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18/25

副官殿、自覚より先に恋が漏れているにつき。

王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉は、その日の朝も、普段と変わらぬ表情で執務室へ入った。


午前七時四十一分。


いつもより一分遅い。

理由は、正門前で一度足を止めたからだった。

正確には、足を止めざるを得なかった。


昨夜から、何度も考えていることがある。


次の休日にシャルロットを、自分から誘ってみようか。


「…………」


席に着き、書類を開くがすぐに閉じた。


内容が頭に入ってこない。


テオドールは静かに眉間を押さえた。いつもなら一度目を通せば把握できる兵站報告が、今日は「小麦」「馬車」「不足」の三単語を行ったり来たりしている。しまいには、紙の端に無意識で「菓子店」と書きかけ、慌てて黒く塗りつぶした。


仕事に集中できない。

これは由々しき事態だ。


しかも、その原因が兵站でも訓練計画でも他部署との折衝でもなく、一人の女性だという点が、本人にとってはさらに厄介だった。


先日の初デート以来、次の休日が妙に気にかかる。


庭園で笑っていた顔。

書店で「また出かけたい」と言った声。

帰り際に渡された押し花の栞。


昨日など、気づけばそれを三度も見ていた。三度目には、栞の花びらの枚数まで数えていた。副官としては、かなり危険な兆候である。


「……重症か」


「何が?」


すぐ横から声がした。

テオドールの肩がわずかに跳ねた。書類を閉じる動作だけは平静を装ったが、閉じた勢いが強すぎて机の上の羽ペンが転がり、床へ落ちる。


振り向く。

リリアがいた。


「いつからそこに」


「今来た」


「ノックをしてください」


「したよ」


「聞こえませんでした」


「じゃあ、考え事をしていたの?」


テオドールは黙った。


リリアの目が細くなる。獲物を見つけた猫のような顔だった。いや、猫よりたちが悪い。猫はここまで嬉々として他人の秘密を暴こうとはしない。


「シャルのこと?」


「違います」


「即答」


「違います」


「顔、少し赤いよ」


「気のせいです」


「栞を見ていた?」


テオドールの視線が机の端へ飛んだ。

しまった。

それを見たリリアの顔が、ゆっくりと輝いていく。朝日を受けた宝石のように、無駄にきらきらしていた。


「テオ」


「何でしょう」


「恋した?」


「していません」


「したね」


「していません」


「絶対した!」


「奥方様」


「はい!」


「出ていってください」


「分かった!」


素直だった。

素直すぎた。

嫌な予感がした。


「……待ってください」


「なに?」


「誰にも言わないでください」


その言葉を聞いた瞬間、リリアは両手で口を押さえた。

目が完全に笑っている。


「……何も言っていませんけど」


「はい」


「本当に」


「はい」


「分かりましたね?」


「うん!」


不安しかなかった。



五分後。


「テオが恋したって!!」


第一大隊本部に、リリアの声が響き渡った。


「奥方様ァ!!」


執務室から飛び出してきたテオドールの声も響いた。


廊下にいた兵士たちが一斉に振り返る。書類を抱えた兵士は足を止め、掃除中の兵士は箒を握ったまま固まり、たまたま通りかかった新人兵は「恋」という単語だけでなぜか直立不動になった。


「誰にですか?」


「王女殿下!」


「やっぱり!」


「やっぱりとは何ですか!!」


副官の制止など、もはや誰も聞いていなかった。


「おい、本当か!」


「とうとう副官殿が!」


「隊長に報告を!」


「なぜ報告事項になるんですか!」


テオドールは片手で額を押さえ、もう片方の手でリリアを捕まえようとした。しかしリリアは、こういう時だけ妙に身軽だった。廊下の角をひらりと曲がり、兵士の背後へ隠れる。


