白猫、夫を護衛する。
暗殺というものは、本来、気づかれないほうがいい。
標的が自分の死を知るのは、刃が喉を裂いたあとでいい。毒ならば、異変に気づいた頃には手遅れであることが望ましい。
少なくとも、かつて《白猫》と呼ばれたリリア・クロフォードは、そう教えられてきた。
だからこそ、その封筒を見た瞬間に彼女は笑うのをやめた。
※
王国軍第一大隊本部、午前九時三十七分。
「アルー」
初夏の風と一緒に、白銀の髪が窓から現れた。
執務机へ向かっていたアルベルトは、反射的に顔を上げる。
「なぜ窓から来る!」
いつもの怒声が執務室に響いた。
窓枠へ軽々と腰掛けたリリアは、悪びれる様子もなく首を傾げる。
「近かったから」
「昨日も正門を使えと言っただろう!」
「覚えてるよ」
「なら使え!」
「でも窓のほうが近いよ?」
「距離の話をしているんじゃない!」
向かいの机では、副官テオドール・ハインツが一度も顔を上げなかった。
もはや日常だ。
王国軍第一大隊本部へ窓から侵入する元暗殺者と、それを毎回律儀に叱る第一大隊長。
なお、警備兵は既にリリアの気配を察知していたが、止めれば止めたで屋根へ回るため、最近では「隊長が怒鳴ったら侵入確認」という極めて不名誉な運用が定着しつつあった。
「今日ね、焼き菓子――」
そこまで言ってリリアの声が途切れた。
アルベルトが眉を寄せる。
窓から降りた彼女は、机の上を見ていた。
白い一通の封筒。
差出人はない。
封蝋すらなく、表にはただ『第一大隊長 アルベルト・クロフォード殿』とだけ記されている。
「……それ」
声が違った。
アルベルトはすぐに気づいた。
「誰が持ってきたの?」
「今朝、執務室前に置かれていた」
「誰か触った?」
「私が確認しました」
テオドールも仕事の手を止めている。
「手袋は?」
「使用しています」
「開けた?」
「いいえ」
リリアが小さく息を吐いた。
「よかった」
彼女は近づいた。
ただし、触れない。
むしろ机から半歩離れ、紫の瞳だけで封筒を観察している。
「リリア?」
「アル。それ、開けちゃ駄目」
「理由は」
「端」
細い指が、封筒の左下を示した。
ごく小さな切れ込みがある。
紙が偶然裂けたと言われれば、誰も疑わないほどの傷。
「これは?」
「印」
「何のだ」
リリアは答えなかった。
その沈黙だけで、アルベルトには十分だった。
「……暗殺者か」
「うん」
紫の瞳から、いつもの柔らかな光が消えていた。
※
封筒は即座に隔離された。
専門班が調べた結果、毒物も術式も仕掛けられてはいなかった。
入っていたのは紙片が一枚だけ。
記されていた文字も、一行。
『三日以内に死ぬ』
第一大隊の会議室には、普段とは異なる緊張が満ちていた。
窓は閉ざされ、入口には二名の兵士。机上には封筒と紙片を写した資料が並んでいる。
「脅迫状としては、随分と簡素ですね」
テオドールの言葉に、リリアは首を横へ振った。
「脅迫じゃないと思う」
「理由は?」
「本当に脅したいなら、もっと分かりやすくするから」
紙片を見つめるリリアの声は静かだった。
「これは合図。紙の折り方も、封筒の切り込みも、昔使われてたものに似てる」
「お前がいた組織か?」
アルベルトが尋ねる。
「同じとは限らない。でも、近いところ」
「では、実行予告と考えるべきでしょうか」
「たぶん」
そこでリリアが少し眉を寄せた。
「でも変なんだよね」
「何がだ」
「暗殺するのに、本人へ教える必要ないでしょ?」
あまりに自然な口調で言われ、テオドールが一瞬黙る。
「……経験者の発言には説得力がありますね」
「でしょ?」
「そこで嬉しそうにするな」
アルベルトに叱られ、リリアは口を閉じた。
しかし、すぐに表情を戻す。
「たぶん、アルに見せたいんじゃない」
「では誰に」
「私」
空気が変わった。
「《白猫》がアルベルト・クロフォードの妻になったって知ってる人。私がこれを見れば意味が分かるって知ってる人」
アルベルトは数秒黙った。
そして資料を閉じる。
「分かった」
「うん」
「リリア、お前はこの件から外れろ」
「やだ」
間髪入れずに返ってきた。
「リリア」
「絶対やだ」
「相手がお前を意識している可能性がある以上――」
「だから私がいたほうがいい」
リリアの声は低くない。
怒鳴ってもいない。
それでも、アルベルトは言葉を止めた。
「アルが狙われてるなら、私が一番役に立つ」
「お前が危険に晒される」
