副官殿、無自覚に手を取ってしまったにつき。
王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉は、二度目のデート当日を迎えていた。
正確に言えば、本人は前日まで「これはデートではなく、休日の外出だ」と主張していた。
しかし、その主張を第一大隊本部の誰一人として受け入れてはいなかった。
「では副官殿、二度目のデート、ご武運を!」
「なぜ出陣扱いなのですか」
「頑張ってください!」
「何をです」
「せめて手くらい繋いできてくださいよ!」
「朝から何を言っているのですか!」
出発前、正門前で兵士三名に勝手に見送られた時点で、テオドールの機嫌はすでに少し悪かった。
「テオー!」
その背後から聞き覚えのある声がした。
振り向くと、リリアが満面の笑みで手を振っている。
「奥方様」
「はい!」
「今日は尾行禁止です」
「分かってるよ」
「本当に?」
「うん!」
「絶対に?」
「うん!」
「屋根の上から見るのも」
「しない」
「変装も」
「しない」
「ユリウス殿やセドリック殿を使うのも」
「しない!」
完璧な返事だった。
それがかえって怪しい。
テオドールは目を細めた。
「……では、なぜそこにアルベルト隊長がいるのですか」
リリアの後ろには、アルベルトが立っていた。
彼は額を押さえている。
「俺はこいつを見張っているだけだ」
「そうですか」
「信じろ」
「隊長だけは信じます」
「ひどい!」
「実績の差です」
リリアが頬を膨らませた。
テオドールは深く息を吐く。
今日は、普通の休日にする。
前回のように、国王や護衛、元暗殺者、王宮密偵に囲まれるような事態は避けたい。
何より、シャルロットともう少し落ち着いて話してみたかった。
そのことを自覚した瞬間だけ、本人の耳がわずかに赤くなった。
※
待ち合わせ場所に現れたシャルロットは、淡いクリーム色のワンピースを着ていた。
髪には小さな青いリボン。
前回より少し控えめでありながら、彼女らしい柔らかな装いだった。
「お待たせしました」
「いえ。私も今来たところです」
「嘘」
「……なぜ分かるのです」
「テオドールが待ち合わせ時間ちょうどに来るわけがないもの」
そう言われて、テオドールは黙った。
「何分前?」
「二十分です」
「やっぱり」
シャルロットが楽しそうに笑う。
「前回より十分短くなったわね」
「改善しました」
「改善なの?」
「はい」
真面目な顔で答えるので、シャルロットはまた笑った。
その笑顔を見るだけで、テオドールの肩から少し力が抜ける。
今日の目的地は、王都西区に新しくできた菓子店。
以前、彼自身が誘った場所だった。
「では、行きましょうか」
「ええ」
二人は並んで歩き出す。
その距離は、前回より少し近かった。
※
なお。
二人から七十メートル後方。
「前回より距離が近い」
「リリア」
「何?」
「帰るぞ」
「まだ何もしてない!」
「いる時点で駄目だ」
アルベルトが妻の腕を掴む。
「私は護衛です」
その隣でセドリックが堂々と言った。
「頼まれていないだろ」
「自主的な護衛です」
「それを尾行と言う」
「僕は偶然です」
ユリウスまでいた。
「お前も帰れ」
「今日は本当に偶然ですよ?」
「信じられる要素が一つもない」
「ひどいなあ」
「陛下は?」
アルベルトが低い声で尋ねる。
全員が黙った。
少し離れた果物屋の前で、大きな帽子を被った男性が、葡萄を一房ずつ真剣に見比べている。
「…………」
「…………」
「…………」
「……父親ですから」
セドリックが言った。
「お帰りいただけ!」
アルベルトの低い怒声が響いた。
果物屋の男がびくりと肩を揺らした。
※
当の二人は、その頃すでに人通りの多い通りへ差しかかっていた。
今日は市場の日だったらしく、通りには露店と客がひしめいている。
「すごい人ね」
「はぐれないようにしてください」
「子どもじゃないわ」
「そういう意味ではありません」
テオドールが言いかけた、その瞬間、荷車が横を通った。
人の流れが一気に動く。
「あっ」
