王女殿下、ただいま行方不明中につき。
第一王女シャルロットには悩みがあった。
王女として生まれた以上、多少の不自由は当然だと思っている。
公務がある。
勉学がある。
外交がある。
社交がある。
朝起きれば侍女がいて、部屋を出れば護衛がいて、廊下を歩けば誰かが頭を下げる。
王宮の庭園を散歩するにも護衛がつき、馬車で王都へ出るとなれば、行き先を申請し、護衛計画を立て、先触れを出し、場合によっては巡回経路まで変更される。
それもすべて、理解していた。
理解している。
理解しているのだが。
「―――市場へ行ってみたいの」
王宮の私室でそう漏らしたシャルロットに、向かいで焼き菓子を食べていたリリアは瞬きをした。手にしていた菓子を皿へ戻し、首を傾げる。
「行けばいいじゃん」
あまりにもあっさりした返答だった。
シャルロットは、思わず手にしていた紅茶のカップを置く。陶器が小さく音を立てた。
「…………」
「シャルちゃん?」
「それができないから悩んでいるのよ」
シャルロットは両手を膝の上で組み、いかに大変かを説明しようとした。だがリリアは本気で分からないらしく、さらに身を乗り出す。
「なんで?」
先日の王家主催の茶会以来、二人は妙に気が合った。
第一王女と侯爵家嫡男の妻。
しかも片方は元暗殺者。
本来ならば、ここまで急速に距離を縮める組み合わせではない。
しかしリリアには王女へ媚びるという発想がなく、シャルロットもまた、自分を王女としてではなく一人の人間として扱うリリアを気に入った。
「だって、私が王都へ出ようとすると大変なのよ。護衛が十人くらいついてくるし」
シャルロットは指を折りながら数えた。思い出すだけで、肩が重くなる。
「多いね」
「お店に入れば店主が震えるし」
「寒いのかな」
「私が王女だからよ」
「……ああ」
ようやく理解したらしい。
リリアは残っていた焼き菓子を口へ放り込み、頬を膨らませたまま考え込んだ。やがて飲み込むと、何でもないことのように言う。
「じゃあ、こっそり行けば?」
シャルロットは目を瞬いた。思わず椅子の背から身を起こす。
「……こっそり?」
「うん」
「王宮から?」
「うん」
「護衛に黙って?」
「もちろん」
あまりにも自然に言われたので、シャルロットは一瞬、それが普通の外出方法であるような錯覚を覚えた。
だが王女として二十年以上培ってきた常識が、全力で警鐘を鳴らす。
「それは脱走というのではなくて?」
「違うよ」
リリアは即答した。しかも、少しも悪びれていない。
「お出かけ」
「黙って王宮から消えるのよ?」
「お忍び」
「護衛を撒くのよ?」
「自由行動」
「父上にも内緒よ?」
「サプライズ」
「言い換えればいいと思ってない?」
思っている顔だった。
シャルロットは額を押さえた。頭痛がしてきた気がする。
けれどほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ、胸が躍った。
「……できるの?」
その問いを聞いた瞬間、リリアの紫色の瞳が輝いた。椅子から身を乗り出し、楽しそうに笑う。
「できるよ」
元暗殺者《白猫》。
潜入、解錠、変装、尾行、気配遮断。
かつて王国の裏側で名を馳せた女である。
そして現在、その技能の大半が夫に内緒で遊びに行くために使われていた。
「任せて」
胸を張ったリリアを見ながら、シャルロットは思った。
たぶん今、自分は人生で一番、頼ってはいけない人を頼ろうとしている。
「……行ってみたい」
言ってしまった。
リリアが笑う。机の上の菓子皿を端へ寄せ、勢いよく立ち上がった。
「じゃあ決まり」
この瞬間、王国の平和な一日は終わった。
※
翌朝。
王国軍第一大隊長アルベルト・クロフォードは、妻の様子がおかしいことに気づいた。
朝食の席。
リリアが大人しい。
パンを食べている。
スープを飲んでいる。
普通だ。普通すぎる。
だからこそ、おかしい。
アルベルトは、向かいに座る妻をじっと観察した。リリアは何食わぬ顔でスープを口に運んでいる。あまりにも自然で、かえって不自然だった。
アルベルトは匙を置き、慎重に声をかける。