「慣れてるよ」
その一言にアルベルトの表情が変わった。
リリアも気づいた。
「……アル?」
「今、何と言った」
「慣れてるって」
「それが気に入らんと言っている」
アルベルトは椅子から立ち上がった。
「お前は自分が傷つくことを、いつまで任務の必要経費として扱うつもりだ」
リリアの目が僅かに揺れた。
「でも、アルを守れるなら――」
「それだ」
低い声が遮る。
「お前は守ると決めた瞬間、自分を勘定から外す」
リリアは黙った。
否定できなかった。
かつての《白猫》にとって、自分の生死は任務の成否より下にあった。
潜入できる。
殺せる。
帰還できるかは、その次。
その考え方が今も身体の奥に残っている。
「俺は」
アルベルトが一歩近づく。
「お前に守られたくないわけではない」
リリアが顔を上げる。
「お前が自分を捨てて俺を守るのが嫌なんだ」
「…………」
「俺を守って、お前も戻れ」
その言葉は命令のようでいて、ひどく個人的だった。
「それができないなら護衛など頼まん」
しばらく誰も口を開かなかった。
やがてリリアが小さく息を吐く。
「難しいね」
「何がだ」
「結婚」
「今さら何を言っている」
「暗殺のほうが簡単だった」
「比較対象を変えろ」
ほんの僅かに空気が緩んだ。
そこでテオドールが咳払いをする。
「お話はまとまりましたか」
「痴話喧嘩じゃないよ?」
「一言もそう申し上げておりません」
「顔が言ってる」
「生まれつきです」
アルベルトが額を押さえた。
「テオドール。意見は」
「隊長夫人を外すことには反対です」
アルベルトの目が鋭くなる。
「理由を言え」
「相手が《白猫》を意識している以上、夫人の知識は必要です。ただし単独行動は禁止。必ず部隊と連携していただきます」
「分かった」
リリアが素直に頷く。
「屋根からの単独追跡も禁止します」
「え」
「地下水路もだ」
アルベルトが付け足した。
「アルまで?」
「窓も禁止だ」
「それ事件と関係ないよね?」
「この機会にまとめて禁止する!」
※
第一大隊本部は第二級警戒態勢へ移行した。
正門の検問は強化され、各棟の屋上にも監視が置かれる。
アルベルトの行動範囲も制限された。
「……近い」
「護衛だから」
「近すぎる」
「離れたら守れないよ」
「俺の肩へ顎を乗せる必要がどこにある」
執務室。
アルベルトの背後には、リリアがいた。
椅子の後ろから夫の肩へ顎を乗せ、完全に密着している。
「このほうが死角ないよ?」
「嘘をつけ」
「ほんと」
「ではなぜ腕まで首に回っている」
「固定」
「何をだ!」
テオドールは黙々と書類を処理している。
「副官」
「はい」
「何か言え」
「護衛対象の精神状態は安定しているようです」
「どこを見てそう判断した!」
「先ほどより眉間の皺が浅くなりました」
「テオドール」
「事実です」
リリアが嬉しそうにアルベルトの横顔を覗き込む。
「私いたほうが安心?」
「違う」
「嬉しい?」
「違う」
「じゃあ離れる?」
「…………」
数秒考えた。
「そのままでいい」
今度はテオドールが黙った。
「何だ」
「何も」
「絶対に何かあるだろう!」
※
襲撃は、その日の夕刻に起きた。
正門付近で荷馬車が横転した。
兵士たちの注意が一瞬だけそちらへ向く。
同時だった。
リリアの耳が、ごく小さな風切り音を拾った。
「アル!」
考えるより先に身体が動いた。
アルベルトの襟を掴み、床へ引き倒す。
窓ガラスが砕けた。
細い刃が室内を走り、先ほどまでアルベルトの頭があった場所を抜け、背後の柱へ突き刺さる。
「警戒!」
テオドールが即座に立ち上がる。
「西側高所から射撃! 正門の騒ぎは陽動です!」
廊下を兵士たちが走る。
だがリリアには、その声が遠く聞こえていた。
柱へ刺さった刃。
角度。
射線。
距離。
風向き。
一瞬で情報が組み上がる。
西棟。屋上ではない、その一段下。
死角になる回廊。
そこまで把握した瞬間。
リリアの顔から感情が消えた。
呼吸が浅くなる。
重心が落ちる。
音が消える。
つい先ほどまで夫の肩へ顎を乗せていた彼女は、もうそこにはいなかった。
アルベルトは初めて、妻ではなく《白猫》を見た。
美しいとすら思った。
同時に、ひどく怖かった。
あまりにも完成されている。
一人で生き、一人で殺し、一人で消えるための姿として。
リリアが窓へ向かう。
「リリア!」
アルベルトが腕を掴んだ。
びくりと身体が止まる。
