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副官殿、そろそろ限界です。

王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉の朝は早い。


アルベルト・クロフォードが第一大隊長に就任して以来、その右腕として部隊運用から兵站管理、作戦立案の補佐、各部署との折衝、王宮へ提出する書類の精査まで、およそ「隊長本人がやる必要はないが、誰にでも任せられるわけではない仕事」の大半を引き受けてきた。



もともとテオドールは、多少の問題では動じない男だ。

冷静で要領がよく、仕事は正確。感情に振り回されることも滅多になく、たとえ相手が上官であろうと、必要とあれば淡々と異議を唱える。


生真面目すぎるアルベルトとは性格こそ違うものの、互いの能力について疑ったことはない。長年組んできたからこそ、いちいち言葉にせずとも次に何を求められているか分かる程度には、二人の呼吸も出来上がっていた。


少なくとも三年前までは、それでよかった。


現在、テオドールの仕事には、正式な職務規定のどこを探しても記載されていない項目が大量に追加されている。


隊長夫人の侵入経路確認。隊長夫人によって発見された警備上の欠陥の修正。隊長の怒声が聞こえた際の原因究明、および周辺隊員の避難誘導。王宮への報告書ならびに始末書の作成。ユリウス来訪時の刃物確認。セドリック来訪時の大隊長の精神状態観察。


最近ではとうとう、医務室に保管されている胃薬の在庫まで把握するようになった。


―――副官とは、何だっただろう。


そんな哲学的な疑問を胸の奥へ丁寧にしまい込みながら、テオドールは今日も朝七時には本部へ入り、自分の机で一日の予定表を確認していた。


午前九時、第一大隊定例会議。十一時、兵站部との協議。午後一時、訓練視察。三時、王宮提出書類の最終確認。


上から下まで二度確認し、念のため余白に書き込みがないことまで確かめてから、テオドールは椅子の背へわずかに体重を預けた。


リリア・クロフォードの来訪予定はない。王宮情報局との打ち合わせもない。ユリウスが来るという連絡も、もちろん届いていない。


つまり、何も起こらなければ夕方には仕事を終えられる。


「……今日は定時で帰れるかもしれないな」


誰もいない執務室で、珍しくそんな独り言まで漏れた。

後にテオドールは、この発言を人生でも上位に入る失言だったと振り返ることになる。



午前九時十二分。


「副官!」


定例会議を終え、持ち帰った書類を整理していたテオドールのもとへ、一人の兵士が血相を変えて駆け込んできた。


普通なら何事かと身構えるところだが、この三年間で騒動への耐性だけなら将官級にまで成長している。テオドールは手にしていたペンを置くことすらせず、まず最も可能性の高い原因を尋ねた。