「奥方様、出てきてください!」


「いや!」


「子どもですか!」


「恋する乙女です!」


「自称しないでください!」


そこへ、ちょうど訓練場から戻ってきたアルベルトが現れた。


「何の騒ぎだ」


「隊長!」


兵士が勢いよく敬礼する。


「副官殿が恋をしました!」


「…………は?」


アルベルトが足を止めた。

テオドールも止まった。

リリアだけが満面の笑みで頷いている。


「シャルに!」


「奥方様!」


「違うの?」


「そういう問題ではありません!」


アルベルトは数秒黙ったあと、深く息を吐いた。長年の付き合いから、これは否定しても肯定しても面倒な案件だと判断した顔だ。


「……とりあえず全員、持ち場へ戻れ」


「しかし隊長」


「これは業務ではない!」


至極もっともだった。

だが、人間は恋愛沙汰に関しては、業務よりも反応が早い。

十分後には、兵站部まで話が届いていた。



「へえ。副官殿が」


昼前にセドリックが第一大隊本部へ現れた。


「帰ってください」


姿を見た瞬間、テオドールが言った。


「まだ何も言っていませんが」


「顔を見れば分かります」


「傷つきますねえ」


「傷ついた人間は、そんなに楽しそうに笑いません」


セドリックは胸元に手を当て、いかにも心外そうな顔を作った。しかし口元が緩みきっているので、演技としては三流だった。


その隣からユリウスが顔を出す。


「副官さん、王女殿下を自分から誘うんですって?」


「誰から聞いたんですか」


「先輩」


「奥方様……」


テオドールは額を押さえた。

噂が尾ひれまで付け始めている。


「まだ誘っていません」


「まだ?」


セドリックが反応する。


「つまり、誘う予定はあると」


「…………」


「墓穴ですね」


「ユリウス殿、黙ってください」


「では、どこへ?」


「言いません」


「花見?」


「言いません」


「食事?」


「言いません」


「旅行?」


「初手でそれは重いでしょう」


「副官さん、ちゃんと分かっているじゃないですか」


「あなた方は、なぜ私の恋愛相談役になっているんですか」


「面白いので」


二人同時だった。


「帰ってください」


「相談料は?」


「請求しますよ」


「では、菓子一箱で」


「なぜ私が払う側なんですか!」


テオドールの声が執務室の天井に跳ね返った。窓辺の鳩が驚いて飛び立ち、外から見ていた兵士が「副官殿、順調に動揺しているな」と小声で頷いた。



その日の午後、テオドールは決意した。


余計な人間に口を出される前に、自分で話をつける。

シャルロットはちょうど、王宮から第一大隊へ遊びに来ていた。


理由はリリアとお茶をするため。


という建前で、最近は普通にテオドールへ会いに来ているのだが、本人だけは隠せているつもりだった。


実際には、彼女が本部へ来る日は、テオドールの執務室の机に置かれた花瓶の花がなぜか新しくなり、彼の髪も普段より丁寧に整えられている。

本人は「身だしなみは軍人の基本です」と言い張っているが、普段は寝癖を一筋放置している男だ。説得力はなかった。


「殿下」


「はい?」


廊下で呼び止める。

シャルロットが振り向く。


それだけで、テオドールはほんの一瞬、言葉に詰まった。彼女の髪に窓から差し込む午後の光が絡み、柔らかな金色に見えたから。

見惚れた、と認めるには、彼の自尊心はまだ頑固すぎた。


「……少し、よろしいでしょうか」


「もちろん」


近くの窓辺。

二人きり。


珍しく先に口を開けなかったのは、テオドールの方だった。


シャルロットは不思議そうに首を傾げる。テオドールは軍議で敵軍の配置を読み、百人規模の部隊を動かす男だ。

なのに今は、たった一人の女性を前にして、言葉を選ぶたびに脳内で作戦会議が開かれている。


第一案、自然に誘う。

第二案、簡潔に誘う。

第三案、まず天気の話をする。


第三案は却下した。天気から始めて菓子店へ持っていく技術を、彼は持ち合わせていない。


「テオドール?」


「次の休日ですが」


「はい」


「もし、ご予定がなければ」


「うん」


「王都西区に新しい菓子店ができたそうです」


「……ええ」


「よろしければ」


そこまで言って、テオドールは一度だけ視線を逸らした。

耳が熱い。自分でも分かるほど熱い。敵前で矢が飛び交っても眉一つ動かさない男が、菓子店の話で赤くなっている。軍人としての威厳が、砂糖菓子のように崩れていく。


「一緒に行きませんか」


