副官殿、両想いなのに交際していないにつき。
王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉と王女シャルロットは、互いに想いを寄せ合っている。
これは、もはや疑いようのない事実だった。
テオドールは本人に告げた。
『殿下を、好きになったようです』
シャルロットも答えた。
『私も好きよ』
手も繋いだ。
しかも複数回。
第一大隊の兵士五十二名が、その事実を把握している。
にもかかわらず。
「え?」
昼休みの談話室。
リリアは紅茶のカップを手にしたまま、目を丸くしていた。
湯気の向こうで、彼女の表情だけが妙に晴れやかだった。まるで長年放置されていた謎の答えを、ついに発見した探偵の顔である。
「二人って、恋人じゃないの?」
「…………」
シャルロットが動きを止めた。カップを持ち上げかけた手が、空中でぴたりと固まる。
向かいに座るテオドールも動きを止めた。
「…………え?」
今度はシャルロットが声を上げた。
リリアが首を傾げる。
「違うの?」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちた。壁時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
テオドールはゆっくりとカップを置いた。置き方だけは軍人らしく正確だったが、指先はわずかに震えていた。
「恋人、とは」
「そこから!?」
リリアが立ち上がった拍子に、紅茶の水面が大きく揺れた。
「テオ、シャルのこと好きなんだよね?」
「……はい」
「シャルもテオが好き」
「え、ええ」
「手も繋いでる」
「……はい」
「デートもしてる」
「二度ほど」
「じゃあ恋人じゃん!」
「そうなのですか?」
「なんで私に聞くの!?」
リリアの叫びが談話室に響き、廊下を歩いていた兵士が三人ほど足を止めた。
聞き耳を立てる姿勢があまりにも堂々としていたため、もはや隠れる気はないらしい。
シャルロットは、みるみる顔を赤くしていく。
「ちょ、ちょっと待って」
「うん?」
「私たち……付き合っているの?」
今度はシャルロットがテオドールを見る。
テオドールも彼女を見る。
「…………」
「…………」
どちらにも答えがなかった。
「嘘でしょ……」
リリアが呟いた。
※
緊急会議が招集された。
「招集する必要がありますか」
テオドールは明らかに不満を示していた。
眉間には深い皺が刻まれ、机の上に置かれた議題書には、誰かが大きく『恋人とは何か』と書いている。
「ある!」
「ありません」
「あるよ!」
「業務上の問題ではありません」
「第一大隊の士気に関わる!」
「関わりません!」
会議室。
長机の中央に座らされているのは、テオドールとシャルロット。
その向かいにはリリアとアルベルト。
ユリウスにセドリック、さらに。
「なぜ兵士までいるのですか」
代表として三名。
「現場の意見です!」
「必要ありません!」
三名の兵士は、必要性を問われた瞬間、背筋を伸ばして敬礼した。どうやら本気で軍事作戦のつもりらしい。
アルベルトは額を押さえていた。
「なぜ俺まで呼ばれた」
「アルは既婚者だから」
「俺を恋愛相談員にするな」
「でも経験者だよ?」
「お前との恋愛経験は一般的な事例にならん」
正論だった。
リリアは頬を膨らませたが、反論できない。
隣でアルベルトが、結婚生活三年目とは思えない疲労を顔に浮かべている。
「まず整理しましょう」
セドリックが楽しそうに指を組む。目が完全に娯楽を見つけた人間のそれだった。
「お二人は互いに好意を伝えた」
「はい」
「はい……」
「休日に二人で出かける」
「……はい」
「手を繋ぐ」
「必要に応じて」
「今朝も廊下で繋いでいたと聞きましたが」
「…………」
テオドールが黙り込んだ。
ユリウスが笑う。
「副官さん、必要性なく繋いでますよね」
「黙ってください」
「では、恋人なのでは?」
「その確認をしていないのです」
テオドールが真顔で言う。
一同が黙った。
セドリックすら数秒間、言葉を失った。
兵士の一人に至っては、手元の議事録へ『確認未実施』と書き込んでいる。
「……確認?」
「はい」
「何の?」
「交際開始の意思確認です」
「契約書のように言わないでください」
「重要でしょう」
テオドールは本気だった。彼の中では、恋愛も軍務も、まず手順と合意が必要らしい。
「互いに好意があるからといって、自動的に恋人関係へ移行するとは限らない。明確な合意なく関係性を決めつけるのは――」
「テオ」
リリアが遮る。
「はい」
「仕事じゃないよ」
「分かっています!」
「分かってないよ!」
横でシャルロットが両手で顔を覆った。指の隙間から見える耳まで真っ赤である。
「私……てっきり……」
全員が振り向く。
「殿下?」
