王家のお茶会につき、令嬢たち震撼中。
リリア・クロフォードのもとに王宮から一通の招待状が届いたのは、よく晴れた午後のことだった。
白地に金の縁取りが施された上質な封筒の中央には王家の紋章があしらわれ、封は厳重に封蝋で閉じられている。
それを食卓の上に置いたまま、リリアはしばらく眺めていた。
「アル」
「何だ」
向かいで書類に目を通していたアルベルトは、嫌な予感を覚えながら顔を上げた。
結婚してから分かったことだが、妻が妙に静かな時というのは、大抵ろくなことを考えていない。
「これ、開けていい?」
「お前宛てだろう」
「うん」
「なら開けろ」
「毒針とか飛んでこない?」
「王宮からの正式な書状だ!」
「王宮だから安全とは限らないよ?」
「その発想を捨てろ!」
アルベルトの怒声が官舎へ響いた。
リリアは不思議そうに瞬きをしたあと、封蝋へ指を掛ける。
「でも前に王宮の――」
「過去の暗殺案件を具体例として出すな!」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしただろう!」
「アル、最近察しがいいね」
「誰のせいだと思っている!」
夫の胃を犠牲にしながら封筒を開いたリリアは、中から取り出した招待状へ目を落とした。
数秒後、首を傾げる。
「お茶会?」
その声に、アルベルトの表情が止まった。
※
翌日、その招待状はクロフォード侯爵邸へ運ばれた。
エレノア・クロフォードは応接室の長椅子に腰掛け、招待状を眺めながら沈黙していた。
向かいにはリリア、その隣にはアルベルトが座っている。三人の間に置かれた紅茶から、白い湯気が静かに立ち上っていた。
「王妃殿下主催の茶会ですね」
やがてエレノアが言った。
「やっぱり?」
「ここに書いてあります」
「難しい言葉が多くて」
「読めていますね?」
「一応」
リリアは焼き菓子を摘まみながら答えた。
エレノアの灰色の瞳が、その指先へ向く。
「リリアさん」
「はい」
「菓子を口へ入れてから話さない」
ぴたり、とリリアの手が止まる。
「まだ入れてないです」
「これから入れるでしょう」
「……お母様も察しがいい」
「あなたと付き合っていれば嫌でも鍛えられます」
隣でアルベルトが深く頷いた。
「分かります」
「アル?」
「何でもない」
妻の紫色の瞳が向いた瞬間、第一大隊長は静かに紅茶へ逃げた。
エレノアは招待状へ視線を戻す。
王家主催の茶会。
名目上は若い貴族夫人や令嬢たちの親睦を目的としているが、実質的には王国上流階級の社交場だ。
そして今回、そこへ招かれたのが、元暗殺者にして現第一大隊長夫人。軍施設へ壁から侵入し、特殊錠を三秒で破り、王都封鎖騒動まで引き起こした女だった。
エレノアは静かに目を閉じた。
嫌な予感しかしない。
「私も同行します」
「え?」
リリアが目を輝かせた。
「お母様も行くの?」
「行きます」
「やった」
なぜそんなに嬉しそうなのか、エレノアには分からなかった。
ただ一つ確かなのは、この娘を一人で王宮の社交界へ放流してはいけないということだ。
侯爵夫人としての経験でも、母親としての勘でもない。
これはもはや危機管理だった。
※
王宮西棟に設けられた庭園は、春の花々で彩られていた。
白い東屋に淡い色のテーブルクロス、磨かれた銀器と磁器のカップ。噴水から流れる水音に弦楽器の演奏が重なり、華やかなドレスを身につけた夫人や令嬢たちが穏やかな笑顔を交わしている。
完璧な社交の場だった。
その入口で、エレノアが尋ねる。
「短剣は?」
隣を歩いていたリリアが答えた。
「置いてきました」
「本当に?」
「はい」
「何本」
「七本」
「全部?」
「全部」
エレノアは一度だけ安堵した。
「針は?」
「三本あります」
「リリアさん」
「髪留めだから武器じゃないです」
「あなたの場合は武器です」
「でも髪ほどけちゃう」
今日のリリアは、淡い藤色のドレスを纏っていた。白銀の髪は丁寧に結い上げられ、紫水晶の髪飾りが光を受けている。