「…………」


シャルロットは固まった。


「殿下?」


「…………」


「シャルロット殿下」


「……いま」


「はい」


「私を、誘った?」


「……はい」


「テオドールから?」


「はい」


「自分から?」


「はい」


「デートに?」


テオドールの耳が少し赤くなる。


「……まあ、その認識で問題ありません」


「…………」


シャルロットはその場にしゃがみ込んだ。


「殿下!?」


「待って」


「どうされました」


「今、立てない」


「体調が?」


「違うの」


両手で顔を覆う。


「嬉しすぎて」


「…………」


今度はテオドールが止まった。

胸の奥が、訓練中に突然号令を聞いた兵士のように跳ねた。嬉しい。彼女が喜んでいる。それだけのことが、どうしてこんなにも自分を満たすのか、彼にはまだ説明できなかった。


「テオドールから誘ってくれた……」


「そんなに驚かれるとは思いませんでした」


「だって、この前までは、私が好きって言っても『光栄です』で終わりそうだったのよ!?」


「そこまでは」


「終わりそうだったわ!」


否定しきれなかった。

シャルロットは顔を上げ、まだ赤い頬のまま、まっすぐ彼を見つめた。


「楽しみにしていてもいい?」


「……はい」


「本当に?」


「はい」


「絶対?」


「軍人として約束します」


「そこまで重くしなくていいの!」


彼女が笑う。

その笑顔を見た瞬間、テオドールは、誘ってよかったと思った。


そして廊下の向こうでは、壁に耳を押しつけていたリリアが、感極まった顔で拳を握っていた。



「テオがシャル誘ったぁぁぁ!!」


また第一大隊本部にリリアの声が響いた。


「なぜ知っているんですか!!」


「見てたから!」


「見るなと言ったでしょう!」


「言われてない!」


「今後は見ないでください!」


「無理!」


「即答しないでください!」


廊下の角からアルベルトが現れる。


「また何だ」


「アル! テオが自分からシャルをデートに誘った!」


「…………」


アルベルトは数秒、無言になった。

それから副官を見る。


「……そうか」


「隊長まで、その顔をしないでください」


「いや」


アルベルトは少しだけ笑った。


「よかったな」


「…………」


その一言に、テオドールはほんの少しだけ視線を逸らした。


「……ありがとうございます」


「照れてる!」


「リリア」


「はい!」


「今すぐ執務室へ戻れ」


「なんで!?」


「お前が一番騒いでいるからだ!」


「祝福してるだけなのに!」


「祝福は叫ばなくてもできます!」


「でも叫んだ方が伝わるよ!」


「伝わりすぎています!」


兵士たちの間から、堪えきれない笑い声が漏れた。テオドールはそれを聞きつけ、全員を睨みつける。しかし、いつもの鋭い眼差しには、どこか力がなかった。


口元が、ほんのわずかに緩んでいたから。



夕方には、ほぼ本部全体が知っていた。

食堂へ行けば、

「副官殿、次の休日、頑張ってください!」


倉庫へ行けば、

「おすすめの店がありますよ!」


訓練場へ出れば、

「花束とか必要なら!」


「要りません!」


「では、手紙を!」


「もっと要りません!」


「護衛をつけましょうか!」


「私が護衛する側です!」


とうとうテオドールは、アルベルトの執務室へ避難した。


「隊長」


「なんだ」


「異動願を出してもよろしいでしょうか」


「却下」


「即答ですか」


「お前がいなくなると俺が困る」


「私も困っています」


「耐えろ」


「他人事ですね」


「俺は三年耐えている」


「…………」


言い返せなかった。

妻がリリアなのだ。

説得力が違った。


「まあ」


アルベルトは書類から目を上げる。


「悪くないんじゃないか」


「何がです」


「殿下とのことだ」


「…………」


「お前は仕事以外に興味がなさすぎる」


「余計なお世話です」


「そうか」


アルベルトは口元をわずかに緩めた。


「それで、自分から誘ったのか」


「……はい」


「なら十分だ」


「何がです」


「恋だろう」


テオドールが止まった。


窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっている。遠くから兵士たちの掛け声が聞こえ、机の上の書類が風に揺れた。そんな穏やかな景色の中で、彼の心臓だけがやけに騒がしい。