シャルロットの体が、後ろから来た人波に押された。
テオドールは考えなかった。
反射だった。
「殿下」
手を伸ばす。シャルロットの手首を掴み、そのまま自分の方へ引き寄せた。
「こちらへ」
ぶつかりそうになった人を肩で避け、彼女を自分の隣へ移す。
それから、その手を離さないまま歩き出した。
「この先もしばらく人が多そうです。しばらく――」
そこで、テオドールは足を止めた。
自分の右手を見る。
そこには、シャルロットの左手がある。
正確に言えば、握っている。
「…………」
「…………」
二人とも立ち止まった。
周囲だけが流れていく。
「テオドール」
「……はい」
「手」
「……はい」
「繋いでいるわ」
「……そうですね」
分かっている。
今、理解した。
自分が王女殿下と手を繋いでいる。
しかも、自然に、ためらいなく。
自分から。
テオドールの思考が完全に停止した。
軍議であれば瞬時に三案を提示できる男が、今は何一つ思いつかない。
「離す?」
シャルロットが小さく尋ねる。
「……危険ですので」
「え?」
「人が多いので」
「うん」
「はぐれる可能性があります」
「うん」
「ですから」
テオドールは視線を逸らした。
「このままで」
シャルロットの頬が真っ赤になる。
「……分かった」
握られた指先に、少しだけ力が返ってきた。
それを感じた瞬間、テオドールの心臓が一度、大きく跳ねた。
彼は何も言わなかった。
口を開けば、声がおかしくなりそうだった。
※
「手!」
七十メートル後方でリリアが口を押さえた。
「繋いだ!」
「声!」
「テオから!」
「だから声を下げろ!」
アルベルトが必死に妻を押さえる。
ユリウスは楽しそうに笑っている。
「副官さん、やりますね」
「無自覚でしょうね」
セドリックは完全に観察者の顔をしていた。
一方果物屋の前では、国王が葡萄を握り潰した。
「…………」
店主が青ざめる。
「お客様、それは商品です」
「すまん」
国王は静かに代金を払った。
※
菓子店へ到着してからも、テオドールはどこか落ち着かなかった。
手は店に入る直前に離した。
離したはずなのに、指先にはまだ感触が残っている。
「テオドール」
「はい」
「聞いている?」
「もちろんです」
「今、三回呼んだわ」
「……申し訳ありません」
「珍しい」
シャルロットが笑う。
「今日はぼんやりしているわね」
「少し考え事を」
「仕事?」
「違います」
「では、何?」
「…………」
答えられない。
あなたと手を繋いだことです、などと言えるはずもない。
シャルロットはしばらく彼の顔を見つめたあと、くすりと笑った。
「もしかして、さっきのこと?」
「……何のことでしょう」
「手」
テオドールが紅茶を飲む動きを止めた。
あまりにも分かりやすい。
「やっぱり」
「…………」
「嫌だった?」
その問いに、テオドールはすぐに顔を上げた。
「いいえ」
返事が早すぎた。
シャルロットが少し目を丸くする。
「まったく」
テオドールは一度言葉を止める。
喉が妙に乾く。
「嫌では、ありませんでした」
それどころか、あのまま離さなければよかったと、少し思っている。
もう少し繋いでいたかったとさえ考えてしまっている。
「私も」
シャルロットが柔らかく笑う。
「嬉しかった」
また心臓が跳ねる。
今日はずっと、調子がおかしい。
※
その後、二人は菓子店を出て、近くの川沿いを歩いた。
夕方の風が少し冷たい。
シャルロットが腕を擦る。
「寒いですか」
「少しだけ」
テオドールは自分の上着を脱いだ。
「どうぞ」
「え、でも」
「私は平気です」
「本当に?」
「はい」
シャルロットの肩に上着をかける。
彼女は上着の襟をそっと掴んだ。
「……暖かい」
テオドールは何も言わず前を向いた。
耳だけが赤い。
「テオドール」
「はい」
「今日、すごく優しいわね」
「普段は違うと?」
「違わないけど」
シャルロットは少し考える。
「今日は、なんというか……私に近い感じがする」
「近い?」
「うん」
テオドールには、よく分からなかった。