「奥方様か」


「いえ!」


違う。

その事実だけで胸の奥にほんの少し安堵が広がった自分については、深く考えないことにした。


「では何だ」


「正門に不審物が!」


その言葉を聞いた瞬間、テオドールの表情が軍人のそれへ切り替わった。ようやく、本来の職務らしい案件だ。


「分かった。爆発物の可能性を考慮し第二班を――」


「奥方様から隊長への贈り物らしいです!」


言葉の途中で、テオドールは静かに目を閉じた。

やはり軍人らしい案件ではなかった。


「……なぜそれを先に言わない」



問題の不審物は、念のため厳重な確認を受けたのち、アルベルトの執務室へ運び込まれた。


箱から現れたのは、丸々とした白猫を模した置物だった。首には紫色のリボンが結ばれ、妙に愛嬌のある顔で前足を揃えている。


「市場で見つけたの」


いつの間にか贈り主本人まで本部へ来ていた。

リリアは机の前で両手を後ろに組み、期待に満ちた紫の瞳で夫を見上げている。


「アルに似合うと思って」


テオドールは白猫を見た。

次に、険しい顔でその白猫を睨んでいる上官を見た。


まったく似ていない。むしろこれは奥方だろう。何のマーキングだ。

ただし、長年軍人として生きてきた彼には、口にしてよい情報と墓まで持っていくべき情報を見極める能力がある。ゆえに無言を貫いた。


「執務室には置かん」


案の定アルベルトは一蹴した。

しかしリリアは怒るでも、食い下がるでもなかった。ただ少しだけ眉尻を下げると、白猫と夫を交互に見つめる。


「……嫌だった?」


声までほんのわずかにしょんぼりしている。

アルベルトの眉間の皺が動いた。

テオドールは何も言わなかった。

言わなかったが、結果はもう見えていた。


五分後には白猫は大隊長執務机の、それも来客が必ず目にする最も目立つ位置へ堂々と鎮座していた。


「……何か言いたそうだな、副官」


アルベルトが低い声を投げてくる。

テオドールは書類の端を揃えながら、努めて真顔を保った。


「いいえ。非常によくお似合いかと」


「お前、最近性格が悪くなったな」


「誰の影響でしょう」


反射的に返すと、アルベルトが黙り込んだ。

隣ではリリアが白猫の向きを丁寧に整え、「うん、やっぱり似合う」と満足そうに笑っている。


あの顔を見てしまえば、隊長が置物一つ拒否できない理由も分からなくはない。

分からなくはないが、巻き込まれる側としてはまったくの別問題だった。



午前十一時。


「こんにちは、副官殿」


廊下の向こうに銀灰色の髪を見つけた瞬間、テオドールは足を止めた。


「お帰りください」


セドリックも足を止めた。

淡い紫灰色の瞳が、珍しく少しだけ丸くなる。


「まだ何も言っていませんよ?」


「経験則です」


「仕事で来たんですが」


「では用件だけ済ませ、速やかに王宮へお戻りください」


あまりにも迷いのない対応に、セドリックは気分を害するどころか、むしろ楽しそうに目を細めた。


「僕はそんなに信用がありませんか?」


「ありません」


「即答だ」


「信用を得たいのであれば、まず大隊長を意図的に挑発するのをおやめください」


「善処します」


そこで一拍置き、テオドールは冷ややかな視線を向けた。


「やめるとは仰らないんですね」


やはり信用してはいけない。

テオドールは心の中にある危険人物一覧の評価を、静かに一段階引き上げた。



午後一時七分。


「こんにちはー」


「お帰りください」


「なんで!?」


今度は淡い金髪の少年が、心外そうな顔で立ち止まった。

ユリウスだった。


「僕、まだ何もしてませんよ?」


「午前中にも同じ台詞を聞きました」


「誰からです?」


嫌な質問だった。

テオドールが答えるより早く、背後から穏やかな声が飛んでくる。


「奇遇だね、ユリウス」


ユリウスの笑顔が消えた。

同時に、テオドールも無表情になった。


「……セドリックさん。まだいたんですね」


「君は相変わらず可愛いねえ」


「あなたに可愛がられた覚えはありませんけど」


二人とも笑顔。

だからこそ余計に危険だった。

テオドールはしばらく二人を観察すると、やがて何も言わず隣の談話室へ入り、棚から高級茶器を取り出し始めた。


「副官さん、何してるんです?」


「避難です」


最後のティーカップを箱へ収めながら答えると、ユリウスが不満そうに頬を膨らませる。


「僕たち何もしませんよ?」


「先月、同じ台詞を聞いた直後に窓が一枚割れました」


「あれ、僕じゃないです」


「誰が割ったかは問題ではありません。あなた方が同じ場所にいると何かが壊れる。その事実を重視しています」


「随分な言われようだね」


セドリックが肩を揺らして笑った、その時だった。


「何をしている」


低い声が廊下に響いた。

アルベルトだった。

テオドールは天井を仰ぎたくなる衝動をどうにか堪える。

しかも、その上官の背後から白銀の頭がひょこりと覗いた。


