副官殿、恋を自覚した途端に挙動不審につき。
王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉は、恋をした。
正確には自分が恋をしているのだと、ついに認めた。
問題は、その翌日からだった。
「テオドール!」
第一大隊本部の廊下。
聞き慣れた声に呼び止められ、テオドールは足を止めた。背筋はいつも通りまっすぐで、足音も軍人らしく規則正しい。だが、内心では警報鐘が王都中に鳴り響いていた。
振り返る。
シャルロットがいた。
金色の髪。紫がかった青い瞳。
自分を見つけたことが嬉しいと、そのまま顔に書いてあるような笑顔。
昨日、この人と手を繋いだ。
「…………」
右手に、あの感触が蘇る。
柔らかな指。
少しだけ握り返された手。
『もう一度、繋がない?』
そして自分は自分の意思で、その手を取った。
思い出した瞬間、テオドールの右手がぴくりと跳ねた。まるで手袋の中に敵兵が潜んでいるかのような反応だ。
「テオドール?」
「……失礼します」
「え?」
踵を返した。
逃げた。
王国軍第一大隊副官、二十七歳。
敵前逃亡など一度もしたことのない男が、王女一人から逃走した。
「テオドール!?」
「急ぎの仕事がありますので!」
「今来た方向へ戻っているわよ!?」
「…………」
方向転換した。
廊下の角まで来たところで、テオドールは一瞬だけ立ち止まった。戻るべきか、このまま進むべきか。軍事作戦なら即座に判断できる。敵の数、地形、退路、勝率。だが、相手がシャルロットとなると、脳内の作戦盤は白紙になった。
結局、彼は再び方向転換した。
「テオドール!?」
今度こそ、その場を去った。
残されたシャルロットは、呆然とその背中を見送った。彼の姿が角の向こうへ消えても、しばらく瞬きすらしない。
「……今の、何?」
廊下の端で書類を抱えていた兵士が、そっと視線を逸らした。見てはいけないものを見た気がした。
※
「避けられているわ」
リリアは、目の前で沈み込む親友を見つめていた。
第一大隊本部の談話室。
シャルロットはテーブルへ突っ伏している。金色の髪が天板に広がり、まるで高級な絨毯のようだったが、本人の気分は絨毯どころか踏み荒らされた泥道である。
「絶対に避けられているわ……」
「テオが?」
「だって、朝から三回会ったのに、三回とも逃げたのよ」
「三回も?」
「一回目は仕事。二回目は会議。三回目なんて、『訓練場の地面を確認してきます』って」
「地面?」
「地面」
リリアが首を傾げる。
「何を確認するの?」
「私が知りたいわよ!」
シャルロットは半泣きだった。
昨日までなら、テオドールが訓練場の地面を確認すると言えば、真面目ね、と微笑めたかもしれない。しかし今日の彼は、地面に何か重大な秘密でも埋まっているかのような勢いで逃げていった。
「昨日までは普通だったのに」
「うん」
「手も繋いでくれたのに」
「うん!」
「二回も」
「うん!」
「嬉しそうにしないで!」
「だって二回!」
「今はそこ、どうでもいいの!」
シャルロットは顔を伏せる。
耳まで赤くなっていたが、本人はそれどころではない。指先でテーブルの木目をなぞりながら、昨日の出来事を何度も思い返している。
「……やっぱり、嫌だったのかしら」
声が小さくなった。
リリアの笑顔が消えた。
「それはないよ」
「でも」
「ない」
珍しくきっぱりと言う。
「テオ、自分から二回目は手を取ったんでしょ?」
「……うん」
「嫌だったら、そんなことはしないよ」
「じゃあ、どうして避けるの?」
「…………」
リリアは考えた。
その間、シャルロットは息を詰め、リリアは天井を見上げ、談話室の隅にいた猫は欠伸をした。
「あ」
「何?」
「自覚したからだ」
「…………は?」
「テオ、シャルのことが好きなんだって分かっちゃったから、どうしたらいいのか分からなくなってるんだよ!」
「そんなことある!?」
「あるよ!」
「どうして嬉しそうなの!?」
「だって、テオが恋をしているんだよ!」
リリアは両手を胸の前で握りしめ、まるで長年待ち望んだ祭りが始まったかのように目を輝かせている。
シャルロットは頭を抱えた。
「恋をしただけで、あんなに逃げる人がいるの!?」
「テオならする!」
「断言しないで!」
「だって、テオだもん!」
反論できなかった。
※
「隊長」
「なんだ」
「質問があります」
アルベルトの執務室。
テオドールは直立していた。姿勢は完璧、表情も平静、声も落ち着いている。少なくとも外見だけなら、王国軍きっての冷静沈着な副官だった。