「リリア」
「なに?」
「今日の予定は?」
「特にないよ」
アルベルトの眉が動いた。
「本当に?」
「うん」
「王宮は?」
「行かない」
「侯爵邸は?」
「行かない」
「孤児院は?」
「行かない」
「市場は?」
「行かないよ」
「壁は?」
「登らない」
「窓は?」
「出ない」
アルベルトは黙った。
怪しい。
完璧すぎる。
リリアは普段、何かを企んでいる時ほど分かりやすくそわそわする。視線が泳ぎ、返事が妙に早くなり、時には鼻歌まで歌い始める。
だが、結婚生活を経て、アルベルトは学んでいた。
本気で何かを企んでいる時は、逆に完璧に隠す。
「……リリア」
「なに?」
「俺の目を見ろ」
リリアはゆっくりと顔を上げた。紫色の瞳が真っ直ぐ向く。
アルベルトはその目を見つめたまま、慎重に問いかける。
「今日、何もしないな?」
「うん」
嘘をついている顔ではない。
だが、アルベルトは知らなかった。
リリアの中で今回の件は、『何かをする』ではなく『シャルちゃんと遊ぶ』に分類されていた。
本人の中では嘘ではない。
「……ならいい」
完全には納得していなかったが、これ以上問い詰めても無駄だと判断し、アルベルトは立ち上がった。椅子を引く音に、リリアの指が一瞬だけ止まる。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
「夕方には戻る」
「うん」
「大人しくしていろ」
「はーい」
アルベルトは最後まで妻を疑うように見つめていたが、やがて扉へ向かった。
扉が閉まった。
足音が遠ざかる。
リリアは椅子に座ったまま、耳を澄ませていた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
やがて足音が完全に消えると、ようやく立ち上がる。
窓辺へ行き、カーテンの隙間から外を見る。
アルベルトが歩いていく。
角を曲がった。
リリアは口元を押さえ、笑いをこらえた。それから、誰もいない部屋を振り返る。
「よし」
妻は天井裏に消えた。
窓から出ないという約束は守った。
※
午前十時。
第一王女シャルロットの私室。
侍女が紅茶を運んできた。
「殿下、お茶を――」
いない。
「……殿下?」
侍女は盆を抱えたまま、部屋の奥へ進んだ。
寝室。いない。
化粧室。いない。
バルコニー。いない。
何度も部屋を見回したあと、侍女は最後に机へ目を向けた。
そこには、一枚の紙が置かれていた。
『リリアと遊びに行ってきます。夕方には帰ります。シャルロット』
侍女は三回読んだ。
一回目。
意味が分からなかった。
二回目。
意味を理解した。
三回目。
理解したくなくなった。
「…………」
手にした紙が、かすかに震える。
そして。
「へ、陛下ああああああああああああ!!」
王宮に悲鳴が響いた。
※
「何だと!?」
国王は立ち上がった。椅子が大きな音を立てて後ろへ下がる。
「シャルロット様が王宮内から消えました!」
「護衛は!」
「誰も見ておりません!」
「門は!?」
「通過記録なし!」
「馬車は!?」
「使用されておりません!」
「誘拐か!?」
「置き手紙が!」
差し出された紙を国王がひったくる。
読む。沈黙。
もう一度読む。
眉間に皺が寄る。
「……リリア?」
側近が青ざめた。答える前から、嫌な予感が顔に出ている。
「第一大隊長夫人の、リリア・クロフォード様かと」
国王の脳裏に過去の記憶が蘇る。
夫婦喧嘩。王都封鎖。
軍施設侵入。第一級警戒態勢。
元暗殺者、白猫。
国王は紙を机へ置き、ゆっくりとこめかみを押さえた。
「…………胃薬」
「陛下」
「胃薬を持て」
「捜索が先では」
「飲みながら捜す!」
※
同時刻。
第一大隊本部。
アルベルトは書類に目を通していたが、廊下を駆けてくる慌ただしい足音を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がした。
「隊長!」
アルベルトは書類から顔を上げる。
「何だ」
「王宮より緊急連絡です!」
「敵襲か」
「違います!」
「では何だ」
