王女殿下、副官殿に一目惚れ中につき。
王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉は、その日も極めて真摯に職務へ取り組んでいた。
午前中に提出された訓練計画書を確認し、兵站部から届いた物資一覧の数値を精査し、午後に予定されている隊長会議に必要な資料を整える。
いつも通りの一日。
少なくとも、午前十一時二十三分までは。
「テオー!」
廊下の向こうから聞き慣れた声が響いた瞬間、テオドールは書類へ走らせていたペンを止めた。
眉間に、ほんのわずかに皺が寄る。
第一大隊本部において、この声が聞こえたあと、何事も起こらなかった日は、ここ数年の記録を遡ってもほとんど存在しない。
数秒後、執務室の扉が勢いよく開いた。
「遊びに来たよ!」
「ここは遊びに来る場所ではありません、奥方様」
条件反射だった。
しかし、今日のリリアは一人ではない。
彼女の背後から、金色の髪がそっと覗いた。
「ご、ごきげんよう……テオドール」
王女シャルロットだった。
先日の王都脱走事件以来、妙にリリアと意気投合してしまった王女殿下は、以前より格段に行動範囲を広げていた。
広がりすぎている、とテオドールは思っている。
王女が護衛を伴わずに第一大隊本部へ遊びに来るようになったのだから、王宮警備隊としてはたまったものではないだろう。
もっとも、今回は少し離れた場所に三名の護衛が控えている。
前回よりは進歩していた。
「シャルロット殿下。ようこそお越しくださいました」
テオドールはすぐに立ち上がり、胸に手を当てて礼をした。
「大隊長でしたら現在、訓練場におります。お呼びいたしましょうか」
「い、いえ!」
シャルロットが必要以上の勢いで答えた。
テオドールがわずかに目を瞬く。
「そうですか?」
「はい。今日は、その……リリアに誘われて……」
「そうだったのですね」
「ええ」
「では、ごゆっくりお過ごしください」
「…………はい」
会話が終わった。
テオドールは席に戻った。
仕事へ戻った。
シャルロットは固まった。
リリアは二人を交互に見た。
「シャル?」
「……リリア」
「うん?」
シャルロットは小声で尋ねた。
「今の方が、テオドール?」
「そうだよ」
「……そう」
もう一度、ちらりと机へ視線を向ける。
黒髪。灰青色の瞳。派手さはないが整った顔立ち。軍服には皺一つなく、机上には大量の書類が並んでいるにもかかわらず、すべて用途ごとに整然と分類されている。
そして何より、王女である自分を前にしても必要以上に緊張することなく、かといって無礼でもない。
自然だった。
それが、よかった。
「…………素敵」
「え?」
「なんでもない!」
リリアの紫の瞳が丸くなる。
それからシャルロットを見て、テオドールを見る。
もう一度シャルロットを見る。
その顔が、ぱあっと輝いた。
「もしかしてシャル、テオのこと好き!?」
「声が大きい!!」
王女の叫びが第一大隊本部へ響き渡った。
※
緊急会議が開かれた。
「では第一回、シャルロット恋愛応援作戦会議を始めます!」
「始めるな」
リリアの宣言を、アルベルトが即座に切り捨てた。
談話室にはリリア、アルベルト、シャルロット。
なぜかセドリック。
さらに、どこから聞きつけたのかユリウスまでいる。
「なんでユリウスまでいるの?」
「面白そうだったので」
「帰れ」
「嫌です」
アルベルトが額を押さえた。
「そもそも、なぜ俺の本部で王女殿下の恋愛作戦会議が開催されている」
「だってテオ、ここにいるから」
「そういう問題ではない」
「僕はいいと思いますけどね」
セドリックが優雅に紅茶を飲む。
「副官殿なら身元も確かですし、仕事もできます。人柄にも問題ありません」
「そうだよ! テオはいい人だよ!」
「リリア」
シャルロットが顔を真っ赤にして俯いた。
「まだ好きとは……」
「好きじゃないの?」
「…………」
沈黙。
「好きなんだ?」
「……たぶん」
「一目惚れだ!」
「だから声が大きいのよ!」
シャルロットが涙目でリリアの口を塞いだ。
ユリウスが楽しそうに笑う。
「先輩、こういう時だけ察しがいいですよね」
「こういう時だけとは何だ」
「隊長には言ってませんよ?」
「俺を見るな」
