隊長殿、妻が本部に来なくなったそうです。
王国軍第一大隊本部から、リリア・クロフォードの姿が消えた。
などと言えば、いかにも国家を揺るがす大事件のようだが、別に失踪したわけではない。
王都にはいる。官舎にもいる。朝になればアルベルトと同じ食卓で朝食を取り、玄関先で「いってらっしゃい、アル」と笑って夫を送り出す。
夜になれば帰宅した彼へ当然のように抱きつき、その日の出来事を楽しそうに話している。
つまり、リリアは何ひとつ変わっていない。
ただひとつ、軍本部へ来なくなった。
原因は明白だった。
数日前、勤務中のアルベルトへいつものようにくっつこうとしたリリアに、彼は第一大隊長として至極真っ当な要求をしたのである。
『本部では、人前で必要以上にくっつくな』
それを聞いたリリアは考えた。
アルは仕事中。
自分が本部へ行けばアルに会える。
アルに会えばくっつきたい。
しかし、くっつけばアルが困る。
ならば行かなければいい。以上。
元暗殺者《白猫》として、厳重な警備網を突破する経路なら数分で十通りほど思いつくが、夫婦間における適切な距離感については、驚くほど解決策の選択肢が少なかった。
※
一日目。午前九時十二分。
第一大隊長執務室には、紙をめくる音とペン先が走る微かな音だけが響いていた。
窓から差し込む初夏の陽光が、磨き込まれた机の端を淡く照らしている。
風が入るたび、壁に掲げられた王国旗がわずかに揺れ、積み上げられた書類の端がかすかな音を立てた。
アルベルトは一通の報告書へ署名し、次の書類を手に取ったところで、ふと壁の時計へ目を向けた。
九時十二分。
「…………」
別に意味はない。
ただ時計を見ただけだ。
昨日リリアが執務室へやって来た時刻が、たまたま九時十二分だったことなど一切関係ない。
アルベルトは何事もなかったように視線を戻した。
静かだった。
実に静かである。
突然扉が開いて「アルー」と呼ばれることもない。
窓から侵入される心配もなければ、書類を読んでいる最中に背中へ抱きつかれることもないし、眉間の皺を指で押されながら「また怖い顔してる」と笑われることもない。
これこそ軍本部のあるべき姿だ。
規律。
秩序。
静謐。
素晴らしい。
「……静かだな」
無意識に漏れた声に、向かいの机で兵站報告を確認していたテオドールのペンが止まった。
副官は一瞬だけ顔を上げる。
「そうですね」
「仕事が捗る」
「何よりです」
「昨日までが異常だったんだ」
「左様ですか」
テオドールはそれ以上何も言わず、再び書類へ視線を落とした。
アルベルトも仕事へ戻る。
十分後。
廊下から女の笑い声が聞こえた。
反射的に顔を上げる。
文官だった。
「…………」
書類へ戻る。
さらに三十分後、開いた窓の向こうを白いものが横切った。
また顔が上がる。
白い鳥だった。
「…………」
視線を戻そうとしたところで、テオドールと目が合った。
「何だ」
「何も」
「今、こちらを見ただろう」
「隊長が突然窓をご覧になったので、異常でもあったのかと」
「鳥だ」
「そうですか」
「白かったから目に入っただけだ」
「私は何も申し上げておりません」
妙に淡々とした返答が腹立たしい。
「仕事をしろ」
「しております」
結局、その日リリアが本部へ姿を見せることはなかった。
だが、アルベルトは気にしなかった。
事実、仕事は驚くほど捗った。
通常より多くの決裁を片づけ、予定より早く会議資料にも目を通せたのだから、むしろ歓迎すべきことだ。
そう結論づけて帰宅すると、
「アル、おかえりー!」
玄関を開けた途端、白銀の塊が飛んできた。
「危ないだろう」
反射的に受け止める。
「アルなら受け止めてくれるもん」
「そういう問題ではない」
口では叱りながら、腰へ回した腕は離れない。
リリアもいつも通り嬉しそうに胸元へ頬を寄せている。
怒っているわけではないらしい。
ならば問題はない。
そう判断したアルベルトは、その夜、何の懸念もなく眠りについた。
※
二日目。同時刻午前九時十二分。
アルベルトは時計を見なかった。
見てはいない。
ただ、今が九時十二分だということは分かっていた。
「…………」
来ない。
いや、だから何だ。
昨日も来なかったではないか。
昨日は仕事が捗った。
今日も捗る。
非常に結構だ。
「隊長」
「何だ」
「そちらは昨日決裁された報告書です」
アルベルトは手元へ視線を落とした。
右下に自分の署名がある。
「……再確認している」
「承知しました」
テオドールが書類を受け取る。
その口元がほんの僅かに緩んだように見えた。
「何だ」
「何も」
「笑っただろう」
「生まれつきこの顔です」
「昨日より便利になったな、その顔」
「恐縮です」
昼前。
