副官殿、自覚より先に恋が漏れているにつき。
王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉は、その日の朝も、普段と変わらぬ表情で執務室へ入った。
午前七時四十一分。
いつもより一分遅い。
理由は、正門前で一度足を止めたからだった。
正確には、足を止めざるを得なかった。
昨夜から、何度も考えていることがある。
次の休日にシャルロットを、自分から誘ってみようか。
「…………」
席に着き、書類を開くがすぐに閉じた。
内容が頭に入ってこない。
テオドールは静かに眉間を押さえた。いつもなら一度目を通せば把握できる兵站報告が、今日は「小麦」「馬車」「不足」の三単語を行ったり来たりしている。しまいには、紙の端に無意識で「菓子店」と書きかけ、慌てて黒く塗りつぶした。
仕事に集中できない。
これは由々しき事態だ。
しかも、その原因が兵站でも訓練計画でも他部署との折衝でもなく、一人の女性だという点が、本人にとってはさらに厄介だった。
先日の初デート以来、次の休日が妙に気にかかる。
庭園で笑っていた顔。
書店で「また出かけたい」と言った声。
帰り際に渡された押し花の栞。
昨日など、気づけばそれを三度も見ていた。三度目には、栞の花びらの枚数まで数えていた。副官としては、かなり危険な兆候である。
「……重症か」
「何が?」
すぐ横から声がした。
テオドールの肩がわずかに跳ねた。書類を閉じる動作だけは平静を装ったが、閉じた勢いが強すぎて机の上の羽ペンが転がり、床へ落ちる。
振り向く。
リリアがいた。
「いつからそこに」
「今来た」
「ノックをしてください」
「したよ」
「聞こえませんでした」
「じゃあ、考え事をしていたの?」
テオドールは黙った。
リリアの目が細くなる。獲物を見つけた猫のような顔だった。いや、猫よりたちが悪い。猫はここまで嬉々として他人の秘密を暴こうとはしない。
「シャルのこと?」
「違います」
「即答」
「違います」
「顔、少し赤いよ」
「気のせいです」
「栞を見ていた?」
テオドールの視線が机の端へ飛んだ。
しまった。
それを見たリリアの顔が、ゆっくりと輝いていく。朝日を受けた宝石のように、無駄にきらきらしていた。
「テオ」
「何でしょう」
「恋した?」
「していません」
「したね」
「していません」
「絶対した!」
「奥方様」
「はい!」
「出ていってください」
「分かった!」
素直だった。
素直すぎた。
嫌な予感がした。
「……待ってください」
「なに?」
「誰にも言わないでください」
その言葉を聞いた瞬間、リリアは両手で口を押さえた。
目が完全に笑っている。
「……何も言っていませんけど」
「はい」
「本当に」
「はい」
「分かりましたね?」
「うん!」
不安しかなかった。
※
五分後。
「テオが恋したって!!」
第一大隊本部に、リリアの声が響き渡った。
「奥方様ァ!!」
執務室から飛び出してきたテオドールの声も響いた。
廊下にいた兵士たちが一斉に振り返る。書類を抱えた兵士は足を止め、掃除中の兵士は箒を握ったまま固まり、たまたま通りかかった新人兵は「恋」という単語だけでなぜか直立不動になった。
「誰にですか?」
「王女殿下!」
「やっぱり!」
「やっぱりとは何ですか!!」
副官の制止など、もはや誰も聞いていなかった。
「おい、本当か!」
「とうとう副官殿が!」
「隊長に報告を!」
「なぜ報告事項になるんですか!」
テオドールは片手で額を押さえ、もう片方の手でリリアを捕まえようとした。しかしリリアは、こういう時だけ妙に身軽だった。廊下の角をひらりと曲がり、兵士の背後へ隠れる。
「奥方様、出てきてください!」
「いや!」
「子どもですか!」
「恋する乙女です!」
「自称しないでください!」
そこへ、ちょうど訓練場から戻ってきたアルベルトが現れた。
「何の騒ぎだ」
「隊長!」
兵士が勢いよく敬礼する。
「副官殿が恋をしました!」
「…………は?」
アルベルトが足を止めた。
テオドールも止まった。
