元同僚と元後輩につき、夫の敵が増殖中。
セドリック・フォン・ラングレーが王宮情報局から王都勤務へと配置換えになり、晴れて第一大隊本部の『隊長精神衛生特別危険人物』に認定されてからというもの、大隊内にはいつしかある新しい不文律が共有されるようになっていた。
第一に、王宮情報局の証である黒い制服を見かけた兵士は、直ちに大隊長アルベルト・クロフォードへ報告すること。 第二に、その人物が日に透けるような銀灰色の髪をしていた場合、報告の優先順位を最上位へと引き上げること。 そして第三に――大隊長夫人であるリリア・クロフォードと一緒にいるところを発見した場合は、理由や状況の如何を問わず、全速力で急報すること。
もちろん、これは正式に発令された軍規ではない。誰が言い出したのかも定かではないし、書類上の記録も存在しない。 少なくとも当の第一大隊長アルベルト本人は、「俺は部下にそんなふざけた命令を出した覚えはない」と不機嫌極まりない顔で断言していた。 しかし、彼を長年補佐する副官をはじめ、大隊の全兵士が知っている。隊長はそう言い捨てたものの、決して「やめろ」とは言わなかったのだ。つまり、暗黙の了解としての追認である。 かくして、第一大隊本部は目下、平時でありながらも目に見えない警戒態勢が敷かれていた。
そんな見えない緊張感が漂い始めてから数日後の、よく晴れた午後。 秋の穏やかな風が吹き抜ける第一大隊本部の正門に、ふらりと一人の美少年が現れた。
「こんにちはー。リリア先輩います?」
淡い金髪が秋の陽光を反射してきらきらと輝き、透き通るような水色の瞳が人懐っこく細められる。一見すれば、良家の御曹司が散歩の途中に立ち寄ったかのような、愛らしい笑顔だった。 応対に出た門番の兵士は、その眩しい笑顔に一瞬だけホッと顔を和ませ――次の瞬間、足の先から一気に血の気を失った。 知っている。いや、知らざるを得ない。 彼こそが、第一大隊がひそかにリストアップしている『非公式危険人物一覧』の堂々たる第三位に君臨する少年だ。
「ユ、ユリウス殿……」
「わぁ、僕のこと覚えててくれたんですね。嬉しいです」
花が咲くようににこりと微笑まれた兵士の内心は、まったく嬉しくなかった。むしろ今すぐこの場から逃げ出したかった。
「本日は……どのような、ご用件でいらっしゃいましたか」
「遊びに来ました」
「…………遊びに」
「はい。大好きな先輩に会いに」
無邪気な言葉に反して、少年の瞳の奥には有無を言わせぬ圧がある。 兵士は思わず遠い目をして、雲一つない青空を見上げた。 ほんの数日前、情報局の黒衣の男が特別危険人物として殿堂入りしたばかりである。大隊全体がその男の動向にピリピリしているこの最中に、従来の危険人物までが自主的に来訪してしまった。 他国からの脅威もなく、王都はこんなにも平和なはずなのに、なぜ自分たちの第一大隊本部だけが継続的かつ内局的な危機に晒され続けなければならないのだろうか。
「……少々、お待ちください」
「はい、待ちます。でも早くしてくださいね」
兵士は冷や汗をかきながら、背後に控えていた別の兵へ鋭く目配せをした。合図を受けた若き兵士が、弾かれたように本部棟へ向かって駆け出していく。その後ろ姿を、ユリウスは楽しそうに鼻歌を交えながら見送っていた。
※
それから数分後。 第一大隊長執務室の重厚な木扉が、ノックの音もそこそこに勢いよく開け放たれた。
「隊長!」
「何だ、騒々しい」
机に山積みになった決裁書類へペンを走らせていたアルベルトの手が、不快げに止まった。隣で報告書を整理していた副官も、飛び込んできた兵士のただならぬ様子に手を止める。
「ユリウス殿が! 正門に来られました!」
執務室の空気が、一瞬にして凍りついた。 アルベルトは持っていたペンを置き、副官と数秒間、無言のまま見つめ合う。副官の目には「なぜ今日に限って」という明確な絶望が浮かんでいた。
「……あのガキ、何をしに来た」
「『遊びに来た。奥方様に会いに』と」