テオドールが少し身を乗り出す。椅子の脚が床を擦り、妙に大きな音を立てた。
「……付き合ってると思ってた」
「…………」
テオドールが固まった。
「だって好きって言ってくれたし」
「はい」
「私も好きって言ったし」
「はい」
「手も繋いだし」
「……はい」
「次のデートの話もしてたでしょう?」
「はい」
「だから、その……」
シャルロットの声が小さくなる。
「恋人になったのだと……」
テオドールの顔から血の気が引いた。
「…………」
「テオ?」
リリアが覗き込む。
「もしかして」
「…………」
「今、ものすごく焦ってる?」
「……少し」
「顔が真っ白ですよ、副官さん」
ユリウスが楽しそうに言う。
「私は」
テオドールは額に手を当てた。普段なら敵軍の包囲を受けても崩さない男が、恋人という単語ひとつで完全に追い詰められている。
「殿下に、非常に失礼なことをしていたのでは」
「そこまでではないわよ!?」
「交際しているとお思いの女性に対し、本人は交際している認識がないまま手を――」
「言い方!」
シャルロットまで赤くなる。
兵士の一人が議事録に『双方、認識に齟齬あり』と書き込んだ。
「それ、報告書にしないでください!」
※
「結論」
リリアが机を叩いた。
置かれていた砂糖壺が跳ね、アルベルトが反射的に受け止める。夫婦の連携だけは無駄に完璧だった。
「今から付き合えばいい!」
「待ってください」
「なんで?」
「この状況で?」
テオドールが周囲を見渡す。
ギャラリーは八名。
しかも全員、帰る気配がない。
兵士三名は椅子に座ったまま、まるで歴史的瞬間を見届ける証人のような顔をしている。
「嫌です」
「では、二人きりにする!」
その言葉にアルベルトが立ち上がった。
「リリア」
「なに?」
「鍵を出せ」
「…………」
「今、お前の右手にある鍵を出せ」
「なんで分かったの?」
「三年夫婦をやっているからだ!」
リリアの手から資料室の鍵が回収された。
「閉じ込めません!」
「成長したね、隊長」
セドリックが拍手する。
「誰のせいだ!」
「主に奥方様でしょうね」
「お前たちもだ!」
結局全員が会議室から追い出された。
扉が閉まる直前、リリアが「頑張ってー!」と叫び、アルベルトに襟首を掴まれて廊下の向こうへ運ばれていった。
※
二人きりになった。
室内は静かだった。
先ほどまで十人近くいたせいで、余計に静けさが際立つ。
窓の外では訓練場から号令が聞こえ、遠くで誰かが転んだらしく、短い悲鳴が上がった。
「…………」
「…………」
テオドールは座ったまま、両手を組んでいる。
シャルロットは隣で指先を弄っていた。
王女として人前に立つ時は堂々としている彼女も、今は視線を机の木目へ落としている。
「殿下」
「はい」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいわ」
「しかし」
「私も確認していないもの」
「ですが、普通は」
「普通って何?」
「…………」
聞かれて困った。
恋愛についての普通など、テオドールには分からない。
彼の知識にあるのは、規則、礼儀、報告、そして敵襲時の対応。
恋人になった後に何をするかなど、軍規のどこにも書かれていない。
シャルロットが小さく笑う。
「テオドールらしいわ」
「褒められている気がしません」
「褒めてるのよ」
「本当に?」
「ええ」
しばらく沈黙が続いた。
テオドールは息を吐いた。戦場であれば、ここで作戦を決めて号令をかけるところだ。しかし今、目の前にいるのは敵ではなく、好きな女性である。しかも彼女は、自分がすでに恋人だと思っていた。
逃げ道はない。
いや、逃げてはいけない。
「では」
「うん」
「改めて、確認してもよろしいでしょうか」
「確認って言い方、やめない?」
「……では」
軍議でも、ここまで緊張することはない。
告白した時より、なぜか緊張している。
好きだと言った。
好きだと言ってもらった。
それなのに、たった一言が出てこない。
「シャルロット殿下」
「はい」
「その……」
窓の外を見る。
扉を見る。
逃げ道を探している自分に気づき、諦めた。
「私と」
一度息を吸う。
「……お付き合いいただけますか」
言った。
シャルロットの瞳が大きくなる。
「…………」
「…………」
「今さら?」
「……返す言葉もありません」
シャルロットが吹き出した。
「ふふっ」
「笑わないでください」
「だって」
「私は真剣です」
「分かってる」
笑いながら、それでも頬は真っ赤だ。
「はい」
シャルロットはテオドールを見る。
「喜んで」
胸の奥が、静かに熱くなる。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
「では」
「うん」
「これで恋人、という認識で間違いありませんか」
「テオドール!」
「確認は大切でしょう!」