元々の顔立ちが整っているだけに、こうして侯爵夫人として装えば否応なく人目を引いた。
歩き方も、姿勢も、挨拶も、この数か月エレノアが徹底的に叩き込んだ成果が出ている。
ただし、中身については、ほぼ手つかずだった。
「本日は絶対に問題を起こさないように」
「はい」
「嫌味を言われても笑顔です」
「嫌味?」
「社交界にはそういうものがあります」
リリアは少し考えた。
「殺気みたいなもの?」
「違います」
「敵意?」
「もっと面倒です」
「じゃあ殺気の方が分かりやすいね」
「比較しない」
エレノアは額へ手を添えたくなる衝動を、気品で押し殺した。
二人が庭園へ足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が僅かに変わった。
視線、囁き、好奇心、警戒。
噂の第一大隊長夫人。
元暗殺者。
平民どころか孤児院出身。
侯爵家嫡男と結婚し、王都を騒がせ続けている女。
話題には事欠かない。
当然、面白く思わない者もいた。
最初に近づいてきたのは、三人の若い令嬢だった。
「まあ、クロフォード夫人」
中心に立つ金髪の令嬢が、扇の向こうで微笑む。
「初めてお目にかかりますわ」
「初めまして」
リリアはエレノア仕込みの完璧な礼を返した。
エレノアは内心で小さく頷く。
まずは及第点。
「噂では伺っておりましたけれど、本当にお美しい方なのね」
「ありがとうございます」
「とても……孤児院で育った方とは思えませんわ」
エレノアの笑みが、一ミリだけ冷えた。
来た。
社交界特有の、薄布に包んだ刃。
しかしリリアは、にこにこと答えた。
「孤児院にも綺麗な子、いっぱいいますよ?」
令嬢が瞬きをする。
「……ええ、そういう意味ではなくて」
「今度見に行きます?」
「何を?」
「孤児院。みんな可愛いですよ」
「…………」
完全に不発だった。
エレノアは黙って紅茶を取った。
まだいい。
非常にリリアらしいが、問題は起きていない。
別の令嬢が笑顔で続ける。
「でも、さぞお勉強がお大変だったでしょう? 貴族の作法というものは、幼い頃から身につけるものですもの」
エレノアの中で何かが軋んだ。
それを教えたのは私ですが文句がありますか。
口には出さない。
侯爵夫人なので。
しかしリリアは素直に頷いた。
「はい。大変でした」
「あら」
令嬢の顔に小さな優越感が浮かぶ。
「やはり」
「暗殺の訓練より難しかったです」
笑顔が凍った。
リリアは続けた。
「ナイフなら持ち方を間違えても自分が怪我するだけなんですけど、フォークって順番を間違えるとお母様に見つかるので」
「…………」
「暗殺者より怖いですよ」
内緒話をするように身をかがめる。令嬢の頬が引き攣る。
「リリアさん?」
エレノアの声が静かに飛ぶ。
「褒めてます」
「褒め言葉になっていません」
三人の令嬢が、そっとエレノアを見る。
エレノアは優雅に微笑んだ。
三人がなぜか半歩下がった。
話題を変えようとしたのだろう。金髪の令嬢が扇を広げた。
「アルベルト様も、ずいぶん思い切ったご結婚をなさいましたわね」
今度こそ、エレノアの瞳が冷たくなる。
息子の選んだ妻を、好奇の玩具にされるのは気分がいいものではない。扇を手に立ち上がろうとする。
だが、それより早くリリアが嬉しそうに頷いた。
「そうなんです」
「まあ、ご自覚が?」
「最初、私、アルを殺しに行ったので」
令嬢たちの顔から血の気が消えた。
「…………え?」
「寝込みを襲ったんですけど、起きてて」
リリアは懐かしそうに微笑んだ。
「強かったですよ」
「……そ、それで、ご結婚を?」
「その時は結婚してません」
「当然ですわ!」
珍しく令嬢とエレノアの心が一つになった。
「最初は牢屋に入れられました」
「牢屋」
「はい」
リリアは明るく頷く。
「でも鍵が簡単だったから開けて」
「脱獄を?」
「逃げてないです。朝ごはんまだだったので」
誰も言葉を発さなくなった。
穏やかな弦楽器の音だけが流れている。
エレノアは遠い目をした。
この娘に嫌味は効かない。