「あ、ユリウスとセドもいる!」


三人を見つけた途端、リリアは嬉しそうに笑った。


「みんな揃ったね!」


揃わなくていい。


喉まで出かかった言葉を、テオドールは辛うじて飲み込んだ。


「ユリウス。なぜいる」


アルベルトが警戒心を隠そうともせず少年を見る。


「先輩に会いに来ました」


ユリウスは悪びれもせずリリアのそばへ寄った。


「帰れ」


「嫌です」


「セドリック。貴様は仕事が終わっただろう」


「ええ。ですから少し休憩を」


「王宮でしろ」


「横暴ですね」


「アル、せっかくだしみんなでお茶しようよ」


「しない」


アルベルトは即答したものの、リリアは心底不思議そうに夫を見上げた。


「なんで?」


「この面子で平穏に茶が飲めると思うのか」


「飲めるよ?」


どうやら本気でそう思っているらしい。

アルベルトが額を押さえ、ユリウスがくすくすと笑い、その向こうではセドリックまで愉快そうに口元を緩めている。


その光景を眺めた瞬間だった。

テオドールの中で、何かが静かに切れた。

不思議と怒りはなかった。

むしろ、長い嵐のただ中で突然すべてを諦めた人間のような、妙に穏やかな気分だった。


「皆様」


自分でも驚くほど静かな声が出た。

その一言だけで四人が揃ってこちらを向く。


「お座りください」


「副官?」


「隊長もです」


「俺もか?」


アルベルトが眉を寄せた。

テオドールは微笑んだ。


「お座りください」


「……分かった」


第一大隊長が座ったので、リリアも素直にその隣へ座り、ユリウスとセドリックも何となく従った。


王国でも指折りの軍人、元凄腕暗殺者、現役の王宮情報局特別調査官、そして倫理観の一部をどこかへ置き忘れてきた元暗殺者。


その四人を一言で着席させたテオドールは、卓上へ一枚の紙を置いた。


題名は《第一大隊本部来訪者規則》。


「本日より、こちらを適用いたします」


【第一項】

奥方様は正門から入ること。


「入ってるよ?」


「昨日は二階の窓から入られました」


「あそこ開いてたから」


「開いている窓は入口ではありません」


【第二項】

窓、屋根、地下水路を出入口として使用しないこと。


「地下水路は一回しか使ってないよ?」


「回数の問題ではありません」


リリアが納得できない顔をしたが、無視した。


【第三項】

ユリウス殿は刃物を持ち込まないこと。


「護身用ですよ?」


「あなたの場合、護身の定義から確認する必要があります」


「ひどいなあ」


【第四項】

セドリック殿は大隊長を意図的に挑発しないこと。


「意図的でなければ?」


「屁理屈も禁止事項へ追加します」


セドリックが楽しそうに肩を揺らした。


「副官殿、僕にだけ厳しくない?」


「皆様へ平等に限界ですので、ご安心ください」


そして【第五項】

上記三名を同時刻に集めないこと。


最後に【第六項】

大隊長は怒鳴る前に十秒数えること。


「待て」


アルベルトが紙を持ち上げた。


「なぜ俺まで入っている」


「必要だからです」


「俺はここの大隊長だぞ」


「存じております」


「なら―――」


「隊長」


テオドールはにこやかに遮った。


「十秒」


アルベルトが黙った。

その瞬間、ユリウスが俯いて肩を震わせ、セドリックは笑いを隠すように窓の方へ顔を逸らした。


「笑うな!」


「隊長、今の二秒です」


「……っ」


アルベルトが奥歯を噛み締める。

その様子を見ていたリリアだけは笑わなかった。


彼女はしばらくテオドールの顔をじっと見つめたあと、心配そうに眉尻を下げる。


「テオ、疲れてる?」


悪意など微塵もない紫の瞳だった。

騒動の中心にいるくせに、人の疲労や痛みには妙に敏感で、気づいてしまえば放っておけない。それもまた、この自由奔放な元暗殺者の厄介なところだった。


「……誰のせいでしょうね」


「私?」


「お答えは差し控えます」


リリアは少し考え込み、やがて名案を思いついたように顔を輝かせた。


「では今日、私がテオのお仕事手伝う!」


「お気持ちだけで結構です」


人生最速の拒絶だった。


「まだ何するか言ってないよ?」


「だからこそです」


横でアルベルトが思わず吹き出しかける。

テオドールが無言で視線を向けると、上官は咳払いを一つして顔を逸らした。


それから少しして、アルベルトは表情を改めた。


「……テオドール」


「はい」


「いつも助かっている」


思いがけない言葉に、テオドールはわずかに目を見開いた。


アルベルトは部下を信頼していても、それを軽々しく口にする男ではない。だからこそ、その短い一言には、余計な美辞麗句など必要ないほどの重みがあった。


「お前がいなければ、第一大隊は今の半分も回らん」


「半分どころか三日で崩壊しそうですね」


セドリックが横から口を挟む。


「二日じゃないです?」


ユリウスも続いた。


