隊長殿、人前では妻といちゃつかないそうです。
王国軍第一大隊本部において、アルベルト・クロフォードという男の威厳は絶対である。
第一大隊隊長。二十九歳。
若くして精鋭部隊を率いる立場に就き、戦場では常に冷静沈着。判断は迅速、指示は的確で、規律には厳しいが理不尽ではない。
部下からの信頼も厚く、彼がひとたび低い声で命令を発すれば、数百の兵が一斉に動く。
そんな男には、現在ひとつだけ重大な問題があった。
「アルー」
午前九時十二分。
執務室の扉が開くと同時に聞こえてきた声に、書類へ署名していたアルベルトの手が止まった。
嫌な予感がした。
いや、声の主を考えれば、嫌という表現は正確ではない。むしろ嬉しい。嬉しいのだが、場所と状況がよろしくなかった。
「リリア」
「お仕事してる?」
「見れば分かるだろう」
「してるね」
白銀の髪を揺らしながら入ってきた妻―――リリア・クロフォードは、机に向かう夫を見つけた途端、ぱっと顔を輝かせた。
その表情を見た瞬間、アルベルトの胸の奥もわずかに緩む。だが、彼女が迷いなく一直線に向かってくるのを見て、すぐに気を引き締めた。
アルベルトは眉間に皺を寄せた。
「待て」
「なに?」
「そこで止まれ」
ぴたりとリリアが止まった。
ただし、アルベルトの椅子まで残り一歩というところだ。
彼女は止まったことを褒めてほしそうに、紫の瞳を輝かせていた。
「遅い」
「ちゃんと止まったよ?」
「そういう意味ではない」
アルベルトはこめかみを押さえた。
執務室には彼ら二人しかいないわけではない。
向かいの机では、副官であるテオドール・ハインツ大尉が兵站報告書を確認している。
その奥には連絡係の兵士が二名。
さらに扉の向こうでは、先ほどから妙に足音が多い。
おそらく妻の来訪を察知した暇な連中が、何か起こると踏んでいるのだろう。
実に腹立たしいことに、その予想はだいたい正しい。
「今日はどうした」
「アルの顔見に来た」
リリアはそう言いながら、あと半歩だけ近づこうとした。
アルベルトは反射的に椅子の肘掛けを掴み、動揺を押し隠す。
「朝も見ただろう」
「朝見たら昼に見ちゃいけないの?」
「まだ午前だ」
「じゃあ朝二回目」
「…………」
理屈が通じない。
リリアはそんな夫の苦悩など知る由もなく、もう一歩近づくと、いつものようにアルベルトの肩へ腕を回そうとした。
その手首を、アルベルトが咄嗟に掴む。
「リリア」
「うん?」
掴んだ手首があまりにも細く、柔らかい。
その感触に気を取られ、アルベルトは一瞬だけ言葉を失った。すぐに表情を引き締め、低い声を出す。
「ここは本部だ」
「知ってる」
「俺は勤務中だ」
「それも知ってる」
「なら分かるだろう」
リリアは数秒考えた。
やがて紫の瞳をぱちぱちさせ、心底分からないという顔で首を傾げる。
「なにが?」
アルベルトは天井を仰いだ。
向かい側ではテオドールが微動だにせず書類を読んでいる。
ただし先ほどから一枚もめくられていない。
「……人前で必要以上にくっつくなと言っている」
「なんで?」
リリアは掴まれていないほうの手を胸元に添え、不満そうに唇を尖らせた。
「隊長としての体面がある」
「結婚してるの、みんな知ってるよ?」
「そういう問題ではない」
「私がアルのお嫁さんなのも?」
「知っている」
「アルが私の旦那さんなのも?」
「全員知っている」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
リリアの眉がわずかに下がった。
その表情を見た瞬間、アルベルトの胸に、ほんの少し罪悪感が刺さる。
だが、ここで折れてはいけない。
ここは軍本部なのだ。
彼は第一大隊長であり、部下の前では相応の振る舞いというものが―――。
「アル、私のこと好きじゃないの?」
「なぜそうなる」
思わず即答した。
扉の外から何かが倒れる音がした。
アルベルトは反射的にそちらを睨みつける。
リリアは気にした様子もなく、彼の手首を掴む手を見下ろした。
「じゃあ好き?」
「…………」
「アル?」
「…………」
「好き?」
「ここで聞くな!」
廊下の向こうで複数の足音が一斉に逃げていった。
アルベルトは額を押さえる。
テオドールはまだ書類を読んでいる。
何も聞いていないという顔で。