リリアだけが満面の笑みで頷いている。
「シャルに!」
「奥方様!」
「違うの?」
「そういう問題ではありません!」
アルベルトは数秒黙ったあと、深く息を吐いた。長年の付き合いから、これは否定しても肯定しても面倒な案件だと判断した顔だ。
「……とりあえず全員、持ち場へ戻れ」
「しかし隊長」
「これは業務ではない!」
至極もっともだった。
だが、人間は恋愛沙汰に関しては、業務よりも反応が早い。
十分後には、兵站部まで話が届いていた。
※
「へえ。副官殿が」
昼前にセドリックが第一大隊本部へ現れた。
「帰ってください」
姿を見た瞬間、テオドールが言った。
「まだ何も言っていませんが」
「顔を見れば分かります」
「傷つきますねえ」
「傷ついた人間は、そんなに楽しそうに笑いません」
セドリックは胸元に手を当て、いかにも心外そうな顔を作った。しかし口元が緩みきっているので、演技としては三流だった。
その隣からユリウスが顔を出す。
「副官さん、王女殿下を自分から誘うんですって?」
「誰から聞いたんですか」
「先輩」
「奥方様……」
テオドールは額を押さえた。
噂が尾ひれまで付け始めている。
「まだ誘っていません」
「まだ?」
セドリックが反応する。
「つまり、誘う予定はあると」
「…………」
「墓穴ですね」
「ユリウス殿、黙ってください」
「では、どこへ?」
「言いません」
「花見?」
「言いません」
「食事?」
「言いません」
「旅行?」
「初手でそれは重いでしょう」
「副官さん、ちゃんと分かっているじゃないですか」
「あなた方は、なぜ私の恋愛相談役になっているんですか」
「面白いので」
二人同時だった。
「帰ってください」
「相談料は?」
「請求しますよ」
「では、菓子一箱で」
「なぜ私が払う側なんですか!」
テオドールの声が執務室の天井に跳ね返った。窓辺の鳩が驚いて飛び立ち、外から見ていた兵士が「副官殿、順調に動揺しているな」と小声で頷いた。
※
その日の午後、テオドールは決意した。
余計な人間に口を出される前に、自分で話をつける。
シャルロットはちょうど、王宮から第一大隊へ遊びに来ていた。
理由はリリアとお茶をするため。
という建前で、最近は普通にテオドールへ会いに来ているのだが、本人だけは隠せているつもりだった。
実際には、彼女が本部へ来る日は、テオドールの執務室の机に置かれた花瓶の花がなぜか新しくなり、彼の髪も普段より丁寧に整えられている。
本人は「身だしなみは軍人の基本です」と言い張っているが、普段は寝癖を一筋放置している男だ。説得力はなかった。
「殿下」
「はい?」
廊下で呼び止める。
シャルロットが振り向く。
それだけで、テオドールはほんの一瞬、言葉に詰まった。彼女の髪に窓から差し込む午後の光が絡み、柔らかな金色に見えたから。
見惚れた、と認めるには、彼の自尊心はまだ頑固すぎた。
「……少し、よろしいでしょうか」
「もちろん」
近くの窓辺。
二人きり。
珍しく先に口を開けなかったのは、テオドールの方だった。
シャルロットは不思議そうに首を傾げる。テオドールは軍議で敵軍の配置を読み、百人規模の部隊を動かす男だ。
なのに今は、たった一人の女性を前にして、言葉を選ぶたびに脳内で作戦会議が開かれている。
第一案、自然に誘う。
第二案、簡潔に誘う。
第三案、まず天気の話をする。
第三案は却下した。天気から始めて菓子店へ持っていく技術を、彼は持ち合わせていない。
「テオドール?」
「次の休日ですが」
「はい」
「もし、ご予定がなければ」
「うん」
「王都西区に新しい菓子店ができたそうです」
「……ええ」
「よろしければ」
そこまで言って、テオドールは一度だけ視線を逸らした。
耳が熱い。自分でも分かるほど熱い。敵前で矢が飛び交っても眉一つ動かさない男が、菓子店の話で赤くなっている。軍人としての威厳が、砂糖菓子のように崩れていく。
「一緒に行きませんか」
「…………」
シャルロットは固まった。
「殿下?」
「…………」
「シャルロット殿下」