というより、殴る側が先に精神的損傷を負う。
※
それでも、社交界の猛者というものは存在する。
少し離れた席にいた伯爵夫人が、口元へ扇を当てながら言った。
「けれど、血筋というものは隠せませんものね。クロフォード侯爵家ほどのお家ならば、もう少し釣り合いというものをお考えになってもよかったでしょうに」
その瞬間、エレノアの中で何かが切れた。
顔には出ない。
二十年以上、侯爵夫人として社交界を渡ってきた女である。笑顔も、姿勢も、指先一つ乱れてはいない。
しかし。
―――この娘の何を知っているというのです。
胸の奥で、冷たい怒りが立ち上がる。
礼儀は知らなかった。
常識も足りない。
壁を見ると登ろうとする。
鍵を見ると開けようとする。
武器を没収すると不安そうな顔をする。
確かに問題は山ほどある。
だが、息子がどれほど大切にされているかを、エレノアは知っている。
リリアがアルベルトを見る時の、あの真っ直ぐな目を知っている。
誰より危険な生き方をしてきた娘が、誰かと共に生きることを選んだ。
それを、血筋などという言葉一つで。
「伯爵夫人」
エレノアが静かに口を開こうとした、その時だった。
「釣り合い?」
リリアが首を傾げた。
「ええ」
伯爵夫人は微笑む。
「夫婦には、身分や教養、家柄というものも大切でしょう?」
「そうなんだ」
「ええ」
リリアは少し考えたあと、ぱっと顔を明るくした。
「じゃあ大丈夫です」
「何がですの?」
「アル、私より強いから」
「…………はい?」
「剣ならアルの方が強いし、軍のことも詳しいし、字も綺麗です」
リリアは指を折って数えていく。
「私は鍵を開けるのと、人に見つからないのと、毒見と変装と、尾行と、尋問と、急所を当てるのが得意だから」
ひとつ、またひとつ。
伯爵夫人の顔から笑みが消えていく。
「お互い得意なことが違うから、ちょうどいいですよ」
リリアは屈託なく笑った。
「夫婦って、そういうものじゃないんですか?」
エレノアは何も言えなくなった。
本人は何一つ、深いことを言ったつもりはないのだろう。
けれど、正しい。
少なくともエレノアには、そう思えた。
伯爵夫人は口を閉ざした。
そして、その沈黙を破ったのは、軽やかな笑い声だった。
「面白い方ね」
庭園の奥で、人々が一斉に姿勢を正した。
淡い青のドレスを纏った若い女性が、侍女を伴って歩いてくる。
第一王女シャルロット。
今日の茶会の主催者である王妃を手伝うため、途中から参加したらしい。
リリアも慌てて立ち上がり、エレノアから叩き込まれた礼をする。
「シャルロット王女殿下にご挨拶申し上げます」
完璧だった。
エレノアは感動しそうになった。
「楽になさって」
シャルロットは微笑んだ。
年齢はリリアとそう離れていない。柔らかな金髪に青い瞳。一見すると可憐な王女そのものだったが、その目には好奇心の強い光が宿っている。
「あなたがリリア・クロフォードね」
「はい」
「先ほどのお話、本当?」
「どれですか?」
「全部」
「たぶん」
「牢を開けたことも?」
「開けました」
「王国軍の壁を登ったというのも?」
「登りました」
王女の瞳が輝く。
「どうやって?」
エレノアの嫌な予感が再び始まった。
「普通に」
「普通には登れないわ」
「足を二回壁について、上の継ぎ目に――」
「リリアさん」
「はい」
「王女殿下へ軍施設への侵入方法を教えない」
「あ」
シャルロットが吹き出した。
声を立てて笑う王女を見て、周囲の令嬢たちは目を見開いている。
「あなた、本当に面白いわね」
「そうですか?」
「ええ。私、こういうお茶会は少し苦手なの」
王女は周囲を見回した。
「皆、私が何を言っても『おっしゃる通りです』しか言わないでしょう?」
令嬢たちの肩が僅かに跳ねる。
リリアは考えた。
「嫌なら、やめればいいのでは?」
今度はエレノアの肩が跳ねた。
「リリアさん」
「だって苦手なんですよね?」
「ええ」
「じゃあ、お菓子だけ食べる会にしたら?」
王女は数秒沈黙した。
そして本当に楽しそうに、にっこりと笑う。