ただし同じ行に繰り返し視線が彷徨っている。
だからこそ余計に腹立たしい。
「つまり」
リリアは腕を組んだ。アルベルトの手から逃れた手首を、もう片方の手でさすりながら続ける。
「本部ではアルに触っちゃ駄目なんだね」
「そうは言っていない。節度を持てと言っている」
「分かった」
妙に素直だった。
アルベルトは嫌な予感を覚え、思わず彼女の顔を覗き込む。
「今日から本部ではアルに触らない」
「待て。なぜそう極端になる」
「だってアルが困るんでしょ?」
「だから、程度の問題で――」
「じゃ、お仕事頑張ってね」
にこっと笑ったリリアは、本当にそれだけ言うと踵を返した。
アルベルトは引き止めようと手を伸ばしかけたが、周囲の視線に気づき、慌てて拳を握り込んだ。
扉が閉まる。
静寂。
アルベルトはしばらく扉を見つめていた。
「……何だ」
視線を感じて振り返る。
テオドールがこちらを見ていた。
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「隊長がそう仰るのでしたら」
テオドールは書類へ視線を戻した。
「ご武運を」
「何のだ」
※
最初の一時間は快適だった。
実に平和だった。
リリアが突然窓から入ってくることもなければ、背後から抱きついてくることもない。
仕事中に髪を弄られることもなく、「アル疲れてる?」と眉間の皺を指で伸ばされることもない。
これこそ軍本部のあるべき姿だ。
アルベルトは非常に満足していた。
そう思い込もうとしながら、彼は無意識に何度も扉へ視線を向けていた。
二時間後。
廊下でリリアとすれ違った。
「あ、アル」
「ああ」
リリアは一瞬、いつものように手を伸ばしかけた。だが、すぐにその手を胸元へ引き戻し、アルベルトから半歩離れた。
「お仕事頑張ってね」
「ああ」
それだけだった。
いつもなら袖を掴む。
最低でも腕には触れる。
今日は何もしなかった。
アルベルトは三歩進んだところで、なんとなく振り返った。
リリアは兵士と楽しそうに話している。
「…………」
胸の奥に、説明のつかない苛立ちが湧いた。
まあ、いい。
三時間後。
中庭を横切ったところで、またリリアを見つけた。
何やら若い兵士たちに囲まれている。
「隊長夫人、これ見てください!」
「なにこれ?」
「新しい投擲訓練用の標的です」
「へえ。投げていい?」
「もちろんです!」
「どこ狙えばいい?」
「あの中心――」
ひゅっ、と空気が鳴った。
兵士が説明し終える前にリリアの手から放たれた訓練用短剣が、二十メートル先の標的の中心へ深々と突き刺さる。
歓声が上がった。
「すげえ!」
「さすが《白猫》!」
「もう一回お願いします!」
「いいよ」
リリアは楽しそうに笑い、兵士から次の短剣を受け取った。
非常に楽しそうだ。
アルベルトは足を止めた。
「隊長?」
後ろを歩いていたテオドールも止まる。
「……何でもない」
「そうですか」
「行くぞ」
「はい」
三歩進む。
アルベルトはまた振り返った。
リリアが兵士の肩を叩いて笑っていた。
その手が自分には触れないことを思い出し、アルベルトの眉間の皺が深くなる。
「…………」
「隊長」
「何だ」
「会議に遅れます」
「分かっている」
※
午後三時。
「隊長」
「何だ」
「先ほどから同じ箇所をご覧になっています」
「確認している」
アルベルトは書類から顔を上げずに答えた。だが、視線は文字を追っていなかった。
「四十分ほど」
「念入りに確認している」
「逆さですが」
アルベルトは黙って書類を回転させた。
テオドールも黙った。
沈黙が痛い。
「……副官」
「はい」
「何か言いたそうだな」
「滅相もございません」
「言え」
テオドールは羽根ペンを置いた。わずかに口元を緩めたように見えたが、アルベルトが睨むとすぐに真顔へ戻る。
「では」
テオドールは淡々と告げた。
「隊長夫人でしたら、先ほど食堂へ向かわれました」
「聞いていない」
「そうですか」
「俺は一言もリリアの居場所など聞いていない」
「はい」
「なぜ報告した」
「必要かと思いまして」
「必要ない」
「承知しました」
数秒の沈黙。
アルベルトは書類へ視線を戻した。だが、数秒もしないうちに耐えきれず、低い声で尋ねる。
「……誰といる」