「……いま」
「はい」
「私を、誘った?」
「……はい」
「テオドールから?」
「はい」
「自分から?」
「はい」
「デートに?」
テオドールの耳が少し赤くなる。
「……まあ、その認識で問題ありません」
「…………」
シャルロットはその場にしゃがみ込んだ。
「殿下!?」
「待って」
「どうされました」
「今、立てない」
「体調が?」
「違うの」
両手で顔を覆う。
「嬉しすぎて」
「…………」
今度はテオドールが止まった。
胸の奥が、訓練中に突然号令を聞いた兵士のように跳ねた。嬉しい。彼女が喜んでいる。それだけのことが、どうしてこんなにも自分を満たすのか、彼にはまだ説明できなかった。
「テオドールから誘ってくれた……」
「そんなに驚かれるとは思いませんでした」
「だって、この前までは、私が好きって言っても『光栄です』で終わりそうだったのよ!?」
「そこまでは」
「終わりそうだったわ!」
否定しきれなかった。
シャルロットは顔を上げ、まだ赤い頬のまま、まっすぐ彼を見つめた。
「楽しみにしていてもいい?」
「……はい」
「本当に?」
「はい」
「絶対?」
「軍人として約束します」
「そこまで重くしなくていいの!」
彼女が笑う。
その笑顔を見た瞬間、テオドールは、誘ってよかったと思った。
そして廊下の向こうでは、壁に耳を押しつけていたリリアが、感極まった顔で拳を握っていた。
※
「テオがシャル誘ったぁぁぁ!!」
また第一大隊本部にリリアの声が響いた。
「なぜ知っているんですか!!」
「見てたから!」
「見るなと言ったでしょう!」
「言われてない!」
「今後は見ないでください!」
「無理!」
「即答しないでください!」
廊下の角からアルベルトが現れる。
「また何だ」
「アル! テオが自分からシャルをデートに誘った!」
「…………」
アルベルトは数秒、無言になった。
それから副官を見る。
「……そうか」
「隊長まで、その顔をしないでください」
「いや」
アルベルトは少しだけ笑った。
「よかったな」
「…………」
その一言に、テオドールはほんの少しだけ視線を逸らした。
「……ありがとうございます」
「照れてる!」
「リリア」
「はい!」
「今すぐ執務室へ戻れ」
「なんで!?」
「お前が一番騒いでいるからだ!」
「祝福してるだけなのに!」
「祝福は叫ばなくてもできます!」
「でも叫んだ方が伝わるよ!」
「伝わりすぎています!」
兵士たちの間から、堪えきれない笑い声が漏れた。テオドールはそれを聞きつけ、全員を睨みつける。しかし、いつもの鋭い眼差しには、どこか力がなかった。
口元が、ほんのわずかに緩んでいたから。
※
夕方には、ほぼ本部全体が知っていた。
食堂へ行けば、
「副官殿、次の休日、頑張ってください!」
倉庫へ行けば、
「おすすめの店がありますよ!」
訓練場へ出れば、
「花束とか必要なら!」
「要りません!」
「では、手紙を!」
「もっと要りません!」
「護衛をつけましょうか!」
「私が護衛する側です!」
とうとうテオドールは、アルベルトの執務室へ避難した。
「隊長」
「なんだ」
「異動願を出してもよろしいでしょうか」
「却下」
「即答ですか」
「お前がいなくなると俺が困る」
「私も困っています」
「耐えろ」
「他人事ですね」
「俺は三年耐えている」
「…………」
言い返せなかった。
妻がリリアなのだ。
説得力が違った。
「まあ」
アルベルトは書類から目を上げる。
「悪くないんじゃないか」
「何がです」
「殿下とのことだ」
「…………」
「お前は仕事以外に興味がなさすぎる」
「余計なお世話です」
「そうか」
アルベルトは口元をわずかに緩めた。
「それで、自分から誘ったのか」
「……はい」
「なら十分だ」
「何がです」
「恋だろう」
テオドールが止まった。
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっている。遠くから兵士たちの掛け声が聞こえ、机の上の書類が風に揺れた。そんな穏やかな景色の中で、彼の心臓だけがやけに騒がしい。