「帰せ」
「隊長、即答ですか」
「当たり前だ。今すぐ帰せ。塩でも撒いておけ」
アルベルトの低い声には、微塵の迷いもなかった。しかし、報告にきた兵士は泣きそうな顔で首を横に振る。
「それが……既に奥方様が、正門へお迎えに行かれてしまいまして」
ガタッ、と大きな音を立てて、アルベルトが革張りの椅子から立ち上がった。
「なぜリリアが知っている!」
「正門の当番兵から、内線で連絡が……」
「俺より先に妻へ知らせる馬鹿がどこにいる!」
机を拳で叩いて叫んだところで、アルベルトの思考がふとある事実に行き当たり、ピタリと止まった。 嫌な予感がする。背筋を冷たいものが這い上がるような、戦場で伏兵の気配に気づいた時と似た直感だった。
「待て」
「隊長?」
「今日は、あいつも大隊本部に用事があると言って来ていたな」
副官は一瞬、あいつとは誰のことか分からない顔をした。しかし、すぐにアルベルトの顔に浮かんだ険しい表情から察し、顔を青ざめさせた。
「ああ……王宮情報局の」
「セドリックは今どこにいる」
「先ほどの報告では、地下の資料室です」
「リリアは」
「正門です。ユリウス殿と共に」
アルベルトは深く息を吐き出し、広い額を片手で押さえた。 配置だけを見るならば、直ちには問題ない。地下の資料室と正門、三者は離れた場所にいる。 だが、アルベルト・クロフォードは優秀な軍人であり、指揮官だ。戦場において、彼は敵の現在位置だけでなく、地形や目的から移動ルートを予測し、その先の合流地点まで瞬時に計算する癖がついている。
正門で合流したリリアが、ユリウスを連れて本部棟の中へ戻ってくる。 一方で、資料室での調べ物を終えたセドリックが、一階の廊下へと上がってくる。 両者の歩く速度、目的地。その導線が交わる場所は――。
「……一階の談話室前」
「隊長?」
アルベルトは壁のフックから軍の外套を乱暴に掴み取り、翻すように羽織った。
「行くぞ」
「どちらへ」
「戦場だ」
「ですから、それは談話室前の廊下ですね。私もお供します、胃薬を持って」
※
長年培われた第一大隊長の予測は、寸分の狂いもなく的中した。
「あれ?」
リリアに手を引かれるようにして廊下を歩いていたユリウスが、談話室からちょうど姿を現した長身の男を見て、ピタリと足を止める。 同時に、手にしていた古い資料から顔を上げたセドリックも、歩みを進めてきた二人組を見て足を止めた。
王宮情報局の黒い制服に身を包んだ男の、日に透けるような銀灰色の髪と、すべてを見透かすような紫灰色の瞳。 軽装に身を包んだ少年の、天使のように柔らかい淡い金髪と、冬の湖面のように冷ややかな水色の瞳。
二人の視線が、空中で真っ直ぐに交わった。 見えない火花が散ったような数秒の沈黙。その息詰まるような空気にまったく気づいていないリリアが「どうかしたの?」と小首を傾げる中、先に動いたのはユリウスだった。
「……まだ生きてたんですね」
純真無垢な美少年の顔から放たれた、あまりにも物騒な第一声。リリアはパチクリと目を丸くした。
「え、ユリウス、セドのこと知ってるの?」
「もちろんですとも、リリア先輩」
少年はリリアへ向けた天使のような笑顔を顔に貼り付けたまま、足音もなくセドリックへと歩み寄った。
「昔から、無駄にしぶとい人だったので。どこかで野垂れ死んでるかと思ってましたけど」
「久しぶりだね、ユリウス」
手厳しい皮肉をぶつけられても、セドリックは穏やかな笑みを微塵も崩さなかった。余裕たっぷりの態度で、かつての後輩を見下ろす。
「君も相変わらず可愛い顔をしているね。中身は少しは大人になったかと思ったけれど、期待外れだったかな?」
「セドリックさんこそ。いい歳して、まだ独身でふらふらしてるんですか? 哀れですね」
「君は昔から、先輩に対する挨拶というものを知らないね。少しは礼儀を身につけたらどうだい」
「嫌いな相手に礼儀なんて必要ですか? 時間の無駄です」