テオドールが目を伏せた。
「必要ない情報かと」
「テオドール」
「兵士数名と」
アルベルトは椅子を引いて立ち上がった。
「巡回へ行く」
「食堂方面の?」
「本部全体だ!」
※
結局、リリアがアルベルトへ直接触れることなく夕方になった。
午後五時三十分。
「じゃあ私、帰るね」
執務室の入口から顔を出したリリアは、いつもと変わらない笑顔でそう告げた。
アルベルトは書類から顔を上げ、彼女の姿を見た。
今日一日、触れられなかったことへの妙な寂しさが胸に残っている。
「ああ」
「アルもあんまり遅くならないでね」
「ああ」
「じゃあね」
「ああ」
扉が閉じかける。
アルベルトの指が、机の端を強く掴んだ。
「リリア」
気づけば呼び止めていた。
白銀の髪が揺れ、リリアが振り返る。
「なに?」
「…………」
アルベルトは言葉に詰まった。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。
ただ、このまま彼女が帰るのが妙に気に入らなかった。
「アル?」
リリアが不思議そうに首を傾げる。
その顔を見ているうちに、アルベルトは小さく息を吐いた。
席を立つ。
上着を手に取る。
「俺も帰る」
「え? もう?」
「今日の分は終わった」
実際には、終わらせた。
驚異的な集中力によって、最後の三十分で。
「テオドール」
「残務はこちらで処理します」
頼んですらいない。
「……すまん」
「いえ」
テオドールは穏やかに答えた。
「ごゆっくり」
「余計なことを言うな」
アルベルトはリリアの隣まで歩くと、そのまま廊下へ出た。
まだ兵士は大勢いる。
当然、視線も集まる。
リリアは宣言通り、アルベルトには触れなかった。
いつもなら自然に隣へ寄ってくるのに、今日は半歩ほど距離がある。
その半歩が、妙に遠い。
アルベルトは眉間へ皺を寄せた。
数秒迷ってから、隣を歩くリリアの手首を掴む。
「わ」
リリアが目を丸くした。
「アル?」
「帰るぞ」
「帰ってるよ?」
「……そうだな」
自分でも何を言っているのか分からない。
リリアが掴まれた手首を見下ろし、それからアルベルトの顔を見る。
紫の瞳が少しずつ楽しそうに細くなった。
「ねえ」
「何だ」
「触っていいの?」
「…………」
「ここ本部だよ?」
「知っている」
「人もいるよ?」
「見れば分かる」
「アル、隊長としての体面は?」
「うるさい」
周囲の兵士たちが一斉に明後日の方向を向いた。
誰一人として見ていないふりをしている。
が―――全員見ている。
「手、繋いでもいい?」
リリアが聞いた。
アルベルトは周囲を一瞥した。
誰もこちらを見ていないふりをしているが、耳だけはこちらへ向いている。
「……好きにしろ」
「ほんと?」
「ああ」
次の瞬間、手首を掴んでいたアルベルトの手に、細い指がするりと絡んだ。
指と指が重なる。
その温もりに、アルベルトの表情がわずかに和らいだ。
リリアは満足そうに笑った。
「じゃあ抱きついても?」
「それは帰ってからにしろ」
「けち」
「節度の話をしている」
「朝と同じこと言ってる」
「朝から一貫している」
そう言いながら、繋いだ手だけは離さない。
正門へ向かう二人を、第一大隊の兵士たちは極めて慎重に見送った。
やがて扉が閉まる。
「……副官殿」
ひとりが口を開いた。
「何だ」
「隊長、自分から手を取りましたよね」
「見なかったことにしろ」
「全員見ました」
「忘れろ」
「無理です」
「命令だ」
※
官舎へ戻り、玄関の扉が閉まった。
外の気配が完全に消えたのを確認すると、リリアは靴を脱ぐなり振り返る。
「アル」
「何だ」
「もう人いないよ」
「ああ」
リリアは両腕を広げた。
その仕草があまりにも分かりやすくて、アルベルトは思わず溜息をつく。
「……お前は」
「だめ?」
少しだけ首を傾げる。
その顔を見た瞬間、アルベルトの中に残っていた体面も規律も、少なくともこの家の中ではどうでもよくなった。
一歩近づき、その細い身体を抱き寄せる。
「わっ」
予想より強く引き寄せられたらしい。
リリアは驚いた声を上げたあと、すぐに嬉しそうにアルベルトの胸へ頬を寄せた。
アルベルトは彼女の背に腕を回し、昼間ずっと抑えていた感情を埋めるように、しばらく離さなかった。
「アル、我慢してた?」
