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隊長殿、妻が本部に来なくなったそうです。

王国軍第一大隊本部から、リリア・クロフォードの姿が消えた。


などと言えば、いかにも国家を揺るがす大事件のようだが、別に失踪したわけではない。


王都にはいる。官舎にもいる。朝になればアルベルトと同じ食卓で朝食を取り、玄関先で「いってらっしゃい、アル」と笑って夫を送り出す。

夜になれば帰宅した彼へ当然のように抱きつき、その日の出来事を楽しそうに話している。


つまり、リリアは何ひとつ変わっていない。


ただひとつ、軍本部へ来なくなった。

原因は明白だった。


数日前、勤務中のアルベルトへいつものようにくっつこうとしたリリアに、彼は第一大隊長として至極真っ当な要求をしたのである。


『本部では、人前で必要以上にくっつくな』


それを聞いたリリアは考えた。


アルは仕事中。

自分が本部へ行けばアルに会える。

アルに会えばくっつきたい。

しかし、くっつけばアルが困る。


ならば行かなければいい。以上。


元暗殺者《白猫》として、厳重な警備網を突破する経路なら数分で十通りほど思いつくが、夫婦間における適切な距離感については、驚くほど解決策の選択肢が少なかった。



一日目。午前九時十二分。


第一大隊長執務室には、紙をめくる音とペン先が走る微かな音だけが響いていた。


窓から差し込む初夏の陽光が、磨き込まれた机の端を淡く照らしている。

風が入るたび、壁に掲げられた王国旗がわずかに揺れ、積み上げられた書類の端がかすかな音を立てた。


アルベルトは一通の報告書へ署名し、次の書類を手に取ったところで、ふと壁の時計へ目を向けた。


九時十二分。


「…………」


別に意味はない。

ただ時計を見ただけだ。


昨日リリアが執務室へやって来た時刻が、たまたま九時十二分だったことなど一切関係ない。


アルベルトは何事もなかったように視線を戻した。


静かだった。

実に静かである。


突然扉が開いて「アルー」と呼ばれることもない。

窓から侵入される心配もなければ、書類を読んでいる最中に背中へ抱きつかれることもないし、眉間の皺を指で押されながら「また怖い顔してる」と笑われることもない。


これこそ軍本部のあるべき姿だ。


規律。

秩序。

静謐。


素晴らしい。


「……静かだな」


無意識に漏れた声に、向かいの机で兵站報告を確認していたテオドールのペンが止まった。


副官は一瞬だけ顔を上げる。


「そうですね」


「仕事が捗る」


「何よりです」


「昨日までが異常だったんだ」


「左様ですか」


テオドールはそれ以上何も言わず、再び書類へ視線を落とした。

アルベルトも仕事へ戻る。


十分後。


廊下から女の笑い声が聞こえた。

反射的に顔を上げる。


文官だった。


「…………」


書類へ戻る。


さらに三十分後、開いた窓の向こうを白いものが横切った。


また顔が上がる。

白い鳥だった。


「…………」


視線を戻そうとしたところで、テオドールと目が合った。


「何だ」


「何も」


「今、こちらを見ただろう」


「隊長が突然窓をご覧になったので、異常でもあったのかと」


「鳥だ」


「そうですか」


「白かったから目に入っただけだ」


「私は何も申し上げておりません」


妙に淡々とした返答が腹立たしい。


「仕事をしろ」


「しております」


結局、その日リリアが本部へ姿を見せることはなかった。

だが、アルベルトは気にしなかった。


事実、仕事は驚くほど捗った。

通常より多くの決裁を片づけ、予定より早く会議資料にも目を通せたのだから、むしろ歓迎すべきことだ。


そう結論づけて帰宅すると、


「アル、おかえりー!」


玄関を開けた途端、白銀の塊が飛んできた。


「危ないだろう」


反射的に受け止める。


「アルなら受け止めてくれるもん」


「そういう問題ではない」


口では叱りながら、腰へ回した腕は離れない。

リリアもいつも通り嬉しそうに胸元へ頬を寄せている。

怒っているわけではないらしい。


ならば問題はない。


そう判断したアルベルトは、その夜、何の懸念もなく眠りについた。



二日目。同時刻午前九時十二分。


アルベルトは時計を見なかった。

見てはいない。

ただ、今が九時十二分だということは分かっていた。


「…………」


来ない。

いや、だから何だ。

昨日も来なかったではないか。


昨日は仕事が捗った。

今日も捗る。

非常に結構だ。


「隊長」


「何だ」


「そちらは昨日決裁された報告書です」


アルベルトは手元へ視線を落とした。

右下に自分の署名がある。


「……再確認している」


「承知しました」


テオドールが書類を受け取る。

その口元がほんの僅かに緩んだように見えた。


「何だ」


「何も」


「笑っただろう」


「生まれつきこの顔です」


「昨日より便利になったな、その顔」


「恐縮です」


昼前。