「違います」


「そうか」


「違います」


「分かった」


「絶対に分かっていませんね」


「俺は何も言っていない」


妙に余裕のある顔が腹立たしい。


テオドールは反論しようとしたが、ふと机の端に置かれた自分の手へ目を落とした。指先には、先ほどシャルロットと話した時の感触が残っている気がする。もちろん触れてはいない。触れてはいないのに、彼女の笑顔が、まるで手のひらに残った温度のように消えなかった。


「……隊長」


「なんだ」


「恋とは、どういうものですか」


アルベルトは書類を置いた。


「俺に聞くな」


「なぜです」


「リリアを見れば分かるだろう」


「余計に分かりません」


その瞬間、執務室の外から声が飛んできた。


「アルー! テオに恋の講義してるの!?」


「していない!」


「じゃあ私がする!」


「来るな!」


テオドールは深く息を吐いた。


恋とは、たぶんこういう騒がしさのことではない。

しかし、彼女のことを考えると、どうしてもこの騒がしさまでついてくる。


それを不快だと思えない自分が、少しだけ不思議だった。



その夜王宮にて、シャルロットはベッドの上で枕を抱えていた。


「テオドールから誘ってくれた……」


何度目か分からない。

向かいの椅子に座るリリアが、嬉しそうに頷く。


「ね!」


「夢じゃないわよね?」


「違うよ」


「私、変な返事しなかった?」


「しゃがんでた」


「やっぱり変だったじゃない!」


「でもテオ、心配していたよ」


「もう無理……」


シャルロットが枕へ顔を埋める。

しばらくして、少しだけ顔を上げた。


「……リリア」


「ん?」


「テオドール、少しは私のことを好きになってくれたのかな」


その問いにリリアは珍しく、すぐには答えなかった。

代わりにとても柔らかく笑う。


「うん」


「本当?」


「だってテオ、自分から誰かを休日に誘う人じゃないもん」


「…………」


「シャルに会いたいから誘ったんだよ」


シャルロットの頬が、また赤くなる。


「……そっか」


「恋だね!」


「声が大きい!」


「でも、テオも同じくらい顔に出てたよ」


「本当に?」


「うん。耳が赤かった」


「耳……」


シャルロットは枕を抱きしめたまま、しばらく黙り込んだ。

やがて、ふにゃりと笑う。


「次の休日、何を着ていこうかしら」


「もう三着選んであるよ」


「早い!」


「靴も五足」


「多い!」


「髪型は六種類」


「リリア、あなたも楽しんでいるでしょう!」


「もちろん!」


結局、いつも通りだった。


 ※


翌朝、テオドールが登庁すると、机の上に紙が置かれていた。


『祝・テオ初恋』


「…………」


下には本部の兵士たちの署名、四十二名。

さらに隅には、誰かが小さく「菓子を食べすぎないように」と書き足していた。余計なお世話にもほどがある。


「誰ですか」


低い声が響く。


「誰が作ったんですか」


誰も答えない。

その奥でリリアがゆっくり逃げようとしている。


「奥方様」


「はい」


「止まってください」


「やだ」


「止まりなさい!」


リリアが走る。

テオドールが追う。


「アルー! テオが怒った!」


「自業自得だ!!」


本部に怒声と笑い声が響き渡る。


テオドールは廊下を駆けながら、手にした紙を丸めていた。だが、完全に捨てることはできなかった。署名の中に、普段は無口な兵士の名前まであった。からかわれているだけではない。皆が、彼の変化を面白がりながらも、どこか温かく見守っている。


そんな騒ぎの中、テオドールの机の引き出しには、一枚の小さなメモが入っていた。


『次の休日、とても楽しみにしています。 シャルロット』


誰にも見られないように、それだけは丁寧にしまってある。


恋かどうかなど、まだ自分でもよく分からない。


ただ、次の休日を楽しみにしている。

彼女に会いたいと思っている。

彼女が笑ってくれれば、少し嬉しい。


彼女が自分を見てくれると、胸の奥が静かに熱くなる。


それだけで十分なのかもしれない。


「テオ! 顔が笑ってる!」


「奥方様ァ!!」


本人が隠し通せる日は、もうとっくに終わっていた。


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