第73話 狂乱の聖女は、悪意だけを聴く――だから私は、妄想の恋人に恋をした。
「うん、またね。応援してるよ」
成川正人が、いつもの優しい笑顔で手を振る。
「…………」
その隣では、
刹那がなんとも言えない顔をしていた。
だが。
月戸律子の脳内では、
会話はまったく別のものに変換されていた。
『律子ちゃん。和人のこと、頼んだよ』
『もう家族みたいなものだから』
『ええ。義妹なんだから遠慮しないで』
『お義姉さんって呼んでいいわよ』
「えへへへへ……」
律子は頬を押さえた。
「お義兄さんとお義姉さんにそんなこと言われたら……照れちゃいますぅ……」
完全に別世界だった。
しかも本人だけ幸せそうである。
「おじゃましました~!」
スキップ。
るんるん。
鼻歌。
マンションの廊下を、
今にも花が飛びそうな勢いで帰っていく。
残された沈黙。
「……大丈夫なの? あの子」
刹那が真顔で言った。
「人のこと言えないけど、あれかなり危険側よ?」
「うん」
正人は静かに答えた。
「でも、いいんだ」
窓の外を見る。
「和人には、あの子が必要だから」
「…………」
「あいつには、もっと自分らしく生きてほしい」
その声だけ、
少しだけ兄の顔だった。
数年前――
王宮。
豪奢な賓客室。
重厚な扉を開けた瞬間、
リカルダ・ゲッテル――後の月戸律子は、
反射的に腰の剣へ手を伸ばしていた。
そこにいた“存在”が、
あまりにも異質だったからだ。
褐色の肌。
二本の禍々しい角。
ピンクのスリーピース。
磨き上げられた革靴。
そして、
場違いなくらい上品な微笑み。
悪魔だった。
だが。
まるで一流企業の営業マンみたいだった。
「やあ」
男は紅茶を口に運ぶ。
「座る?」
「……悪魔」
「うん。そうだね」
あっさり認めた。
「いやまあ、僕の部屋じゃないんだけどさ」
立ち上がり、
ティーカップを持ち上げる。
「何飲む?」
「……は?」
「お茶。蒸留酒。ああ、コーヒーはない」
「毒なんて入れないよ」
にこり。
「安っぽい真似は嫌いなんだ」
リカルダは理解していた。
勝てない。
これは。
魔王なんかより遥か上。
勇者一行が全員揃っても、
届くか怪しい。
――格が違う。
「無理だよ」
悪魔が笑う。
「瞬殺できる」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「心を読むのね」
「読めない」
即答だった。
「顔に書いてあるだけ」
「君、わかりやすいよ」
屈辱。
だが、
否定できなかった。
悪魔は紅茶を置く。
「あのさ」
「……何」
「本、読む?」
「読むわよ」
リカルダは眉をひそめる。
「経典とか、魔導書とか」
「それ読書じゃないから」
「勉強だよ、それ」
「もっと小説とか読んだほうがいい」
「世界が広がるから」
「君さ」
悪魔は笑った。
「専門バカなんだよ」
「…………」
「いずれ分かる」
その瞬間。
初めて、
リカルダは恐怖した。
この悪魔。
自分を殺しに来たんじゃない。
もっと嫌な何かだ。
「契約って知ってる?」
「……神と人が交わした原初の盟約」
「まあ半分正解」
悪魔は指を立てる。
「契約っていうのはね」
「“守る気がない者同士”が、それでも利益のために結ぶものなんだ」
にこり。
「だから価値がある」
「…………」
「僕はね、契約をした」
「内容は秘密」
「誰と何を交わしたかも秘密」
リカルダは息を呑む。
(命を対価にした……?)
「守秘義務」
悪魔は即答した。
「ビジネスだからね」
そして。
その笑顔のまま。
言った。
「今日は履行に来た」
「……私を殺すの?」
「いや?」
悪魔は首を傾げた。
「もっと嫌なことする」
黒い霧。
それが、
ゆっくりとリカルダを包む。
「地獄ってね」
悪魔は笑った。
「地下にはないんだ」
「地上にある」
「人と人の間にある」
そのまま。
悪魔は消えた。
翌朝。
「おはようございます、聖女様」
メイドが笑顔で朝食を運んできた。
優しい声。
穏やかな笑顔。
なのに。
『くそっ……いやらしいくらい綺麗ね』
「…………え?」
メイドはきょとんとした。
「どうかなさいましたか?」
「あ……いえ……」
空耳?
疲れている?
そう思った。
だが。
廊下で貴族とすれ違った時。
「聖女様、ご機嫌麗しゅう」
『下賤の生まれのくせに』
ぞわり。
背筋が凍る。
謁見の間。
王は笑顔だった。
「此度の働き、見事であった」
『生かしておくと危険だな』
『時期を見て粛清するか』
息が止まった。
勇者。
仲間。
兵士。
侍女。
誰も彼も。
笑顔の裏で。
嫉妬。
打算。
欲望。
悪意。
そればかりが聞こえる。
毎日。
毎日。
毎日。
頭の中へ流れ込んでくる。
止まらない。
眠れない。
吐き気がする。
信じたくなかった。
だが。
誰一人として、
本当に清らかな人間はいなかった。
そして。
彼女は壊れた。
「カズト、今日はね――」
誰もいない椅子へ紅茶を置く。
「ふふっ、もう……そんなこと言わないでよ」
笑う。
一人で。
誰もいない部屋で。
空想の恋人と会話する。
利用価値で見ない。
力を求めない。
優しくて。
平凡で。
安心できる人。
それが。
彼女の脳が生み出した、
唯一の避難場所だった。
王宮の人々は恐れた。
聖女が。
誰もいない空間へ話しかける。
突然笑う。
突然泣く。
存在しない誰かへ愛を囁く。
こうして。
“狂乱の聖女”
リカルダ・ゲッテルは誕生した。
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