「違います」
「そうか」
「違います」
「分かった」
「絶対に分かっていませんね」
「俺は何も言っていない」
妙に余裕のある顔が腹立たしい。
テオドールは反論しようとしたが、ふと机の端に置かれた自分の手へ目を落とした。指先には、先ほどシャルロットと話した時の感触が残っている気がする。もちろん触れてはいない。触れてはいないのに、彼女の笑顔が、まるで手のひらに残った温度のように消えなかった。
「……隊長」
「なんだ」
「恋とは、どういうものですか」
アルベルトは書類を置いた。
「俺に聞くな」
「なぜです」
「リリアを見れば分かるだろう」
「余計に分かりません」
その瞬間、執務室の外から声が飛んできた。
「アルー! テオに恋の講義してるの!?」
「していない!」
「じゃあ私がする!」
「来るな!」
テオドールは深く息を吐いた。
恋とは、たぶんこういう騒がしさのことではない。
しかし、彼女のことを考えると、どうしてもこの騒がしさまでついてくる。
それを不快だと思えない自分が、少しだけ不思議だった。
※
その夜王宮にて、シャルロットはベッドの上で枕を抱えていた。
「テオドールから誘ってくれた……」
何度目か分からない。
向かいの椅子に座るリリアが、嬉しそうに頷く。
「ね!」
「夢じゃないわよね?」
「違うよ」
「私、変な返事しなかった?」
「しゃがんでた」
「やっぱり変だったじゃない!」
「でもテオ、心配していたよ」
「もう無理……」
シャルロットが枕へ顔を埋める。
しばらくして、少しだけ顔を上げた。
「……リリア」
「ん?」
「テオドール、少しは私のことを好きになってくれたのかな」
その問いにリリアは珍しく、すぐには答えなかった。
代わりにとても柔らかく笑う。
「うん」
「本当?」
「だってテオ、自分から誰かを休日に誘う人じゃないもん」
「…………」
「シャルに会いたいから誘ったんだよ」
シャルロットの頬が、また赤くなる。
「……そっか」
「恋だね!」
「声が大きい!」
「でも、テオも同じくらい顔に出てたよ」
「本当に?」
「うん。耳が赤かった」
「耳……」
シャルロットは枕を抱きしめたまま、しばらく黙り込んだ。
やがて、ふにゃりと笑う。
「次の休日、何を着ていこうかしら」
「もう三着選んであるよ」
「早い!」
「靴も五足」
「多い!」
「髪型は六種類」
「リリア、あなたも楽しんでいるでしょう!」
「もちろん!」
結局、いつも通りだった。
※
翌朝、テオドールが登庁すると、机の上に紙が置かれていた。
『祝・テオ初恋』
「…………」
下には本部の兵士たちの署名、四十二名。
さらに隅には、誰かが小さく「菓子を食べすぎないように」と書き足していた。余計なお世話にもほどがある。
「誰ですか」
低い声が響く。
「誰が作ったんですか」
誰も答えない。
その奥でリリアがゆっくり逃げようとしている。
「奥方様」
「はい」
「止まってください」
「やだ」
「止まりなさい!」
リリアが走る。
テオドールが追う。
「アルー! テオが怒った!」
「自業自得だ!!」
本部に怒声と笑い声が響き渡る。
テオドールは廊下を駆けながら、手にした紙を丸めていた。だが、完全に捨てることはできなかった。署名の中に、普段は無口な兵士の名前まであった。からかわれているだけではない。皆が、彼の変化を面白がりながらも、どこか温かく見守っている。
そんな騒ぎの中、テオドールの机の引き出しには、一枚の小さなメモが入っていた。
『次の休日、とても楽しみにしています。 シャルロット』
誰にも見られないように、それだけは丁寧にしまってある。
恋かどうかなど、まだ自分でもよく分からない。
ただ、次の休日を楽しみにしている。
彼女に会いたいと思っている。
彼女が笑ってくれれば、少し嬉しい。
彼女が自分を見てくれると、胸の奥が静かに熱くなる。
それだけで十分なのかもしれない。
「テオ! 顔が笑ってる!」
「奥方様ァ!!」
本人が隠し通せる日は、もうとっくに終わっていた。