会議を終えたアルベルトは、執務室へ戻る途中で中庭を横切った。
青空の下、若い兵士たちが投擲訓練を行っている。掛け声と金属音が石造りの壁に反響し、昨日までと何ひとつ変わらない訓練風景が広がっていた。
昨日までなら、その中心に小柄な白銀の頭が混ざっていた。
『もう一回投げていい?』
『ぜひお願いします、隊長夫人!』
説明を最後まで聞かずに投げた短剣を標的の中心へ突き刺し、周囲の兵士を無邪気に沸かせていた。
今日は当然いない。
「…………」
アルベルトは無意識に歩調を緩めた。
「あ、隊長!」
兵士の一人が彼に気づき、慌てて姿勢を正す。
周囲も続いて敬礼した。
「お疲れさまです!」
「ああ」
短く答え、そのまま通り過ぎようとする。
だが、二歩進んだところで足が止まった。
「……今日は」
兵士たちが一斉にアルベルトを見る。
「はい?」
「…………」
何を聞こうとした。
分かっている。
分かっているからこそ、その続きを口にしたくない。
アルベルトは数秒の沈黙の末、表情ひとつ変えずに言った。
「訓練は順調か」
「はい!」
「そうか。続けろ」
今度こそ歩き出す。
数メートル離れたところで、背後から囁き声が聞こえた。
「隊長夫人のこと聞くのかと思った」
「俺も」
「そういえば最近来ないよな」
アルベルトの足が止まった。
兵士たちの呼吸も止まった。
ゆっくりと振り返る。
「……何か言ったか」
「何も!」
「訓練を再開します!」
「標的撃ちます!」
「お前は投擲兵だろうが!」
突如として中庭が活気づいた。
アルベルトは深々と眉間を押さえ、その場を離れた。
※
午後三時。
「そういえば隊長夫人、いらっしゃいませんね」
連絡係の若い兵士が、とうとう地雷を踏んだ。
執務室の空気が凍る。
テオドールが静かに目を閉じた。
若い。
まだ経験が足りない。
アルベルトのペン先も止まっていた。
「……だから何だ」
「え」
「俺を見るな」
「み、見てません!」
「見ているだろう!」
「すみません!」
「なぜ謝る!」
混乱した兵士は書類だけ置き、ほとんど逃げるように執務室を出ていった。
扉が閉まる。
再び静寂。
アルベルトは何事もなかったようにペンを動かし始めた。
「……テオドール」
「はい」
「リリアは今日も来ていないのか」
「お見かけしておりません」
「そうか」
再び書類を見る。
「昨日もか」
「いらしておりません」
「……そうか」
わずかに言い淀む。
「何か聞いているか」
とうとうテオドールが顔を上げた。
「隊長」
「何だ」
「気になるのでしたら、ご本人に直接お尋ねになってはいかがでしょう」
「別に気にしていない」
「承知しました。では、この話はここまでで」
「待て」
即答だった。
テオドールの眉が僅かに上がる。
「何でしょう」
「…………いや」
「はい」
「…………」
「…………」
「仕事をしろ」
「先ほどからしております」
※
三日目。
第一大隊本部に、ついに明確な異変が現れた。
隊長の機嫌が悪い。
もっとも、アルベルトは普段から愛想を振りまく男ではない。
しかし今日は違う。
眉間の皺は通常比一・五倍。
返事は普段より短い。
巡回回数は午前中だけで平常時を超え、なぜか正門前を三度通過した。
そして三度とも、誰かを探すように外を一瞥している。
「副官殿」
昼前、兵士の一人が声を潜めてテオドールへ尋ねた。
「隊長、どうされたんです?」
「さあ」
「隊長夫人、三日来てませんよね」
「その話題を本人の前で出すことは推奨しない」
「やっぱりそれですか」
「私は何も言っていない」
そこへ最悪のタイミングで、最悪の男が来た。
「随分静かだな、今日は」
王宮情報局のセドリックだった。
書類を片手に執務室へ入ってきた彼は、普段なら高確率で視界へ入る白銀の頭がないことに気づき、辺りを見回した。
「白猫は?」
アルベルトのペンが止まる。
「知らん」
「珍しいな。いつもいるのに」
「ここはあいつの職場ではない」
「そうだった?」
「そうだ!」
セドリックは肩を竦め、持参した書類をテオドールへ渡す。
そして何気なく告げた。
「ああ、昨日は王宮にいたぞ」
室内の空気が変わった。
テオドールが目を伏せる。
周囲の兵士が突然猛烈な勢いで仕事を始める。
アルベルトだけが動かない。
「……誰が」
「リリア」
「聞いていない」
「今、誰がと聞いただろう」
「聞いていない」
「シャルロット殿下と菓子を食べていた」
「…………」
「クロフォード侯爵夫人とも庭園を散歩していたな。陛下から王都西区の新しい菓子店を教えてもらったらしく―――」
「セドリック」
「何だ?」
「用件が済んだなら帰れ」
「まだ来て三分だぞ」
「帰れ」
セドリックはしばらくアルベルトを眺めた。