笑顔のまま、互いの急所を的確に刺し合う言葉の応酬。 セドリックはふっと息を吐き、目の前の凶暴な少年を視界から外すようにして、後ろで不思議そうに立っているリリアへと顔を向けた。
「ねえ、リリア。この子、昔よりずっと性格が悪くなってない? 君が甘やかすからだよ」
「そうかな?」
リリアは不思議そうに呟きながら、ユリウスの周りをぐるりと回って真剣に眺めた。
「うん、背は伸びたね」
「先輩!」
「そこじゃないよ、リリア」
二人の男の声が、寸分の狂いもなく綺麗に重なった。 リリアはますます分からなくなったように首を傾げる。
「ふふ、二人とも息ぴったりだね。やっぱり昔からのお知り合いなんだ」
「やめてください」
「やめてくれるかな」
またしても見事に声が重なった。 その瞬間、ユリウスとセドリックは顔を見合わせ、互いに極上の笑顔を向け合った。しかし、二人の間に流れる空気だけが、急速に零下へと冷え込んでいく。
「……真似しないでいただけますか。不愉快極まりないです」
「君が僕に被せてきたんだろう。相変わらず気持ち悪いなあ」
「奇遇ですね。僕もまったく同じことを思っていましたよ、この老いぼれ」
二人の間に立ち込める冷気をよそに、リリアは二人を交互に見比べ、ぱぁっと花が咲くように嬉しそうに笑った。
「なんだ、やっぱり二人とも仲良しじゃん!」
「違います」
「違うよ、リリア」
三度目だった。 完璧なユニゾンを奏でた二人が、今度こそ本気で舌打ちを交わそうとした、まさにその時である。
「――お前たち、俺の隊の廊下で何をしている」
地を這うような、凄まじい威圧感を伴った低い声が廊下全体に響き渡った。 三人が一斉に振り向く。 そこには、外套を翻し、鬼神のような形相をしたアルベルト・クロフォードが立っていた。その後ろには、胃の辺りを押さえながら「私は巻き込まれたくない」という意思を全身から放っている副官の姿もある。
「あ、アル!」
リリアが夫の姿を認めるなり、嬉しそうにぶんぶんと手を振った。 アルベルトは愛する妻の無邪気な笑顔を見て、一瞬だけ目尻を下げ、表情を柔らかく緩めた。だが、彼女の左右に陣取る『危険人物』二人を視界に収めた途端、眉間には先ほどよりも深いシワが刻み込まれた。
「なぜお前たちが、リリアを挟んで全員揃っている」
「ただの偶然だよ、アルベルト隊長」
「その偶然が俺は嫌なんだ。これ以上俺の胃を痛めつける気か」
アルベルトは苛立たしげにブーツの踵を鳴らし、まずユリウスを鋭く睨みつけた。
「お前は何をしに来た」
「先輩に会いに来ました。文句ありますか」
「大ありだ。帰れ」
「嫌です。今日は先輩とお茶をするって決めてるんです」
予想通りの即答と生意気な態度に、アルベルトはチッと舌打ちをする。続いて、視線をセドリックへ移した。
「貴様は」
「仕事です。正当な理由ですよ」
「ならさっさと仕事をしろ。油を売っている暇などないだろう」
「たった今、資料室での調べ物が終わったところです。リリアとお茶でもしようかと戻る途中でした」
「なら情報局へ戻れ」
「仕事が終わったのに、休憩も許されないんですか? 第一大隊長殿は随分と横暴ですね」
左右二方向からの理不尽な抵抗に遭い、アルベルトのこめかみにピキリと青筋が浮かび上がった。 その緊迫した様子を傍観していたユリウスが、ふと何かを思い出したようにセドリックへ顔を向ける。水色の瞳が、意地悪く細められた。
「そういえば、風の噂で聞きましたよ、セドリックさん」
「何をだい?」
「まだ、リリア先輩のこと好きなんですって?」
ぴたり、と廊下の空気が止まった。 アルベルトの殺気を孕んだ鋭い視線が、音を立ててセドリックへと突き刺さる。背後の副官は、巻き添えを食らわないよう静かに一歩後退した。 そんな凍てつくような空気の中、リリアだけが一人平然とした顔で手を打った。
「あ、ユリウス、それ私も聞いたよ」
「えっ、本人からですか?」
「うん。この前『好きだ』って言われたの」
「ほら」
ユリウスが勝ち誇ったようにアルベルトを見る。