「離して。場所分かった」
「一人で行くな」
「今なら間に合う」
「約束しただろう」
「でも―――」
「リリア」
名前を呼ばれた。
《白猫》ではなくリリア、と。
紫の瞳に、僅かに光が戻る。
「俺を守って、お前も戻れ」
会議室で言われた言葉。
リリアは数秒、アルベルトを見つめた。
やがて強張っていた肩から力を抜く。
「……うん」
アルベルトは腕を離した。
代わりに剣を取る。
「テオドール」
「西棟を封鎖済みです。第一班が下階、第二班が外周へ」
「よし。俺たちは回廊へ向かう」
「アルも?」
リリアが目を丸くする。
「当然だ」
「護衛対象なのに?」
「守られて机の下に隠れているだけの夫になるつもりはない」
リリアは一瞬きょとんとして、こんな状況だというのに笑った。
「アル」
「何だ」
「今の、すごく好き」
「あとにしろ!」
※
西棟回廊。
逃走する襲撃者が角を曲がった瞬間、リリアが前へ出た。
速い。だが、アルベルトを置いてはいかない。
相手が刃を振る。
リリアが身を沈めてかわし、その手首を取る。
もう片方の手に刃。
それを見たアルベルトが一歩踏み込み、剣の柄で弾いた。
「右!」
「分かってる!」
リリアが相手の足を払う。
崩れたところへアルベルトが剣を突きつける。
決着。
駆けつけた兵士たちが襲撃者を拘束する。
リリアはその光景を見ながら、しばらく動かなかった。
「リリア」
アルベルトが呼ぶ。
彼女は振り返った。
もう《白猫》の顔ではなかった。
「……ただいま」
不意に言われた言葉に、アルベルトが目を見開く。
それから、小さく息を吐いた。
「ああ」
彼女の頭へ手を置く。
「おかえり」
※
襲撃者は、リリアの元組織と直接の関係を持つ者ではなかった。
過去に《白猫》によって依頼を潰された暗殺者。
彼女が軍人の妻となったことを知り、かつての《白猫》を表へ引きずり出すためにアルベルトを狙った。
すべてを聞き終えたリリアは、取調室の外で腕を組んだ。
「……面倒くさい人」
「感想が軽いな」
「だって」
リリアはアルベルトの袖を掴む。
「アルを使わないでほしい」
その声には、まだ少しだけ硬さが残っていた。
「怖かったか」
「…………」
リリアは答えない。
代わりに、袖を掴む指へ力が入る。
「刃が飛んできたとき」
しばらくして、小さく言った。
「間に合わなかったらって思った」
アルベルトは黙って聞いていた。
「そしたら、昔みたいになった」
「そうか」
「ごめん」
「謝るな」
アルベルトは彼女の手を取った。
「戻ってきただろう」
「……うん」
「ならいい」
指が絡む。
リリアが少し笑った。
「今日、いっぱいくっついていい?」
「なぜそうなる」
「怖かったから」
「…………」
「だめ?」
アルベルトは長く息を吐いた。
「今日はもう離れるな」
紫の瞳がぱっと輝く。
「それ前にも言った」
「いちいち覚えているな」
「アルがたまにしか言わないから」
「……帰るぞ」
「うん!」
腕へ抱きついてきた妻を、今度は振りほどかなかった。
※
翌朝。
事件は終わった。
警戒態勢も解除された。
第一大隊本部には、いつもの平穏が戻っている。
「……リリア」
「なに?」
「事件は終わったぞ」
「うん」
「護衛任務も終了した」
「うん」
「なら、なぜまだ俺の肩へ顎を乗せている」
アルベルトの背後でリリアは昨日とまったく同じ姿勢でくっついていた。
「経過観察」
「何のだ」
「アルの」
「俺は負傷していない!」
テオドールが書類をめくる。
「隊長」
「何だ!」
「眉間の皺が増えております。経過観察は必要かと」
「お前はどちらの味方だ!」
「王国軍です」
「便利な答えを使うな!」
リリアがアルベルトの肩越しに笑う。
その声を聞きながら、テオドールは何事もなかったように次の報告書へ目を落とした。
第一大隊本部には、今日も元暗殺者《白猫》がいる。
窓から入り、隊長に叱られ、勝手に護衛を延長し、愛しい夫の肩へ顎を乗せて笑っている。
おそらく、それでいいのだ。
かつて一人で任務へ向かい、生きて帰ることすら成功条件に入れていなかった《白猫》は、もういない。
今の彼女には、帰る場所がある。
「リリア、重い」
「嘘。私軽いよ」
「そういう意味ではない!」
「じゃあもうちょっと乗る?」
「増やすな!」
帰った先で、毎日律儀に怒鳴ってくれる夫もいる。
《白猫》の護衛任務は、これにて終了。
お本人は、その事実を認めていない。