アルベルトの眉間の皺が深くなった。
「で、殿下はどうしたいんです?」
セドリックに尋ねられ、シャルロットは困ったように指を絡める。
「どうしたい、と言われても……お話ししてみたいというか……もう少し知りたいというか……」
「なるほど」
ユリウスが身を乗り出した。
「では、偶然を装いましょう」
「偶然?」
「廊下でぶつかって、書類を落とすんです。拾おうとして手が触れて――」
「却下」
アルベルトが即答した。
「なぜです?」
「テオドールは廊下で人とぶつからん」
一同が黙った。
確かに。
「では、仕事を手伝う!」
リリアが手を挙げた。
「それはいいかも」
シャルロットの顔が明るくなる。
「却下」
再びアルベルト。
「なんで?」
「お前が副官の仕事を手伝おうとして、仕事が減ったことが一度でもあるか」
リリアが黙った。
「…………ない」
「自覚はあるんだな」
「では、差し入れはいかがです?」
セドリックが提案した。
シャルロットが勢いよく顔を上げる。
「それならできます!」
「副官殿は甘いものも召し上がりますし、紅茶もお好きです。殿下が菓子をお持ちになって――」
「待って」
リリアが真剣な顔をした。
「テオ、胃が疲れてるから、優しいものの方がいいよ」
全員がリリアを見た。
「……誰のせいだと思っている」
アルベルトの低い声だけが響いた。
※
午後一時。
テオドールは異変に気づいていた。
先ほどから妙に視線を感じる。
書類から顔を上げる。
扉の陰から、白銀の頭が引っ込んだ。
「…………」
気のせいだろうか。
額を押さえて再び仕事へ戻る。
今度は金色の髪が覗いた。
目が合う。
「!」
引っ込んだ。
テオドールはしばらく扉を見つめた。
「……何をなさっているのですか」
「ひゃっ」
小さな悲鳴が聞こえた。
しばらくして、シャルロットがおずおずと姿を現す。
両手には小さな籠を抱えていた。
「その……テオドール」
「はい」
「これを」
差し出された籠を受け取る。
中には焼き菓子と紅茶が入っていた。
「私から……です」
「ありがとうございます」
テオドールは穏やかに微笑んだ。
「ちょうど休憩を取ろうと思っていたところです」
「!」
シャルロットの顔が一気に赤くなる。
「そ、それならよかったわ!」
「お気遣い、感謝いたします」
「では!」
「はい?」
「失礼します!」
逃げた。
テオドールは籠を持ったまま、その背中を見送った。
「……なぜ走って?」
扉の外ではリリアが喜んで跳ねていた。
「やったね、シャル!」
「リリア、静かに!」
「顔が真っ赤ですよ、殿下」
「ユリウス!」
「初々しいですねえ」
「セドリックまで!」
すべて聞こえていた。
テオドールは静かに目を閉じた。
何かが行われている。
しかし、深く関わらない方がいい。
副官として培われた危機察知能力が、そう告げていた。
※
翌日、シャルロットはまた来た。
「ごきげんよう、テオドール」
「ようこそ、殿下」
翌々日。
「今日は本を持ってきたの」
「ありがとうございます」
三日後。
「テオドール、王宮の庭園に珍しい花が咲いたのだけれど……」
「それはよかったですね」
「……よければ今度」
「副官!」
兵士が飛び込んできた。
「兵站部から緊急連絡です!」
「すぐ行く」
「あ……」
「申し訳ありません、殿下。失礼いたします」
テオドールは去った。
シャルロットは固まった。
物陰から四人が現れた。
「テオ、鈍いね」
「鈍いですね」
「鈍いな」
「鈍いですねえ」
「あなたたち、ずっと見ていたの!?」
シャルロットが真っ赤になる。
「だって応援してるから!」
「監視の間違いでは?」
セドリックが笑う。
ユリウスは腕を組んだ。
「これはもう、直接言うしかないんじゃないですか?」
「む、無理よ!」
「では、先輩が言えば?」
「いいよ!」
「絶対に駄目!」
シャルロットが全力で飛び出そうとするリリアを捕まえた。
※
その頃、王宮では国王が報告書を読んでいた。
「……シャルロットが三日連続で第一大隊へ?」
「はい」
侍従長が答える。
「目的は?」
「テオドール・ハインツ大尉との接触かと」
国王の手から書類が落ちた。
「…………誰だ」
「第一大隊副官です」
「経歴を」
「二十七歳。子爵家次男。士官学校を優秀な成績で卒業。現在はクロフォード大隊長の右腕として――」
