第56話 金色の魔眼と、忘れていた名前
夕陽に染まるマンションの前。
アスファルトの上に、血が広がっていた。
その中心――
褐色の大女が、小柄な男を抱きしめている。
まるで。
壊れた子供を離すまいとする母親のように。
「……定男……ッ」
淀川ハルシャの声が、震えていた。
普段の粗暴さも、余裕もない。
腕の中の定男は、血に濡れている。
胸を撃ち抜かれた傷口から、まだ血が流れ続けていた。
その背後に――
正人が立っていた。
「……正人?」
ハルシャが顔を上げる。
その瞬間。
ぞくり、と背筋が冷えた。
正人の右目。
そこだけが、金色に発光している。
もう片方の目は――焦点が合っていなかった。
まるで、別の誰かが中にいるような。
「お、お前……」
返事はない。
正人は、ゆっくりと定男の前に膝をついた。
そして。
両手を差し出す。
ふわり、と。
定男の身体が宙へ浮かび上がった。
「……ッ!?」
次の瞬間。
無数の光の筋が、定男の身体へ絡みつく。
幾重にも。
何重にも。
まるで神経を編み直すように。
傷口が、閉じていく。
裂けた肉が。
砕けた骨が。
ゆっくりと修復されていく。
失われていた血色が戻る。
定男の指先が、ぴくりと動いた。
「な……」
ハルシャの顔から、血の気が引く。
ありえない。
こんな治癒。
こんな術式。
見たことがない。
そして――
光が消える。
定男の身体が、ゆっくり地面へ降ろされた。
同時に。
正人が、その場に倒れ込む。
「正人!!」
ハルシャの声が遠ざかる。
意識が沈む。
視界がぼやける。
その中で――
黒髪の少女が、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
泣きそうな顔。
何か叫んでいる。
けれど。
聞こえない。
スローモーションみたいに。
世界が、遠かった。
――視界が開ける。
最初に見えたのは。
黒髪だった。
「……正人?」
震える声。
刹那が、覗き込んでいた。
その瞳は、今にも泣きそうだった。
「……定男くん!!」
正人が飛び起きる。
頭が痛い。
記憶が、曖昧だ。
何か大事なものを見た気がするのに。
そこだけ霧がかかっている。
「大丈夫だよ」
刹那が、正人の肩に手を置く。
「別の部屋で寝てる」
「傷も塞がってる」
その言葉に、正人は息を吐いた。
そこでようやく。
部屋にもう一人いることに気づく。
「……母さん?」
ソファに座る女。
パンチパーマ。
派手な虎柄シャツ。
タバコを咥えたまま、じろりとこちらを見る。
戮子だった。
「ふん」
紫煙を吐きながら。
「心配させんじゃないよ」
その声に。
妙な安心感があった。
「……ごめん」
正人が呟く。
すると。
刹那が、急に強く抱きついてきた。
ぎゅっと。
壊れ物を確かめるみたいに。
「……ほんと、バカ」
震えている。
「心配したんだから……」
「うん……ごめん」
正人は、自然に刹那を抱き返した。
不思議だった。
ひどく懐かしい。
ずっと前から。
こうしていた気がする。
「……お義母さんの前だよ」
刹那が顔を赤くする。
「そうだね」
正人は微笑む。
そして。
ぽつりと。
零すように言った。
「生きてたんだ……」
刹那の肩が跳ねる。
「また会えるなんて……」
懐かしむように。
愛おしむように。
正人は、彼女の名を呼んだ。
「常夜」
沈黙。
空気が凍る。
刹那の顔から、血の気が引いた。
「……えっ」
声が掠れる。
「な、んで……」
首を振る。
ありえない、と。
そんな顔だった。
思い出してはいけない記憶。
戻ってきてはいけない時間。
刹那の背筋を、冷たいものが這い上がる。
「なんで……その名前を……」
ぽたり。
戮子の口から、タバコが落ちかけた。
「あんた……」
珍しく。
本気で動揺していた。
「あんたが、その名前を知ってんの」
刹那が、震える声で叫ぶ。
正人は、困ったように目を瞬かせる。
「……知ってる?」
「いや……なんで知ってるんだろ……」
頭が痛む。
記憶の奥で。
誰かが笑っている。
少しして――リビング。
のっぺらぼうの女医、面影節子が、正人の顔を掴んでいた。
右。
左。
無遠慮に動かされる。
「……うん」
「眼の焦点は戻ってる」
淡々とした声。
「じゃあ、服脱いで」
「……え?」
正人が固まる。
「ここで?」
「自分の家でしょ」
節子は平然としていた。
問題は。
ソファに、
刹那。
戮子。
ハルシャ。
全員いることだ。
「いや、あるよね!?」
「いいから脱ぎな」
戮子が煙を吐く。
「あんたの裸なんか、今さらだろ」
刹那まで頷いた。
「診るだけだから」
「魔術契約の痕が残ってる可能性がある」
節子が続ける。
「首筋、胸部、背中、脇腹」
「特に魔眼系は、神経に沿って侵食するから」
その言葉に。
部屋の空気が、少し重くなる。
正人は渋々、上着を脱いだ。
節子の指先が、肌をなぞる。
冷たい。
「……契約紋はなし」
「皮膚侵食もなし」
「でも――」
ぴたり。
節子の手が止まる。
「記憶領域だけ、異常に荒れてる」
「……まずいね」
戮子が低く呟く。
灰皿に、灰が落ちた。
「今は混線してるだけだ」
「けど、そのうち思い出す」
「無理やり抉り返された記憶は、止まらない」
刹那の顔が曇る。
「……あんた、バカよ」
堪えきれずに、怒鳴った。
「あんなやつと契約して!!」
正人は困ったように笑う。
「でも……何か取られた感じはないし」
「定男くん助かったなら、よかったかなって」
そして。
ハルシャの方を見る。
ハルシャは、目を逸らした。
「……すまん」
珍しく。
本当にバツが悪そうだった。
戮子が、大きく煙を吐く。
そして。
ハルシャを見る。
「あんた」
「今日は泊まってきな」
その声音は。
もう敵味方をしている場合ではない――
そう告げていた。
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