「アル、テオにもっと優しくしなきゃ駄目だよ」


「お前たちが言うな!」


「隊長、十秒」


アルベルトは口を閉じた。


今度こそ、テオドールは小さく笑った。

騒がしくて、面倒で、胃が痛くなることばかりだ。それでも、この人たちを嫌いになれない自分も相当どうかしているのかもしれない。


だが、今日くらいは少し報われたと思ってもいいだろう。

そう思った。



翌朝、出勤したテオドールの机には、一通の手紙が置かれていた。


『テオへ。いつもありがとう! 疲れてるみたいだから、今日はお休みにしてもらったよ! リリア』


読み終えた瞬間、昨日覚えたはずの安堵が跡形もなく消え去った。


嫌な予感しかしない。


手紙を握ったまま隊長執務室へ向かうと、案の定、アルベルトが机で頭を抱えていた。


「隊長。奥方様は」


「王宮へ行った」


「何をしに?」


聞きたくない。

心の底から聞きたくない。

しかし、副官である以上、聞かなければならない。


アルベルトは疲れ切った顔を上げた。


「国王陛下へ、お前に休暇を与えてくれと直談判しに」


テオドールは、しばらく瞬きすらできなかった。


「……なぜですか」


「お前が疲れているからだそうだ」


善意だった。

純度百パーセントの善意。

だからこそ誰にも止められない。


「今すぐ奥方様を回収してください」


「もう向かった」


「誰が?」


「セドリックが案内している」


テオドールの顔から、すっと表情が消えた。

そして残る一人について、まさかと思いながら尋ねる。


「……ユリウス殿は?」


「面白そうだからとついていった」


数秒の沈黙が落ちた。

常に冷静であり続けた第一大隊副官は、ゆっくりと息を吸った。


「なぜ全員まとめて王宮へ行かせたんですか!!」


「俺に言うな! 今知ったんだ!!」


アルベルトも同時に立ち上がった。

二人は顔を見合わせる。

その瞬間だけ、彼らは上官と副官ではなかった。

同じ災害へ立ち向かう戦友だった。


「行くぞ」


「はい!」


二人は王国軍第一大隊の威信と、国王陛下の平穏を守るため、全力で王宮へ走った。



結果として、テオドールには三日間の特別休暇が与えられた。

しかも、国王直々の命令である。


理由は、『国家安全保障上、副官の休養が必要と判断したため』という、本人にもいまひとつ意味の分からないものだった。



特別休暇初日。


テオドールは自宅の居間で、一人静かに紅茶を飲んでいた。

窓から差し込む柔らかな陽光の中、時計の針が進む音だけがやけに鮮明に聞こえる。


誰も怒鳴らない。

窓から誰も入ってこない。

刃物を隠し持った美少年も、笑顔で上官を挑発する特別調査官もいない。


そして何より、朝から一枚の始末書も書いていない。


「……平和だ」


その言葉を、テオドールは噛み締めるように呟いた。


紅茶を一口飲む。

美味しい。

紅茶とはこんな味だったのか、と少し感動した。


直後、玄関がノックされた。


テオドールはカップを置いた。

胸の奥で、軍人として長年培ってきた危機察知能力が最大級の警報を鳴らしている。


それでも一縷の望みを抱き、彼は玄関へ向かった。

扉を開ける。


「テオー! 遊びに来たよ!」


リリアがいた。

満面の笑みだった。

その後ろから、ユリウスがひょこりと顔を覗かせる。


「お邪魔します、副官さん」


さらに後方では、セドリックが手土産らしい箱を片手に掲げていた。


「休暇を満喫してる?」


そして最後尾には、どうやら全力で追いかけてきたらしいアルベルトがいる。普段なら何があっても呼吸一つ乱さない男が、珍しく肩で息をしていた。


「副官、すまん。止めきれなかった」


テオドールは四人を見た。


リリアは純粋に自分を労おうとしている。

ユリウスも、おそらく半分くらいは善意だろう。

セドリックは確実に面白がっている。

アルベルトだけは心底申し訳なさそうだった。


テオドールは静かに微笑んだ。


そして何も言わず―――扉を閉めた。


「テオ?」


「副官さん?」


「開けてくれる?」


「副官、俺だ。開けろ」


扉の向こうから次々と声が聞こえてくる。

テオドールは扉へ背中を預けると、深く息を吐いて目を閉じた。


外ではリリアが「寝てるのかな」と言い、ユリウスが「今、目合いましたよ」と答えている。

セドリックの堪えきれない笑い声が続き、その向こうではアルベルトがもう一度扉を叩いていた。


それでも、開けなかった。


王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉。

勤勉実直、冷静沈着。上官からの信頼も厚く、いかなる状況でも職務を全うする優秀な軍人。


そんな男が、その日、生まれて初めて上官の命令を完全に無視した。

罪悪感は、不思議なほどなかった。


―――特別休暇、一日目。


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