会議を終えたアルベルトは、執務室へ戻る途中で中庭を横切った。


青空の下、若い兵士たちが投擲訓練を行っている。掛け声と金属音が石造りの壁に反響し、昨日までと何ひとつ変わらない訓練風景が広がっていた。


昨日までなら、その中心に小柄な白銀の頭が混ざっていた。


『もう一回投げていい?』


『ぜひお願いします、隊長夫人!』


説明を最後まで聞かずに投げた短剣を標的の中心へ突き刺し、周囲の兵士を無邪気に沸かせていた。


今日は当然いない。


「…………」


アルベルトは無意識に歩調を緩めた。


「あ、隊長!」


兵士の一人が彼に気づき、慌てて姿勢を正す。

周囲も続いて敬礼した。


「お疲れさまです!」


「ああ」


短く答え、そのまま通り過ぎようとする。

だが、二歩進んだところで足が止まった。


「……今日は」


兵士たちが一斉にアルベルトを見る。


「はい?」


「…………」


何を聞こうとした。


分かっている。

分かっているからこそ、その続きを口にしたくない。


アルベルトは数秒の沈黙の末、表情ひとつ変えずに言った。


「訓練は順調か」


「はい!」


「そうか。続けろ」


今度こそ歩き出す。

数メートル離れたところで、背後から囁き声が聞こえた。


「隊長夫人のこと聞くのかと思った」


「俺も」


「そういえば最近来ないよな」


アルベルトの足が止まった。

兵士たちの呼吸も止まった。


ゆっくりと振り返る。


「……何か言ったか」


「何も!」


「訓練を再開します!」


「標的撃ちます!」


「お前は投擲兵だろうが!」


突如として中庭が活気づいた。

アルベルトは深々と眉間を押さえ、その場を離れた。



午後三時。


「そういえば隊長夫人、いらっしゃいませんね」


連絡係の若い兵士が、とうとう地雷を踏んだ。

執務室の空気が凍る。

テオドールが静かに目を閉じた。


若い。

まだ経験が足りない。


アルベルトのペン先も止まっていた。


「……だから何だ」


「え」


「俺を見るな」


「み、見てません!」


「見ているだろう!」


「すみません!」


「なぜ謝る!」


混乱した兵士は書類だけ置き、ほとんど逃げるように執務室を出ていった。


扉が閉まる。

再び静寂。


アルベルトは何事もなかったようにペンを動かし始めた。


「……テオドール」


「はい」


「リリアは今日も来ていないのか」


「お見かけしておりません」


「そうか」


再び書類を見る。


「昨日もか」


「いらしておりません」


「……そうか」


わずかに言い淀む。


「何か聞いているか」


とうとうテオドールが顔を上げた。


「隊長」


「何だ」


「気になるのでしたら、ご本人に直接お尋ねになってはいかがでしょう」


「別に気にしていない」


「承知しました。では、この話はここまでで」


「待て」


即答だった。

テオドールの眉が僅かに上がる。


「何でしょう」


「…………いや」


「はい」


「…………」


「…………」


「仕事をしろ」


「先ほどからしております」



三日目。


第一大隊本部に、ついに明確な異変が現れた。


隊長の機嫌が悪い。

もっとも、アルベルトは普段から愛想を振りまく男ではない。


しかし今日は違う。

眉間の皺は通常比一・五倍。

返事は普段より短い。


巡回回数は午前中だけで平常時を超え、なぜか正門前を三度通過した。


そして三度とも、誰かを探すように外を一瞥している。


「副官殿」


昼前、兵士の一人が声を潜めてテオドールへ尋ねた。


「隊長、どうされたんです?」


「さあ」


「隊長夫人、三日来てませんよね」


「その話題を本人の前で出すことは推奨しない」


「やっぱりそれですか」


「私は何も言っていない」


そこへ最悪のタイミングで、最悪の男が来た。


「随分静かだな、今日は」


王宮情報局のセドリックだった。


書類を片手に執務室へ入ってきた彼は、普段なら高確率で視界へ入る白銀の頭がないことに気づき、辺りを見回した。


「白猫は?」


アルベルトのペンが止まる。


「知らん」


「珍しいな。いつもいるのに」


「ここはあいつの職場ではない」


「そうだった?」


「そうだ!」


セドリックは肩を竦め、持参した書類をテオドールへ渡す。


そして何気なく告げた。


「ああ、昨日は王宮にいたぞ」


室内の空気が変わった。

テオドールが目を伏せる。

周囲の兵士が突然猛烈な勢いで仕事を始める。


アルベルトだけが動かない。


「……誰が」


「リリア」


「聞いていない」


「今、誰がと聞いただろう」


「聞いていない」


「シャルロット殿下と菓子を食べていた」


「…………」


「クロフォード侯爵夫人とも庭園を散歩していたな。陛下から王都西区の新しい菓子店を教えてもらったらしく―――」


「セドリック」


「何だ?」


「用件が済んだなら帰れ」


「まだ来て三分だぞ」


「帰れ」


セドリックはしばらくアルベルトを眺めた。

やがて何かに気づいたように、にやりと口角を上げる。