伝令兵が息を整える。額には汗が浮かび、手にした伝令書がわずかに揺れていた。
「第一王女シャルロット殿下が、行方不明になられました!」
アルベルトの表情が変わった。
椅子を蹴る勢いで立つ。
「いつからだ!」
「今朝からです!」
「護衛は!」
「撒かれたものと思われます!」
「誘拐の可能性は!」
「それが!」
兵士は手元の伝令書を見た。
そして、非常に言いにくそうに続ける。
「置き手紙に……『リリアと遊びに行ってきます』と」
沈黙。
アルベルトの指が、机の端を強くつかんだ。
「…………誰と?」
「リリア様です」
「…………どこの?」
兵士は泣きそうだった。
「隊長の奥様です」
アルベルトは目を閉じた。
朝。
『窓は?』
『出ない』
確かに言った。
だが、あの時のリリアの平然とした顔が脳裏に浮かぶ。まさかと思いながらも、アルベルトは即座に官舎へ兵を走らせた。
五分後、報告。
「リリア様、いません!」
「窓は!」
「閉まっています!」
アルベルトのこめかみに青筋が浮いた。机の上の書類を押しのけ、身を乗り出す。
「天井裏を見ろ」
兵士が走る。
三分後、戻ってきた。
「屋根裏に移動の痕跡があります!」
アルベルトは天井を見上げた。そこに妻の姿が見えるはずもないのに、なぜか目が合ったような気がした。
「リリアああああああああ!!」
第一大隊本部の窓が震えた。
※
その頃、国家最高戦力の一角と王国第一王女は串焼きを食べていた。
「おいしい!」
シャルロットの青い瞳が輝いている。
簡素なワンピースに帽子。金髪は目立たないよう編み込み、化粧も普段より薄い。
リリアも侯爵夫人らしいドレスではなく、動きやすい町娘風の服装だった。
串から肉を一つ外したシャルロットは、熱さに少し目を細めながらも、嬉しそうに頬張る。
「でしょ?」
「こんなの初めて食べたわ」
「お城にはない?」
「ないわ。料理人に頼めば作ってくれるでしょうけれど……違うの。こうやって歩きながら食べるのが楽しいのよ」
シャルロットは串を持ったまま、通りを行き交う人々を見回した。誰も彼女を見ていない。その事実が、何よりも新鮮だった。
「分かる」
二人は笑った。
市場を歩き、露店で髪飾りを見て、果物を買う。
大道芸に拍手する。
小さな雑貨屋で色違いの髪留めを見つけ、二人で悩んだ末にお揃いで買った。
シャルロットは値切りにも挑戦した。
「もう少し安くなりません?」
「お嬢ちゃん、これ以上は無理だよ」
「そこをなんとか」
「無理無理」
店主にきっぱり断られ、シャルロットはしばらく髪留めを見つめた。それから、王宮では決して見せないような悔しそうな顔で肩を落とす。
王女は敗北した。
「リリア」
「なに?」
「王女って、あまり役に立たないのね」
シャルロットは小さくため息をつき、買い物袋を抱え直した。
「王都で王女って言えば安くなるんじゃない?」
「大騒ぎになるでしょう!」
「そっか」
リリアは残念そうに頷いた。シャルロットはその顔を見て、とうとう堪えきれずに笑い出す。
昼には小さな食堂へ入った。
シャルロットはメニューを見て十分悩み、隣の客が食べていた煮込み料理を指差した。
「あれにする!」
「私も」
「あと、この揚げたお芋」
「食べきれる?」
「二人で食べればいいでしょう?」
「いいね」
料理が運ばれてくると、シャルロットは湯気の立つ皿を覗き込み、目を輝かせた。王宮の食卓とは違う、素朴な香りがする。
王女はずっと笑っていた。
本当に、ずっと。
誰かの機嫌を窺う必要もない。
背筋を伸ばし続ける必要もない。
何を言っても政治的な意味を探られることもない。
店主に「お嬢ちゃんたち仲いいね」と言われて、
「親友なの」
そう答えた時、シャルロットは自分でも驚くほど嬉しかった。
向かいでリリアがぱっと笑う。
「親友?」
「違う?」
「違わない」
「よかった」
リリアは嬉しそうに頷き、残っていた芋を一つシャルロットの皿へ移した。
「シャルちゃん」
「なあに?」
「次、甘いの食べよ」
「食べる!」
感動は三秒で食欲に負けた。
※
午後二時。
王宮。
「まだ見つからんのか!」
「はい!」
「第一大隊は!」