「人格は」
「極めて真面目です」
「女性関係は」
「確認できる範囲では問題ございません」
「借金」
「ありません」
「酒癖」
「問題ありません」
「賭博」
「いたしません」
「…………欠点は?」
侍従長が少し考えた。
「働きすぎでしょうか」
国王は黙った。
優良物件だった。
「……いや、まだ早い」
「何がでしょう」
「何でもない」
国王は立ち上がった。
「第一大隊へ行く」
「陛下?」
「視察だ」
「本日の予定にはございませんが」
「今決めた!」
※
午後三時。
「国王陛下が来た!?」
本部にリリアの声が響いた。
「なぜだ!」
アルベルトまで珍しくリリアの件以外で声を上げる。
「視察だそうです」
テオドールだけが冷静だった。
「予定外ですが、対応は可能です。隊長、訓練場へ」
「ああ」
「奥方様」
「はい!」
「隠れてください」
「なんで!?」
「念のためです」
その判断は正しかっただろう。
しかし、もう遅かった。
「お父様!?」
シャルロットの声が響く。
国王が止まった。
シャルロットが止まった。
リリアが止まった。
アルベルトが額を押さえた。
ユリウスとセドリックは非常に楽しそうだった。
「……シャルロット」
「……お父様」
「なぜここに?」
「リリアとお茶を」
「三日連続で?」
「…………」
国王の視線が動いた。
テオドールで止まる。
見られた本人は、訳も分からず姿勢を正した。
「テオドール・ハインツ大尉」
「はっ」
「君か」
「……何がでしょうか」
テオドールだけが何も知らない。
国王は彼を上から下まで見た。
テオドールは微動だにしない。
やがて国王が尋ねた。
「娘をどう思う」
「殿下ですか?」
「そうだ」
その場にいる全員が息を呑んだ。
シャルロットの顔が真っ赤になる。
テオドールは少し考えた。
「非常にお優しく、民を思いやる素晴らしい王女殿下かと存じます」
模範解答。百点。
恋愛的には、零点。
シャルロットの肩が落ちた。
リリアが額を押さえた。
ユリウスは吹き出し、セドリックは顔を逸らしている。
「そうではなくてだな」
「お父様!!」
シャルロットが国王を引っ張った。
「帰ります!」
「待て、まだ私は――」
「帰ります!」
「シャルロット!」
王女は父を引きずるように去っていった。
静寂。
テオドールはしばらく扉を見つめたあと、隣のアルベルトへ尋ねた。
「……私は何か失礼を?」
「いや」
アルベルトは副官の肩へ手を置いた。
「お前は何も悪くない」
「そうですか」
「ただし」
アルベルトは深く息を吐いた。
「しばらく苦労すると思う」
「?」
テオドールには意味が分からなかった。
※
翌朝。
テオドールの机には花が一輪置かれていた。
小さなカードが添えられている。
『昨日はごめんなさい。またお話ししてください。 シャルロット』
テオドールはしばらくそれを見つめた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……もちろんです、殿下」
その様子を扉の隙間から見ていたリリアが、満面の笑みで拳を握った。
「脈あり!」
「静かにしろ!」
アルベルトに口を塞がれる。
「でも今、笑ったよ!」
「俺も見ました」
「副官殿、満更でもなさそうですね」
「次はデートですね!」
「お前たちは仕事をしろ!!」
とうとうアルベルトの怒声が本部中へ響き渡った。
テオドールは目を閉じた。
昨日まで、自分はただの副官だった。
今日も、そのつもりだった。
だが、どうやら周囲はそう思ってくれていないらしい。
机の上には王女から贈られた一輪の花。
扉の向こうには、他人の恋愛に全力で首を突っ込む元暗殺者たち。
そして廊下からは、早くも次の作戦を立て始めたリリアの声が聞こえてくる。
「次は二人きりにしよう!」
「どうやって?」
「テオを誘拐する!」
「却下だ!!」
テオドールは静かに天井を仰いだ。
―――副官とは、何だっただろう。
最近、この疑問を抱く回数が明らかに増えている。
なお、王女シャルロットによる第二回第一大隊訪問―――通称『偶然を装ったお茶会作戦』が実行されるまで、あと二日。
テオドール本人だけが、その作戦の存在を知らなかった。