ただし、質問の内容が問題だった。
「女性とは、どの程度の距離を保つのが適切でしょうか」
アルベルトのペンが止まった。
「…………」
「…………」
「帰れ」
「なぜですか」
「俺に聞くな」
「既婚者でしょう」
「だから何だ」
「経験者です」
「俺とリリアを恋愛の参考にするな」
説得力があった。
アルベルトとリリアの恋愛は、出会ってから現在に至るまで、騒動と誤解と爆発音を定期的に挟んでいる。参考書にするなら、表紙に『一般人は真似しないでください』と大きく書く必要がある。
「では、誰に聞けばよいのでしょうか」
「知らん」
「困ります」
「なぜ急に、そんなことを気にする」
「…………」
テオドールが黙る。
アルベルトが顔を上げた。
そして、理解した。
「……自覚したのか」
「何をでしょう」
「殿下が好きだと」
「…………」
テオドールの耳が赤くなる。
ほんのわずかな変化だったが、アルベルトは見逃さなかった。戦場で敵の旗を見つけるよりも早く、彼の動揺を察知した。
「なるほど」
「何です、その顔は」
「いや」
「笑わないでください」
「笑っていない」
「口元が笑っています」
「気のせいだ」
「昨日、私が使った言い訳です」
アルベルトはペンを置き、深々とため息をついた。副官の相談に乗るだけならまだいい。問題は、テオドールが恋愛に関しては、腑抜けた敵軍の包囲よりも脆いことだった。
「それで、なぜ殿下を避けている」
「避けてはいません」
「今朝、訓練場の地面を確認しに行ったそうだな」
「なぜ知っているのですか」
「本部中で噂になっている」
終わった。
テオドールの脳裏に、第一大隊の兵士たちがひそひそと囁く姿が浮かんだ。
『副官殿、地面に恋でもしたのか』
『いや、地面に逃げたんだろう』
『地面は裏切らないからな』
最後の推測だけは、妙に説得力があった。
「……私は」
テオドールは額を押さえる。
「どのように接していたのか、分からなくなりました」
「昨日まで普通に接していただろう」
「昨日までは、恋だと認識していなかったので」
「同じようにすればいい」
「できるなら、相談していません!」
思わず声が大きくなった。
アルベルトは、少しだけ同情した。普段ならどんな無茶な命令にも眉一つ動かさない男が、王女の前では廊下を往復し、地面を確認し、既婚者の上官に恋愛相談をしている。
これは重症だ。
※
「ということで」
午後二時、リリアが宣言した。
「二人を閉じ込めます!」
「なぜ、そうなる」
アルベルトが即座に止めた。
「だって、話し合わないと」
「話し合わせるのはいい。閉じ込めるな」
「でも、逃げるよ?」
「テオドールが?」
「うん」
「…………」
否定できない。
横では、ユリウスとセドリックが話を聞いている。
二人とも、なぜか作戦会議に参加する軍人の顔をしていた。
恋愛相談なのに、机の上には本部の見取り図まで広げられている。
「部屋へ誘導して、外から施錠するのですか?」
「ユリウス、協力するな」
「窓も塞いだ方がよいでしょうね」
「セドリックもだ!」
「テオ、窓から出られるかな」
「普通の人間は窓から逃げない」
「先輩基準では、逃げ道ですからね」
「リリア基準で考えるな!」
アルベルトの怒声が響く。
※
三十分後、テオドールは資料室へ呼び出されていた。
「奥方様から、資料整理を頼まれたのですが」
「私もよ」
中にはシャルロットがいた。
二人が立ち止まる。
資料室には古い地図と帳簿が積み上がり、窓から差し込む午後の日差しが、埃を金色に照らしている。
静かで、狭くて、逃げ道が少ない。
リリアたちが選んだにしては、あまりにも完璧な舞台だった。
「…………」
「…………」
テオドールが一歩下がる。
シャルロットの眉がぴくりと動いた。
「では、私は―――」
ばたん。
テオドールの背後の扉が閉まった。
がちゃり。
鍵の音。
「奥方様」
返事はない。
「リリア!」
シャルロットが扉を叩く。
外から明るい声が返ってきた。
「ちゃんと仲直りするまで出しません!」
「喧嘩していないわよ!」
「じゃあ、話し合って!」
「開けなさい!」
「やだ!」
足音が遠ざかる。
テオドールは目を閉じた。逃げ道を失ったことよりも、扉の向こうに仲間たちが耳を押しつけている可能性の方が頭痛の種だった。
「……あの方は、なぜ毎回こうなのでしょうか」
「ごめんなさい」
「殿下が謝ることではありません」
「でも、私が相談したから」
「何を?」
シャルロットが黙った。
テオドールを見る。
「……あなたに避けられているって」
「…………」