「聞きました? 危険人物ですよ、この人。隊長さん、もっと危機感持った方がいいんじゃないですか」
「お前にだけは言われたくない」
アルベルトは間髪入れずに低く吠えた。
「なんでですか! 僕は純粋に先輩を慕ってるだけですよ」
「以前、俺を暗殺しようかと思ったと、夫である俺の目の前で涼しい顔をして言った人間がどの口で言う」
「でも、実際に殺してないじゃないですか。感謝してほしいくらいです」
「お前の評価基準はどうなってるんだ!」
アルベルトの怒声が廊下にビリビリと反響し、たまたま近くの角を曲がろうとした一般兵士が、状況を察して無言のまま「回れ右」をして走り去っていった。 『触らぬ神に祟りなし』。それが、第一大隊で平穏に長く生き残るための最も重要な知恵である。
「でも僕は、ただ先輩と一緒にいたいだけなのに」
ユリウスはわざとらしくシュンとした顔を作り、リリアの華奢な腕へ甘えるように自然に抱きつこうとした。 しかし、その手がリリアに触れる直前。アルベルトの大きな手が、ユリウスの手首を万力のようにガシッと掴んで止めた。
「気安く妻に触るな」
「痛いな……まだ触ってませんよ」
「今まさに触ろうとしただろうが」
「なんですか、大の大人がみっともない。嫉妬ですか?」
「お前のような得体の知れない奴への警戒だ」
「同じじゃないですか。素直じゃないですね」
そこで、横からセドリックが楽しそうに口を挟んだ。
「そうやって力ずくで引き剥がそうとするから、器が小さいと言われるんだよ、アルベルト」
「貴様は黙っていろ!」
アルベルトがギロリと振り向く。
「僕には触る予定なんてありませんよ。眺めているだけで十分ですから」
「『予定』という言い方をするな。いつか触る気があるように聞こえるだろうが」
「では、今は?」
「もっと悪い! 今すぐその目を瞑れ!」
頭を抱えるアルベルトを見て、セドリックが肩を揺らしてクスクスと笑う。その余裕の態度に、ユリウスは露骨に嫌悪感を剥き出しにして顔をしかめた。
「……やっぱり、僕はこの人嫌いです」
「気が合うね。僕も君のことは嫌いだよ」
「先輩、こんな意地の悪い人と話すのやめません? 毒がうつりますよ」
「なんで? セドはいい人だよ」
「先輩は騙されてるんです。性格悪いんですよ、こいつ」
「君がそれを言うのかい?」
セドリックが心底呆れたように、銀色の眉を片方跳ね上げた。
「少なくとも僕は、自分の好きな女性が愛している夫を『殺そう』などと物騒なことは考えないよ」
「だから、先輩が悲しむから殺してないって言ってるじゃないですか!」
「それは胸を張って主張するところじゃないと思うけれどね」
二人の終わらない口論を不思議そうに聞いていたリリアが、ふと思い出したように口を開いた。
「でも、セドだってアルのこと嫌いなんでしょ?」
突然話を振られ、セドリックは少しだけ目を丸くした。そして、顎に手を当ててしばし考えるそぶりを見せる。 やがて、その紫灰色の視線が、まっすぐにアルベルトへと向けられた。
「嫌い、というよりは……」
セドリックはふっと息を吐き、静かに言った。
「羨ましい、かな」
一瞬だけ、その場の空気が変わった。 セドリックの顔に浮かんでいるのはいつも通りの飄々とした笑みだったが、その声のトーンには、決して冗談ではない、切実な何かが混じっていた。 アルベルトもその気配の変化を察したらしく、反論の言葉を飲み込み、黙ってセドリックを見つめ返す。
「この人は、リリアが自分で選んだ、たった一人の特別な人だからね」
その言葉に、ユリウスの顔からもからかいの笑みが消えた。 かつて裏社会で《白猫》と呼ばれ、感情を持たず、自分の意志も欲も何も持ち合わせていなかった少女。その暗闇の時代を知っている二人だからこそ、セドリックの言葉の重みが痛いほどに理解できた。彼女が「誰かを選んだ」という事実が、どれほどの奇跡であるかを。
しんとした空気が流れる中、リリアは三人の複雑な顔を順番に見回したあと、アルベルトの逞しい腕へ、自分からそっと両腕を絡めた。