「すでに王都を捜索中です!」
「近衛は!」
「全隊出ています!」
「何で王女一人見つけられん!」
近衛騎士団長は答えられなかった。
正確には王女一人ではない。
元暗殺者が一緒なのだ。
見つからないようにする技術については、探している側より遥かに上である。
「陛下」
侍従が胃薬を差し出す。
国王は無言で受け取り、水と一緒に飲み込んだ。
本日三回目だった。
※
同時刻。
「隊長、東市場にはいません!」
「西地区もです!」
「南門、通過記録なし!」
アルベルトは王都の地図を睨んでいた。
妻の行動を読む。
甘いもの。
珍しいもの。
高いところ。
猫。
彼は地図の上に指を滑らせながら、過去のリリアの行動を一つずつ思い返した。捜索の指揮を執る顔は真剣そのものだが、内容だけは妻の休日の過ごし方を当てる作業だった。
「菓子屋を重点的に当たれ!」
「はい!」
「猫の多い路地もだ!」
「はい!」
「大道芸!」
「はい!」
副官が感心した。
「……隊長、リリア様の行動予測だけ異様に精度が高いですね」
「三年だ」
「はい?」
「三年一緒にいれば嫌でも分かる!」
悲痛な叫びだった。
そこへ別の兵が駆け込んだ。
「目撃情報です!」
アルベルトは地図から顔を上げた。
「どこだ!」
「中央広場で、銀髪の女性と金髪の女性が大道芸を見ていたと!」
「いつ!」
「一時間半前です!」
遅い。
アルベルトは額を押さえた。怒りよりも先に、胃の奥がきりきりと痛む。
「胃が痛い……」
副官がそっと胃薬を差し出した。
第一大隊では最近、常備されている。
※
午後三時。
「見て、リリア!」
シャルロットが噴水広場で笑っていた。
手には花冠。
広場で花を売っていた少女に作り方を教わったのだ。
「上手」
「でしょう?」
シャルロットは花冠を頭に載せ、少し誇らしげに胸を張った。
「ちょっと歪んでるけど」
「初めてなんだから褒めて!」
「可愛いよ」
「それならいいわ」
今度はリリアが作る。
暗器を編み込む要領で、異常に速い。
「できた」
「早っ」
「得意」
「何で花冠まで暗殺技術が応用できるのよ」
「だいたい何でも使えるよ」
「暗殺者って便利なのね……」
王女の中で暗殺者という職業への認識が間違った方向へ進み始めていた。
その時、鐘が鳴った。
シャルロットが空を見る。西の空が少しずつ赤く染まり始めている。
「もうこんな時間」
「帰る?」
「……うん」
ほんの少し声が寂しくなった。
リリアはそれに気づいたが、何も言わなかった。
代わりに、花冠の位置を直してやる。
「また来よう」
「いいの?」
「もちろん」
「次はちゃんと許可を取って?」
リリアは考えた。
「取れたら」
「取るのよ」
そこだけは王女の常識が勝った。
※
午後四時十二分。
王宮正門。
国王、近衛騎士団長、第一大隊長アルベルト・クロフォード。
その他、総勢数十名。
全員が殺気立っていた。
門前では兵士たちが何度も通りの先を確認し、国王は腕時計を見てはため息をついている。アルベルトに至っては、腕を組んだまま一言も発していなかった。
そこへ、
「ただいまー」
リリアが帰ってきた。
隣にはシャルロット。
二人とも笑顔。
両手には大量の買い物袋。
髪にはお揃いの髪留め。
さらに花冠。
国王が立ち上がる。
アルベルトも立ち上がる。
「シャルロット」
「リリア」
低い声が重なった。
二人が止まる。
リリアは買い物袋を背中へ隠そうとし、シャルロットは花冠に触れながら姿勢を正した。
「……父上」
「アル」
国王のこめかみが引きつる。
「どこへ行っていた」
「王都です」
「知っている!」
アルベルトも妻を見る。
「お前は朝、何と言った」
「窓から出ないって」
「出たのか」
「出てないよ」
「ではどこから出た」
リリアは少しだけ視線を逸らした。
「天井裏」
「そういう問題ではない!!」
怒声が王宮前へ響いた。
リリアがシャルロットへ小声で囁く。
「怒ってる」
「怒ってるわね」
「逃げる?」
「やめなさい」
さすが王女。
そこは止めた。
国王は娘の前へ立つ。
叱らなければならない。
王族なのだ。