「していない」
「ほんと?」
「ああ」
「今日ずっと私のこと見てたよ」
「見ていない」
「中庭でも見てた」
「巡回だ」
「食堂にも来た」
「巡回だ」
「執務室で書類逆さにしてたってテオが」
「……あいつ」
明日覚えていろ。
胸中で副官への処遇を検討していると、腕の中から小さな笑い声がした。
リリアが楽しそうに笑っている。
「アル、可愛い」
「その言葉は撤回しろ」
「やだ」
「リリア」
「でも嬉しい」
その一言で、アルベルトは黙った。
リリアは彼の胸元へ額を押しつけたまま、服をきゅっと掴む。
「私ね、アルにくっつくの好き」
「知っている」
「アルが嫌なら我慢するけど」
「嫌だとは言っていない」
「でも困るんでしょ?」
「……本部ではな」
アルベルトは少しだけ腕の力を緩め、リリアの顔を覗き込んだ。
「俺が言ったのは、場所を考えろということだ。お前に触れるなとは言っていない」
「難しい」
「何がだ」
「どこまでならいいの?」
「それくらい自分で考えろ」
「暗殺なら距離の取り方分かるんだけど」
「比較対象がおかしい」
「じゃあアルが教えて」
「……何を」
「本部でどこまでならいちゃいちゃしていいか」
「いちゃいちゃする前提を捨てろ」
リリアが声を上げて笑った。
アルベルトは呆れながらも、その身体を再び抱き寄せる。
今度は先ほどよりゆっくりと。
白銀の髪に頬が触れる。
朝から散々振り回されたというのに、腕の中に収まってしまえば、不思議なくらい落ち着いた。
「じゃあ家では?」
リリアが尋ねた。
「何がだ」
「どこまでくっついていい?」
「…………」
アルベルトは答えなかった。
代わりに、離れかけていたリリアの身体をもう一度引き寄せる。
「アル?」
「好きにしろ」
「ほんと?」
「ああ」
ぱっと顔を輝かせたリリアが、今度こそ遠慮なく首へ腕を回した。
「じゃあいっぱいくっつく」
「勝手にしろ」
「寝るまで?」
「ああ」
「寝てからも?」
「好きにしろ」
「明日の朝まで?」
「リリア」
「なに?」
アルベルトは一度黙った。
言う必要などない。
そんなことをわざわざ口にするような性格でもない。
だが、一日中自分に触れなかった妻が、今は嬉しそうに腕の中にいる。
それを見ていたら、ほんの少しくらいなら夫としての体面くらいは、捨ててもいい気がした。
「……今日はもう離れるな」
リリアが固まった。
アルベルトは言ってしまったことを自覚し、耳が熱くなるのを感じた。
撤回しようと口を開きかけたが、その前にリリアの腕がさらに強く首へ回る。
「アル」
「何だ」
「もう一回言って」
「言わん」
「ねえ、アル」
「言わん」
「もう一回だけ」
「うるさい」
「アルー」
「離れるなと言っただろう!」
その夜。
軍本部から遠く離れた官舎には、第一大隊長としての威厳も、規律も、体面もなかった。
ただ、嬉しそうに夫へくっつく元暗殺者の妻と、口では文句を言いながら、その妻を一度も離そうとしない夫がいるだけだった。
※
翌朝、午前七時四十分。
第一大隊本部へ出勤したアルベルトを見た兵士たちは、全員が妙に素早く目を逸らした。
「……何だ」
「いえ!」
「何でもありません!」
「おはようございます、隊長!」
不自然だ。
非常に不自然である。
アルベルトが眉を寄せながら執務室へ入ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
嫌な予感がした。紙を裏返す。
大きな文字で、
『祝・隊長、自分から手を繋ぐ』
その下には、びっしりと兵士たちの署名。
「…………テオドール」
「おはようございます、隊長」
「これは何だ」
「さあ」
「貴様の署名もあるが」
「筆跡を偽造されたようです」
「一番上にあるぞ」
「大胆な犯行ですね」
「テオドール」
「本日も良い一日になりそうです」
アルベルトの怒声が第一大隊本部へ響き渡るまで、あと三秒。
そしてその頃官舎では、夫を見送ったリリアが、ひとり上機嫌で朝食の皿を片づけながら考えていた。
今日は本部で、どこまでならくっついていいのか。
まだ答えは出ていない。
なので、とりあえず昼頃に本人へ聞きに行くことにした。
かちゃかちゃと鳴る食器の音に鼻歌が混じる。
第一大隊隊長の平穏は、本日も遠い。