「ああ」


そのひと言だけで腹立たしい。


「なるほど」


「何がだ」


「いや?」


「言え」


「寂しいのか」


「出て行け!!」


第一大隊長の怒声が、本部中に響き渡った。



その日のアルベルトは、定時で帰った。


第一大隊史に記録してもいいほどの快挙だった。


誰も止めなかった。

むしろテオドールなど、近年稀に見る晴れやかな表情で送り出した。


「お疲れさまでした」


官舎へ戻り、玄関の扉を開ける。


「アル、おかえりー!」


三日間、何ひとつ変わらない声。


奥から走ってきたリリアが、そのまま勢いよく胸へ飛び込んでくる。


アルベルトは危なげなく受け止めた。


今日も抱きつく。

今日も嬉しそうに笑っている。

今日も自分を好きらしい。


それなのに、本部には来ない。


「…………」


「アル?」


胸元からリリアが顔を上げた。


「今日、機嫌悪い?」


「悪くない」


「眉間すごいよ」


細い指が伸び、眉間の皺を押す。

アルベルトはその手を掴んだ。

柔らかな指先が掌に収まる。


三日間、本部では一度も触れられなかった手だ。


「……お前」


「うん?」


「最近、本部へ来ないな」


とうとう言った。

リリアは紫の瞳をぱちりと瞬かせる。


「うん」


「……なぜだ」


「だってアル、困るって言ってたから」


あまりにも当然のように返され、アルベルトは一瞬言葉を失った。


「私、アル見たらくっつきたくなるし」


「くっつかなければいいだろう」


「無理」


即答である。


「少しは努力しろ」


「したよ?」


「いつだ」


「だから本部に行ってない」


「努力の方向がおかしい!」


 リリアは心底分からないという顔で首を傾げた。


「でもアル、お仕事いっぱいできたでしょ?」


「それは……そうだが」


「じゃあよかった」


「よくない」


口から出て、アルベルト自身が固まる。


リリアも一瞬止まった。

紫の瞳が、見る見るうちに輝き始める。


「よくないの?」


「…………」


「アル」


「何だ」


「私に会いたかった?」


「違う」


「寂しかった?」


「違う」


「会いたかったんだ」


「人の話を聞け」


リリアが嬉しそうに笑った。

アルベルトは自分が完全に墓穴を掘ったことを悟る。


「じゃあ明日行くね」


「待て」


「お昼、一緒に食べよ」


「…………」


「だめ?」


首を傾げるリリアを前に、アルベルトはしばらく沈黙した。


やがて観念したように息を吐く。


「……昼食くらいなら来ても構わん」


「ほんと?」


「ああ。ただし正門から入れ」


「分かった!」


「窓、屋根、地下水路は禁止だ」


「地下水路は使ったことないよ?」


「『まだ』だろう」


リリアが嬉しそうに笑った。


「アル、私のこと分かってるね」


「分かりたくて分かったわけではない!」


そう言いながらも、アルベルトの腕はいつの間にかリリアの腰へ回っていた。


リリアはそれに気づいたらしい。

何も言わず、ただ満足そうに夫の胸へ頬を寄せる。


アルベルトも、それ以上は何も言わなかった。



翌日、午前九時十二分。第一大隊本部。


執務室では、いつも通りの業務が始まっていた。

アルベルトは書類を読み、テオドールは向かいで兵站資料を確認している。


静かだった。


そのとき、窓が開いた。


「アルー!」


白銀の頭がひょこりと現れる。

アルベルトのこめかみに青筋が浮いた。


「なぜ窓から来る!!」


「こっちのほうが近かった!」


「昨日の話を聞いていたのか!」


「聞いてたよ!」


「なら正門を使え!」


「次からそうする!」


「昨日も聞いた!!」


窓枠を軽々と乗り越える元暗殺者と、それを止めようとする第一大隊長。


廊下では、声を聞きつけた兵士たちが次々と顔を出していた。


「……戻ったな」


「ああ」


「静かな三日間だった」


「俺、ちょっと寂しかったです」


「分かる」


「お前たち聞こえているぞ!!」


怒声が飛ぶ。

兵士たちが一斉に散った。


そんな騒ぎの中、テオドールだけは席を立たない。

静かに紅茶のカップを持ち上げると、窓際で「降りろ」「今降りてる」と揉めている夫婦を一瞥した。


そして、久しぶりに聞く騒音を背景に、一口。


「……平常運転ですね」


王国軍第一大隊本部に、ようやく日常が戻った。


規律も秩序も静謐も。

たった三日で、十分すぎるほど味わった。


やはりこの本部には、窓から侵入してくる元暗殺者と、それを怒鳴りながら結局追い返せない隊長くらいがちょうどいい。


なお、三日ぶりに妻が現れた瞬間、アルベルトの眉間の皺が明らかに一段浅くなった件については、第一大隊全員の生命と平穏を守るため、永久機密として扱われることになった。


第一大隊長は妻の姿が見えると甘くなる。

記録には残せない、暗黙の了解である。

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