第一王女が護衛もなく市井へ出るなど、あまりにも危険だ。
国王は厳しい顔を作り、口を開いた。
「シャルロット、お前は―――」
そこで止まった。
娘が笑っている。
花冠をつけ、安物の紙袋を抱え、頬を少し赤くして、子どもの頃のように。
「父上」
シャルロットが袋を差し出した。
「これ、お土産です」
国王は戸惑いながらも、袋を受け取った。
「……何だ」
「焼き菓子。市場で人気なんですって」
国王は袋の口を開き、中を覗いた。
温かかった。
焼きたてなのだろう。
「楽しかったか」
思わず聞いていた。
「はい!」
迷いのない返事だった。
国王は黙った。
長い沈黙のあと、深く。
本当に深く、息を吐いた。
「……次からは護衛を連れて行け」
「父上」
「ただし目立たぬ格好をさせる。人数も減らす」
シャルロットの顔が輝いた。
「また行ってもいいのですか?」
「今日のように消えられるくらいならな!」
「ありがとうございます!」
娘に抱きつかれ、国王は完全に怒る機会を失った。
その横でアルベルトが低い声でリリアに告げる。
「リリア」
「はい」
「お前は駄目だ」
「なんで!?」
「なぜ王女殿下の脱走を手伝った!」
「遊びたそうだったから」
「なぜ王宮の警備を突破した!」
「突破してないよ」
「ではどうやって入った!」
「前から知ってた抜け道」
アルベルトが固まった。
近衛騎士団長も固まった。
国王まで振り向いた。
「……何?」
リリアが「あ」という顔をした。しまった、と言わんばかりに口元を押さえる。
アルベルトがゆっくり詰め寄る。
「リリア」
「はい」
「なぜ王宮の抜け道を知っている」
「昔、仕事で」
「何の仕事だ」
沈黙。
元暗殺者が目を逸らした。
「リリア」
「昔のことだよ」
「何の仕事だ!」
「守秘義務」
「暗殺組織に守秘義務を守るな!!」
王宮前に本日最大の怒声が響いた。
国王は胃を押さえた。
近衛騎士団長は青ざめた。
アルベルトは頭を抱えた。
シャルロットだけが楽しそうだった。
「リリア」
「なに?」
「今度はどこへ行く?」
アルベルトが顔を上げる。
「殿下!?」
「劇場も行ってみたいの」
「いいね」
「リリア!」
「あと夜市!」
「楽しそう」
「話を進めるな!」
国王が胃を押さえたまま叫ぶ。
「せめて私の許可を取れ!」
「分かりました、父上」
「リリア、お前もだ!」
「私はアルの許可?」
「そうだ!」
「たぶん駄目って言うよ」
「当たり前だ!」
「じゃあ聞く意味なくない?」
「ある!!」
その日。
王宮では新たに『第一王女の私的外出に関する警護規定』が制定された。
第一大隊では『大隊長夫人の外出時における所在確認要領』が改訂された。
さらに王宮警備隊では、リリアが知っていた抜け道が十三か所発見され、そのうち四か所については近衛騎士団ですら存在を把握していなかった。
国王は報告書を読んで胃薬を飲んだ。
アルベルトも同じ報告書の写しを読んで胃薬を飲んだ。
※
翌週、シャルロットから官舎へ一通の手紙が届いた。
『来週、劇場へ行きませんか? 父上の許可は取りました』
それを読んだリリアは歓声を上げた。
「アル! シャルちゃんと遊びに行っていいって!」
「護衛は?」
「いるって」
「俺も行く」
「え?」
リリアは手紙から顔を上げ、目を丸くした。
「俺も行く」
「アル、仕事は?」
「休む」
「なんで?」
アルベルトは無言で妻を見た。
王女と元暗殺者。
前回、二人だけにした結果、王宮と第一大隊が半日機能不全に陥った。
二度目はない。
「護衛ならいるよ?」
「そういう問題ではない」
「じゃあ何?」
「俺の胃の問題だ」
真顔だった。
リリアは首を傾げた。
「最近、アルずっと胃痛いね」
「誰のせいだと思っている」
「仕事しすぎ?」
「お前だ!!」
官舎に怒声が響く。
リリアは笑いながら逃げた。
アルベルトはその背中を追いかけようとしたが、ふと机の上の胃薬へ目をやり、深いため息をついた。
その手には、シャルロットとお揃いで買った小さな髪留めが揺れている。
王都には今日も平和が訪れていた。
ただし、国王と第一大隊長の胃を除いて。