「うん。私、アルがいいよ」
あまりにも自然で、一点の曇りもない真っ直ぐな言葉だった。 不意打ちを食らったアルベルトは、雷に打たれたように完全に固まった。厳つい顔立ちは普段通りを装っていたが、隠しきれない耳の先だけが、みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まっていく。
その純粋すぎるノロケを見せつけられ、セドリックはたまらずといった様子で苦笑し、ユリウスは露骨に頬を膨らませて地団駄を踏んだ。
「ちょっと先輩! それ、僕の目の前で堂々と言います!?」
「え、なんで?」
「傷つきます! 僕の純情がズタズタです!」
「大丈夫だよ。ユリウスのことも好きだからね?」
途端に、少年の機嫌がパァッと晴れやかになった。背後に犬の尻尾が見えるほどの現金な変わりようである。
「本当ですか!?」
「うん、本当」
「リリア」
たまらず、アルベルトの地鳴りのような低い声が割って入った。
「『後輩として』だと言いなさい」
「もう、アルったら。先にそう言ってよ」
「俺はお前の通訳じゃない!」
「そういえば、さっきもそれ同じこと言ってたね。息ぴったり」
「お前が言わせているんだろうが!!」
とうとう限界を迎えたセドリックが、腹を抱えて盛大に吹き出した。不機嫌だったユリウスまで、必死に口元を押さえて肩を震わせている。 アルベルトは無遠慮に笑う二人を親の仇のように睨みつけたあと、愛しい妻の肩を抱き寄せ、自分の側へしっかりと囲い込んだ。
「いいか、よく聞けお前ら。リリアは俺の妻だ。これだけは天地がひっくり返っても変わらん」
「知ってますよ、見せつけないでください」
「ええ、十分に存じております。痛いほどにね」
「分かっているなら、俺の妻から適切な距離を取れ。一歩でも近づいたら斬るぞ」
ユリウスとセドリックは、示し合わせたように一度だけ顔を見合わせ、同時に肩をすくめた。
「セドリックさん、年長者なんだから道を譲ったらどうですか」
「いいや、未来ある年下から優先して譲るよ。どうぞお先に」
「僕は先輩の可愛い後輩なので、側にいる権利があります」
「僕は苦楽を共にした元相棒だからね、絆の深さが違うんだよ」
「昔の話は関係ない! いいから二人とも離れろ!!」
ついに、アルベルトの堪忍袋の緒が切れた怒声が、第一大隊の本部棟中に響き渡ったのだった。
※
その日の夕方。 第一大隊長執務室の机の上にある『非公式危険人物一覧』の書類には、副官の手によってさらなる追記事項がなされていた。
『注意事項――ユリウス殿とセドリック殿を、同日に本部内へ立ち入らせないこと』 『理由――単体でも大隊の脅威だが、同時に存在した場合、相乗効果により大隊長の血圧が危険水域を突破するため』
書類の決裁に回ってきたその文面を見つけたアルベルトは、今回は怒鳴ることも、眉間にシワを寄せることもなかった。 彼はしばらくの間、無言でその紙を見つめていたが、やがて静かに万年筆を手に取ると、流れるような筆記体でこう書き込んだ。
『全面的に許可する。徹底せよ』
そして、力強く署名した。
しかし―――翌日のことである。 ひょんなことからその新しい規則の存在を知ってしまったリリアが、目を輝かせてこう言い放ったのだ。
「中に入れないなら、じゃあ三人で外へ遊びに行けばいいんだね!」
その日の午後、非公式規則は即日改訂されることとなった。
『注意事項改訂―――場所を問わない。本部内外に関わらず、同時接触を厳禁とする』
さらにその下には、副官の震えるような筆跡で、小さく、しかし切実な追記がなされていた。
『特記事項:奥方様には、決して本規則の抜け道を考えさせないこと。大隊の存亡に関わる』
第一大隊は今日も、王国の平和と治安を盤石に守り続けている。 ただし現在、屈強な兵士たちが国境警備以上に必死になって守っているものが『大隊長の胃袋の健康』であることは、軍上層部だけの極秘事項であった。