シャルロットは笑いながら額を押さえた。
「間違いありません!」
「承知しました」
「軍務のように返事をしないで!」
「では、何と言えば」
「……嬉しい、とか」
「嬉しいです」
即答だった。
シャルロットが動きを止める。
テオドール自身も少し驚いた。考えるより先に言葉が出たのは、彼にしては珍しい。
「……とても」
付け加える。
今度はシャルロットが何も言えなくなる番だった。
彼女は両手で頬を押さえ、しばらく俯いていたが、やがて小さく笑った。
※
「付き合った!」
扉の外でリリアが小声で叫んだ。
「聞くなと言っただろう!」
アルベルトが小声で怒る。
「でも付き合った!」
「先輩、声を抑えてください」
「おめでたいですねえ」
「セドリックも聞くな!」
ユリウスが指を折る。
「これで正式に恋人ですね」
「うん!」
「では次は?」
リリアが考える。
「……キス?」
「早い!」
アルベルトの声が響いた。
室内が静かになる。
「…………」
扉の外も静かになる。
数秒後、扉が開いた。
テオドールが立っていた。
「皆さん」
笑顔だった。
恐ろしい笑顔だった。
口元は穏やかなのに、目だけがまったく笑っていない。
第一大隊の兵士たちは、敵襲を知らせる鐘よりも早く危険を察知した。
「何をしているのですか」
「お祝い?」
「帰ってください」
「でも―――」
「帰ってください」
二度目は有無を言わせなかった。
全員が一斉に散り、廊下には靴音だけが残った。リリアだけが角から顔を出していたが、アルベルトに再び回収された。
※
翌朝、第一大隊本部。
テオドールはいつも通り登庁した。
正門を通る。
兵士が敬礼する。
「おはようございます、副官殿!」
「おはよう」
「ご交際おめでとうございます!」
「…………」
足が止まった。
廊下でも。
「副官殿! おめでとうございます!」
階段でさえ。
「末永くお幸せに!」
食堂までも。
「王女殿下との交際記念で、本日はプリンを一つサービスいたします!」
「なぜ全員知っているのですか!」
答えは聞くまでもなかった。
「奥方様ァ!!」
怒声が響く。
白銀の髪が廊下の向こうへ逃げていく。
「アルー! テオに怒られた!」
「お前が悪い!」
「だって嬉しくて!」
「だからといって全軍へ通達するな!」
「全軍じゃないよ! 第一大隊だけ!」
「十分だ!!」
テオドールが追いかける。
「テオドール」
聞き慣れた声に、足が止まった。
シャルロットだった。
今日も第一大隊へ来ていた。彼女の姿を見た瞬間、さきほどまでの怒りが嘘のように薄れていく。
代わりに、別の緊張が胸の奥へ押し寄せた。
「おはよう」
「……おはようございます」
昨日までなら、ここで少し距離を取っていた。
だが今日は、恋人。
そう認識した瞬間。
「…………」
今度は逆に、何をすればいいのか分からない。
シャルロットが首を傾げた。
「また逃げる?」
「逃げません」
「地面は?」
「確認しません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ」
シャルロットが手を差し出した。
「恋人なら、手を繋いでもいい?」
テオドールはその手を見る。
以前よりほんの少しだけ迷う時間が短くなった。
「……もちろんです」
手を取る。
シャルロットが笑う。
廊下の向こうからリリアの声が響いた。
「恋人繋ぎしたー!!」
「していません!!」
テオドールが反射的に叫ぶ。
自分たちの手を見る。
普通に繋いでいる。
ほっとした。
「……何を安心してるの?」
シャルロットが笑う。
「いえ」
「恋人繋ぎ、嫌なの?」
「そういう意味では」
「じゃあ今度してみる?」
「…………」
テオドールの耳が真っ赤になる。
「殿下」
「なに?」
「少しずつお願いします」
「ふふっ。はい」
遠くからリリアが叫ぶ。
「テオが『少しずつ』って!」
「リリアァ!!」
再びアルベルトの追跡が始まった。
恋をした。
両想いになった。
そしてようやく正式に、恋人になった。
普通なら、これで一区切りなのだろう。
だが、ここは第一大隊本部なのだ。
王女と副官が交際を始めたその日、本部掲示板には、新たな張り紙が追加された。
『祝・正式交際開始』
署名、六十八名。
「人数がおかしい」
テオドールは真顔で呟いた。
第一大隊の定員より多い。
よく見る。
兵站部。
王宮警備隊。
セドリック。
ユリウス。
そして一番下。
妙に威厳のある筆跡で一名。
『娘をよろしく頼む』
「…………」
テオドールは目を閉じた。
国王陛下も署名済み。
「……国家公認になっている」
背後からシャルロットが覗き込み、顔を真っ赤にする。
「お父様まで何をしているの……!」
テオドールは深く息を吐いた。
恋人ができた。
嬉しい。
間違いなく嬉しい。
ただし、どうやらこの恋愛には、プライバシーというものだけが存在しないらしかった。