やがて何かに気づいたように、にやりと口角を上げる。
「ああ」
そのひと言だけで腹立たしい。
「なるほど」
「何がだ」
「いや?」
「言え」
「寂しいのか」
「出て行け!!」
第一大隊長の怒声が、本部中に響き渡った。
※
その日のアルベルトは、定時で帰った。
第一大隊史に記録してもいいほどの快挙だった。
誰も止めなかった。
むしろテオドールなど、近年稀に見る晴れやかな表情で送り出した。
「お疲れさまでした」
官舎へ戻り、玄関の扉を開ける。
「アル、おかえりー!」
三日間、何ひとつ変わらない声。
奥から走ってきたリリアが、そのまま勢いよく胸へ飛び込んでくる。
アルベルトは危なげなく受け止めた。
今日も抱きつく。
今日も嬉しそうに笑っている。
今日も自分を好きらしい。
それなのに、本部には来ない。
「…………」
「アル?」
胸元からリリアが顔を上げた。
「今日、機嫌悪い?」
「悪くない」
「眉間すごいよ」
細い指が伸び、眉間の皺を押す。
アルベルトはその手を掴んだ。
柔らかな指先が掌に収まる。
三日間、本部では一度も触れられなかった手だ。
「……お前」
「うん?」
「最近、本部へ来ないな」
とうとう言った。
リリアは紫の瞳をぱちりと瞬かせる。
「うん」
「……なぜだ」
「だってアル、困るって言ってたから」
あまりにも当然のように返され、アルベルトは一瞬言葉を失った。
「私、アル見たらくっつきたくなるし」
「くっつかなければいいだろう」
「無理」
即答である。
「少しは努力しろ」
「したよ?」
「いつだ」
「だから本部に行ってない」
「努力の方向がおかしい!」
リリアは心底分からないという顔で首を傾げた。
「でもアル、お仕事いっぱいできたでしょ?」
「それは……そうだが」
「じゃあよかった」
「よくない」
口から出て、アルベルト自身が固まる。
リリアも一瞬止まった。
紫の瞳が、見る見るうちに輝き始める。
「よくないの?」
「…………」
「アル」
「何だ」
「私に会いたかった?」
「違う」
「寂しかった?」
「違う」
「会いたかったんだ」
「人の話を聞け」
リリアが嬉しそうに笑った。
アルベルトは自分が完全に墓穴を掘ったことを悟る。
「じゃあ明日行くね」
「待て」
「お昼、一緒に食べよ」
「…………」
「だめ?」
首を傾げるリリアを前に、アルベルトはしばらく沈黙した。
やがて観念したように息を吐く。
「……昼食くらいなら来ても構わん」
「ほんと?」
「ああ。ただし正門から入れ」
「分かった!」
「窓、屋根、地下水路は禁止だ」
「地下水路は使ったことないよ?」
「『まだ』だろう」
リリアが嬉しそうに笑った。
「アル、私のこと分かってるね」
「分かりたくて分かったわけではない!」
そう言いながらも、アルベルトの腕はいつの間にかリリアの腰へ回っていた。
リリアはそれに気づいたらしい。
何も言わず、ただ満足そうに夫の胸へ頬を寄せる。
アルベルトも、それ以上は何も言わなかった。
※
翌日、午前九時十二分。第一大隊本部。
執務室では、いつも通りの業務が始まっていた。
アルベルトは書類を読み、テオドールは向かいで兵站資料を確認している。
静かだった。
そのとき、窓が開いた。
「アルー!」
白銀の頭がひょこりと現れる。
アルベルトのこめかみに青筋が浮いた。
「なぜ窓から来る!!」
「こっちのほうが近かった!」
「昨日の話を聞いていたのか!」
「聞いてたよ!」
「なら正門を使え!」
「次からそうする!」
「昨日も聞いた!!」
窓枠を軽々と乗り越える元暗殺者と、それを止めようとする第一大隊長。
廊下では、声を聞きつけた兵士たちが次々と顔を出していた。
「……戻ったな」
「ああ」
「静かな三日間だった」
「俺、ちょっと寂しかったです」
「分かる」
「お前たち聞こえているぞ!!」
怒声が飛ぶ。
兵士たちが一斉に散った。
そんな騒ぎの中、テオドールだけは席を立たない。
静かに紅茶のカップを持ち上げると、窓際で「降りろ」「今降りてる」と揉めている夫婦を一瞥した。
そして、久しぶりに聞く騒音を背景に、一口。
「……平常運転ですね」
王国軍第一大隊本部に、ようやく日常が戻った。
規律も秩序も静謐も。
たった三日で、十分すぎるほど味わった。
やはりこの本部には、窓から侵入してくる元暗殺者と、それを怒鳴りながら結局追い返せない隊長くらいがちょうどいい。
なお、三日ぶりに妻が現れた瞬間、アルベルトの眉間の皺が明らかに一段浅くなった件については、第一大隊全員の生命と平穏を守るため、永久機密として扱われることになった。
第一大隊長は妻の姿が見えると甘くなる。
記録には残せない、暗黙の了解である。