逃げ場がなくなった。
物理的にも、精神的にも。
※
資料室に二人きり。
しばらく沈黙が続いた。
壁際の時計が、やけに大きな音を立てている。秒針が一つ進むたび、テオドールの心臓も同じように跳ねた。彼は腕を組み、窓を見て、棚を見て、床を見た。床を見た瞬間、シャルロットがじっと彼を見つめた。
「……地面は確認しなくていいの?」
「ここは訓練場ではありません」
「そうね」
シャルロットが少し笑った。
だが、すぐに表情が曇る。
「昨日のこと、嫌だった?」
「違います」
即答だった。
「では、どうして逃げるの?」
「逃げてはいません」
「今朝、逃げたわ」
「…………」
「三回」
「…………」
「地面まで見に行ったわ」
「その件は忘れてください」
「無理よ」
シャルロットは笑おうとしたが、目元には不安が残っていた。テオドールはそれを見て、胸の奥が締めつけられる。
自分が逃げたせいで、彼女を傷つけている。その事実だけは、敵の刃よりも鋭く刺さった。
「私、何かした?」
「いいえ」
「では、どうして?」
テオドールは答えられなかった。
敵軍の前なら、まだ楽だった。
敵ならば倒せばいい。
任務ならば遂行すればいい。
だが、恋愛には命令書も作戦書もない。『王女殿下に好意を抱いた場合の適切な接近手順』などという規定は、軍規集のどこにも載っていなかった。
「……分からなくなったのです」
「何が?」
「殿下との接し方が」
シャルロットが瞬きをする。
「なぜ?」
「それは……」
言うのか。
ここで。
本人に。
心臓がうるさい。鼓動が速すぎて、隣のシャルロットに聞こえているのではないかと思う。
もし聞こえていたら、これは軍人として致命的な情報漏洩になる。
それでも、このまま彼女を不安にさせる方が、もっと嫌だった。
「昨日」
テオドールは、ゆっくり口を開く。
「帰宅してから、考えました」
「うん」
「なぜ、手を離したくなかったのか」
シャルロットの頬が赤くなる。
「なぜ、また会いたいと思うのか」
「…………」
「なぜ、殿下が笑っていると、私まで嬉しいのか」
言葉にするたび、自分で逃げ道を塞いでいるような気分だった。
だが、もう逃げるつもりはなかった。
少なくとも、地面へ逃げるのは今日で終わりにしたい。
「それで」
一度息を吐く。
「……ようやく理解しました」
シャルロットは何も言わない。
ただ待っている。
「私は」
テオドールが彼女を見る。
「殿下を、好きになったようです」
沈黙。
シャルロットの顔が真っ赤になった。
「…………」
「…………」
「今」
「はい」
「好きって」
「……言いました」
「私を?」
「ほかに誰がいるのですか」
「だって!」
シャルロットが両手で顔を覆った。
指の隙間から覗く瞳は、驚きと喜びと混乱で忙しく揺れている。
「心の準備が!」
「私にもありません」
「言った本人でしょう!?」
「状況的に、言わざるを得なかったので!」
「私のせい!?」
「違います!」
二人とも真っ赤だった。
扉の向こうでは、誰かが小さく「言った」と呟いた。
テオドールは聞こえないふりをした。聞こえないふりをするしかなかった。
※
「言った!」
リリアが両手で口を押さえている。
「テオが好きって言った!」
「リリア」
アルベルトが低い声を出す。
「聞くなと言っただろう」
「でも、気になる!」
「離れろ」
「あと少し!」
ユリウスも扉へ耳を寄せている。
「副官さん、頑張りましたね」
「意外と早かったですねえ」
セドリックまでいる。
「お前たち、全員離れろ!」
その瞬間、扉が開いた。
「うわっ」
四人が雪崩れ込んだ。
先頭はリリア。
その上にユリウス。
さらにセドリック。
最後にアルベルト。
まるで人間製の崩落事故だった。
リリアの髪にユリウスの袖が絡まり、セドリックは片足だけ室内に入り、アルベルトは全員をまとめて押し戻そうとしている。
「…………」
室内の二人が見下ろす。
「奥方様」
テオドールの声が低い。
「はい」
「聞いていましたね」
「…………少しだけ」
「全部でしょう」
「好きってところだけ!」
「一番聞かれてはいけないところです!!」
テオドールの怒声が資料室へ響いた。
廊下の兵士たちが一斉に振り返る。誰かが小声で「やっぱり両想いか」と呟き、別の誰かが「副官殿の声がいつもより三割増しだ」と分析した。
※
リリアたちがアルベルトに連行されていく。
「テオー! おめでとう!」
「黙ってください!」
「シャルもおめでとう!」
「リリア!!」
声が遠ざかる。
残された二人はまた沈黙する。
「……すみません」