だが嫌ではない。
むしろ、彼女との距離が以前より縮まっていることを、どこかで嬉しいと思っている自分がいる。
そのことだけは、もう否定しきれなくなり始めていた。
※
帰り道で、人通りの少ない橋の上、シャルロットが立ち止まった。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「楽しかった?」
「はい」
「前回より?」
「……はい」
正直だった。
シャルロットの目が嬉しそうに細くなる。
「私も」
少しだけ沈黙が続く。
風が髪を揺らす。
「テオドール」
「はい」
「さっきの手」
「…………」
「もう人はいないけど」
「……そうですね」
「今なら、はぐれないわね」
「はい」
「じゃあ」
シャルロットが、おずおずと手を差し出す。
「もう一度、繋がない?」
テオドールは、その小さな手を見た。
理由がない、必要もない、護衛上の意味もない。
それなのに、手は動いた。
自然に。今度は反射ではなく、自分の意思で指を重ねる。
シャルロットが息を呑む。
「……これでよろしいですか」
「うん」
彼女は小さく笑った。
二人で歩き出す。
今度は、誰にも押されていない。
人混みでもない。
それでも、手は離れなかった。
※
「もう無理」
遠くの街路樹の陰で、リリアが泣いていた。
「尊い」
「何だ、その言葉は」
アルベルトが疲れた顔で言う。
「先輩、完全に親戚のお姉さんですね」
「違うよ、親友!」
「どちらでもいいから静かに」
セドリックが笑う。
ユリウスは、珍しく素直に感心していた。
「副官さん、本当に恋をしていますね」
「本人は認めないでしょうけど」
「時間の問題ですねえ」
「…………」
国王は少し離れた場所で無言だった。
「陛下?」
「……帰る」
一同が振り返る。
「よろしいので?」
「これ以上見る必要はない」
少し寂しそうな顔だった。
だが、怒ってはいなかった。
「……娘が幸せそうなら、それでいい」
セドリックが珍しく心から微笑んだ。
その直後。
「ただし、手を離すまで見届ける」
「帰らないのですか!」
アルベルトの声が響いた。
◇
その夜、第一大隊本部。
なぜかテオドールだけが執務室にいた。
休日だ。しかし、本人は家へ帰る気になれなかった。
机の前で、右手を見つめている。
「…………」
今日、自分はシャルロットの手を取った。
一度目は反射。
二度目は、自分から。
「……なぜ」
誰に聞くでもなく呟く。
嫌ではなかった。
むしろ、あのままもう少し歩きたかった。
もう少し、繋いでいたかった。
そこまで考えた瞬間、机へ突っ伏した。
「……何をしているんだ、私は」
戦場でも、ここまで動揺したことはない。
その時、扉が開いた。
「テオー!」
最悪のタイミングだった。
「奥方様」
「手を繋いだね!」
「…………」
テオドールがゆっくり顔を上げる。
「誰から聞いたのですか」
「見てた!」
「尾行禁止と言いましたよね!?」
「尾行じゃないよ!」
「では、何です!」
「偶然、同じ道を歩いていただけ!」
「七十メートル後ろを!?」
「うん!」
「それを尾行と言うのです!」
リリアが逃げる。
テオドールが追う。
「アルー! テオがまた怒った!」
「だから自業自得だ!」
夜の第一大隊本部に、また怒声が響いた。
そして、その十分後。
『テオがシャルと手を繋いだ! 二回!』
という情報が、リリアによって本部全体へ拡散された。
※
『祝・進展』
翌朝、テオドールの机にハートマークいっぱいの紙が置かれていた。
署名、四十三名。
「一人増えている……」
誰が増えたのか。
調べる気力はもうなかった。
ただ、引き出しを開ける。
シャルロットからもらった押し花の栞。
その隣に、昨日菓子店で彼女が選んでくれた小さな紅茶缶が置いてある。
テオドールはそれを見て、しばらく黙った。
やがて、ほんの少しだけ笑う。
「……次は、どこへ行こうか」
自分で口にしてから、固まった。
「…………」
数秒後、両手で顔を覆う。
「……重症だ」
今度ばかりは、もう否定できそうになかった.




