第52話 ヤンデレ彼女と殺し屋夫婦が鉢合わせした日、夕焼けのマンションが戦場になった。
次の日――。
正午を少し回った頃。
正人と刹那は、近所のスーパーへ来ていた。
恋人繋ぎ。
指と指を絡めるように繋いだ手。
本当なら今日は、久しぶりのデートになる予定だった。
映画でも観て。
カフェにでも寄って。
夕方までゆっくり過ごすはずだった。
だが。
昨夜の電話一本で予定は全部吹き飛んだ。
――成川戮子が来る。
その事実だけで、刹那の中の危機感が最大級に跳ね上がっていた。
だからこそ。
「今日は、ちゃんと準備するわ」
そう言い出したのは、刹那の方だった。
「そんな気を遣わなくてもいいと思うけどな〜」
買い物カゴを持ちながら正人が言う。
刹那はじろりと睨んだ。
「あなたは実の親だから、そう思えるのよ」
「でも私は違う」
「見定められに来るの」
真剣な声。
正人は少しだけ困ったように笑った。
「そんな大袈裟な……」
「大袈裟じゃないわ」
即答だった。
「しかも来るの夕方でしょ?」
「多分そのまま泊まるわよ」
「なら、手なんて抜けない」
言いながら、野菜を選ぶ刹那の目は真剣そのものだった。
肉。
魚。
調味料。
酒。
まるで戦争準備だった。
正人は苦笑する。
けれど。
そんなふうに頑張ってくれている姿が、少し嬉しかった。
スーパーを出る。
夕方前の柔らかな日差し。
袋を片手に、二人で歩く帰り道。
すると。
少し先に、見覚えのある影が見えた。
「……あれ?」
正人が目を細める。
電柱の近くで、きょろきょろと地面を見回している男。
猫背。
色白。
痩せた体。
落ち着きなく周囲を見回しているその姿は――。
「定男くん?」
淀川定男だった。
しかし様子がおかしい。
そわそわ。
おどおど。
完全に不審者である。
刹那も怪訝そうに眉をひそめた。
「……何してるの、あの人」
「ちょっと行ってくる」
正人は刹那の手を離し、定男の元へ向かう。
何やら話している。
定男は最初、かなり慌てていた。
だが。
正人の話を聞くうちに、少しずつ落ち着いていく。
そして。
二人でこちらへ戻ってきた。
「刹那。この人、友達の定男くん」
にこやかに紹介する正人。
刹那は一瞬だけ目を細める。
――友達。
この男が。
だがすぐに頭を下げる。
「篝月刹那です」
対する定男は。
びくっ。
まるで猛獣と遭遇した小動物みたいに震えた。
しかも正人の背後に半分隠れている。
「よ、淀川……定男……です……」
声が小さい。
というか消えそう。
刹那は思った。
――この人、よく生きてこれたわね。
少しして。
マンションのダイニング。
三人は昼食を囲んでいた。
メニューは、なすとベーコンのトマトソースパスタ。
湯気。
トマトとオリーブオイルの香り。
「「いただきます」」
正人と刹那の声が重なる。
「い、いただきます……」
定男は緊張したままフォークを持った。
「ごめんなさい。簡単なものしか作れなくて」
刹那はコーヒーを差し出す。
「あ、ありがとう……ございます……」
定男は両手で受け取る。
震えている。
小動物である。
事情は単純だった。
定男はスマホと財布を落としていた。
しかも気づかないまま、かなりの距離を歩いていたらしい。
正人が偶然見つけなければ、たぶん帰宅不能だった。
「ハルさんには連絡しとくね」
「ご、ごめん……」
「いいよ。電車賃くらい貸すし」
「せっかくだから、ゆっくりしていってよ」
刹那も静かに頷く。
そこからは、不思議な時間だった。
正人は自然に話を回し。
刹那は距離感を測る。
踏み込みすぎない。
でも、沈黙にはしない。
絶妙な温度。
趣味の話。
音楽。
ハルシャの話。
次第に定男の緊張もほぐれていく。
「そ、その……びっくりした……」
「ん?」
「正人くんの奥さん……すごく綺麗で……」
その瞬間。
刹那の顔がぱあっと明るくなった。
分かりやすい。
「ふふっ、お上手ね」
「いや、まだ結婚してないんだって」
正人が苦笑する。
「あっ……そ、そうだったね……」
「なんか、すごく自然だったから……」
定男は照れながら笑った。
「うちは夫婦っていうより……母と息子みたいで……」
「うん。いいよね、そういうの」
正人が笑う。
「信頼関係ある感じ」
「俺もあんな風になりたいな」
「いや、あなた子供だから」
刹那が呆れたように肩をすくめる。
「普段から、かなり母親してるわよ私」
そんなやり取りに、定男は小さく笑った。
空気が柔らかい。
穏やかだった。
だが。
その平穏は、夕方に終わる。
◇
マンションの玄関前。
定男を見送る正人と刹那。
夕日が長い影を落としていた。
その時。
遠くから、長身の影が近づいてくる。
刹那の目が細くなる。
圧。
近づくほど、空気が重くなる。
そして。
数メートル先で、その影は止まった。
黒髪。
褐色の肌。
長身。
首筋の刺青。
鋭い目。
――淀川ハルシャ。
定男は、ぱっと表情を明るくした。
「おハルちゃん!」
そして。
嬉しそうに二人を振り返る。
「正人くんと、その彼女の刹那さんだよ」
「お昼までごちそうになっちゃった」
「……そうか」
ハルシャは優しく定男を見る。
その目だけは、驚くほど柔らかい。
だが次の瞬間。
その視線が刹那へ向く。
空気が変わった。
「世間は狭いな……」
低い声。
刹那も笑わない。
「そうね……」
夕風が吹く。
沈黙。
圧迫感。
空気が冷える。
正人だけが気づいていない。
目の前にいる二人が。
“殺し合っている側の人間”だということに。
そして今。
夕焼けのマンションの前で。
二人は再び、相対した。
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