「それ、いいわね」
「殿下?」
侍女が慌てる。
「次からそうしましょう」
「殿下!」
「リリア、甘いものは好き?」
「大好きです」
「私もよ」
「ほんと?」
「ええ。厨房に今日のものとは別に、新作の焼き菓子があるの」
リリアの目が輝いた。
「食べたい」
「行きましょう」
「行きます」
二人が当然のように歩き出す。
エレノアは頭痛を覚えた。
「お待ちなさい」
二人が振り向く。
「何?」
「何でしょう、お母様」
王女と嫁が揃って同じ顔をしている。
いつから仲良くなった。
「王女殿下。護衛を」
「あら、そうね」
「リリアさんも勝手についていかない」
「でもお菓子」
「後でいただきなさい」
「お母様も来る?」
「なぜ私まで」
「一緒に食べよう?」
屈託なく誘われ、エレノアは一瞬だけ黙った。
「……少しだけですよ」
「やった」
その日、第一王女シャルロットとリリアは、出会って一時間もしないうちに、互いを名前で呼ぶ仲になった。
※
帰りの馬車で、リリアは上機嫌だった。
膝の上には、王女から持たされた焼き菓子の箱がある。
「社交界って楽しいね」
向かいに座るエレノアは窓の外を見た。
本日、リリアへ嫌味を言った令嬢は五名。遠回しに出自を侮辱した夫人は二名。興味本位で暗殺技術を尋ね、答えを聞いた結果、青ざめた者は八名。
さらに、「今度ぜひ我が家へ」と社交辞令を述べた侯爵令嬢へ、リリアが「警備薄いけど大丈夫?」と善意で指摘したため、その令嬢は途中から震えていた。
リリア本人に敵意は一切ない。
それが一番怖い。
「みんな優しかった」
エレノアは黙った。
「また会えるかな」
「……会えるでしょうね」
会いたいかどうかは、相手次第だが。
「友達いっぱいできた」
できていない。
少なくとも、今日の出席者の大半は、リリア・クロフォードを友人ではなく、『絶対に敵へ回してはいけない何か』として認識したはずだ。
しかし、その事実をわざわざ伝える必要もないだろう。
リリアが楽しそうなら、それでいい。
「それにシャルロットと約束したの」
嫌な単語を聞いた。
「何を?」
「今度二人で王都に遊びに行く」
エレノアの顔から表情が消えた。
「……護衛は?」
「いらないって」
「要ります」
「私がいるよ?」
「あなたが一番不安です」
「どうして?」
その夜、アルベルトは、母から一通の手紙を受け取った。
内容は簡潔だった。
『王女殿下とリリアさんが親しくなりました』
アルベルトはそこで一度読むのをやめた。
嫌な予感がした。
続きを読む。
『近日中に、二人で王都へ出掛けるそうです』
沈黙。
さらに、その下。
『止めなさい』
アルベルトは目を閉じた。
数秒後、官舎中へ怒声が響いた。
「リリアァァァァ!!」
離れた部屋から、明るい声が返ってくる。
「なにー?」
「王女殿下と何を約束した!」
「あ、もう聞いたの?」
「なぜ王女殿下と二人で出掛ける話になっている!」
「友達だから」
「いつ友達になった!」
「今日」
「今日!?」
「アルも今度一緒に行く?」
「そういう問題ではない!」
リリアは不思議そうに首を傾げた。
今日のお茶会は成功だった。
礼儀も守った。
喧嘩もしていない。
誰も殴っていない。
窓から侵入もしていない。
王女とも仲良くなった。
完璧だった。
少なくとも、本人の認識では。
なお翌日、王宮の社交界では、とある噂が急速に広まった。
クロフォード侯爵家の若き夫人には、決して嫌味を言ってはいけない。
効かない。
それどころか、下手に話を振ると、暗殺者時代の実体験を笑顔で返される。
そして何より、第一王女殿下が大変気に入っている。
つまり、社会的にも物理的にも、絶対に敵へ回してはいけない。
こうしてリリア・クロフォードは、本人の知らないところで、社交界における地位を確立した。
本人だけは今日も思っている。
―――みんな、いい人だったなあ。
クロフォード家の嫁は、本日も概ね幸せである。
そして、その幸せを守るため、姑と夫の胃は今日も順調に削られていた。




