声だった。
※
二人は古い路地裏にいた。
市場の喧騒も遠く、夕日だけが石壁の隙間から細く差し込んでいる。
「……お前は」
アルベルトが息を整えながらリリアを見る。
「王族を置き去りにするな」
「アルも置いてきたよ」
「だから俺はお前に――」
言いかけて止まる。
リリアが笑っていた。
「なに?」
「今、二人」
アルベルトは周囲を見る。
誰もいない。
朝から望んでいたものが、ようやくそこにあった。
予約した店でもない。
景色のいい丘でもない。
ただの狭い路地裏だ。
それでもリリアは嬉しそうだった。
「アル」
「何だ」
「今日はありがとう」
「……予定はほとんど潰れたぞ」
「でも、アルが私と二人でいたかったって分かった」
「…………」
「それが一番嬉しかった」
アルベルトは何も言わなかった。
代わりに繋いだ手を握り直す。
「次は誰にも言わん」
「うん」
「行き先も教えない」
「うん」
「テオドールにもだ」
「そこまで?」
「特にあいつにはだ」
リリアが吹き出した。
夕暮れの路地に、明るい笑い声が響く。
「じゃあ次もデートね」
「ああ」
「二人で?」
「……二人でだ」
「やった」
リリアが腕へ抱きつく。
今度はアルベルトも何も言わなかった。
「帰るぞ」
「うん」
「寄り道するなよ」
「分かった」
頷いてから三歩目でリリアは足を止める。
「あ、アル。あそこの店―――」
「早い!」
※
翌朝。
「昨日はお楽しみになれましたか、隊長」
何気なく尋ねたテオドールの机へ、アルベルトは分厚い書類の束を置いた。
どさり、と重い音がする。
テオドールは書類と隊長を交互に見た。
「……これは?」
「本日の追加業務だ」
「理由を伺っても?」
「機密事項だ」
「私が何かしましたか」
「胸に手を当てて考えろ」
「心当たりがありません」
「なら仕事をしながら考えろ」
テオドールはしばらく無言だった。
やがて諦めたように一枚目を手に取る。
「ところで隊長」
「何だ」
「次回の休日ですが」
アルベルトの目が鋭くなる。
「なぜ知っている」
「勤務表を作成したのは私です」
「…………」
「ご武運を」
「二度と言うな」
そう答えながら、アルベルトの机の一番上の引き出しには、すでに新しい王都案内図が一冊。
今度は表紙を下にして、誰にも見つからないよう静かにしまわれていた。