テオドールが額を押さえる。
「このような形で伝えるつもりではありませんでした」
「では、いつか言うつもりだったの?」
「…………」
墓穴だった。
シャルロットが笑う。
今度の笑顔には、先ほどまでの不安はなかった。代わりに、からかう気配が少しだけ混じっている。
「テオドール」
「はい」
「私も好きよ」
テオドールが固まった。
まばたきすら止まった。
「以前からご存じでしょう?」
「知ってはいましたが」
「改めて言われると?」
「……困ります」
「嫌?」
「違います」
「では?」
少しだけ迷ってテオドールは手を伸ばした。
今度は、何の理由もなくシャルロットの手を取る。
触れた瞬間、また心臓が跳ねた。
だが、今度は逃げなかった。右手に伝わる温もりを、きちんと受け止める。
「……嬉しいです」
シャルロットが笑った。
「では、もう逃げない?」
「努力します」
「努力なの?」
「善処します」
「セドリックみたいなことを言わないで!」
テオドールも小さく笑った。
その笑顔を見たシャルロットは、繋いだ手に少し力を込める。テオドールも、今度は迷わず握り返した。
資料室の外では、遠ざかったはずのリリアが「今、手を繋いだ音がした!」と叫び、アルベルトの怒声が二度響いた。
※
翌朝。第一大隊本部。
テオドールが登庁すると兵士たちが妙に静かだった。
「…………」
嫌な予感がする。
彼は周囲を警戒しながら机へ向かった。敵陣へ潜入する時より慎重な足取りだったが、残念ながら敵はすでに机の上にいた。
紙が置いてある。
『祝・両想い』
署名、五十一名。
「増えすぎでしょう!!」
怒声が響く。
リリアが廊下の向こうから顔を出す。
「テオー!」
「奥方様!」
「おめでとう!」
「誰に話したのですか!」
「みんな!」
「みんなとは!?」
「第一大隊!」
「全員ではないですか!!」
リリアが逃げる。
テオドールが追う。
「アルー! 助けて!」
「知らん!」
いつもの光景。
いつもの怒声。
いつもの騒がしい本部。
ただ一つ違うのは、テオドールの胸元に小さな花が一輪挿してあることだった。
今朝シャルロットから届いたものだ。
添えられていたカードには。
『もう逃げないでね』
たった一言。
テオドールは、それを誰にも見られないよう大切にしまっている。
だが、花だけは隠せなかった。
隠そうとしたところ、リリアに見つかり、兵士たちに囲まれ、最終的には「副官殿の胸元に春が来た」と詩的な感想まで寄せられた。
恋を自覚した。
気持ちも伝えた。
相手の気持ちも聞いた。
これでもう、悩むことはない。
―――はずだった。
「副官殿!」
廊下の向こうから兵士が走ってくる。
「王女殿下がお見えです!」
テオドールが立ち止まる。
「…………」
「副官殿?」
耳が赤くなる。
「……会議が」
「本日はありません!」
「兵站部へ」
「先ほど戻ってこられたばかりですよね?」
「訓練場の地面を――」
「テオー!!」
遠くからリリアの声。
「逃げちゃ駄目ー!!」
「分かっています!!」
テオドールは両手で顔を覆った。
その向こうから、シャルロットが歩いてくる。
彼女はテオドールの姿を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
テオドールは一度だけ深呼吸し、逃げたい衝動を軍人らしい意志の力で押しとどめる。
そして、ぎこちなく一歩前へ出た。
「おはようございます、殿下」
「おはよう、テオドール」
「本日は、その……」
「訓練場の地面を確認しに行く予定?」
「……ありません」
「よかった」
シャルロットが手を差し出す。
テオドールはその手を見つめた。ほんの一瞬だけ迷い、それから、今度は堂々と手を取る。
背後で、第一大隊の兵士たちが一斉に息を呑んだ。
「見た?」
「見た」
「副官殿が自分から!」
「記録しろ!」
「何を記録するのですか!」
テオドールが振り返って怒鳴る。
シャルロットは楽しそうに笑い、繋いだ手を揺らした。
恋を自覚した。
両想いにもなった。
だが、王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉が、恋人との適切な距離感を身につけるまでにはどうやら、もう少し時間が必要らしい。
※
なおその日の午後。
第一大隊本部の掲示板には、新たな紙が貼られていた。
『副官殿、王女殿下と手を繋ぐ。逃走せず。大いなる進歩』
署名、五十二名。
テオドールはそれを見つけると、今度こそ訓練場へ逃げた。
ただし、シャルロットの手をしっかりと繋いだまま。




