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第51話 ヤンデレ彼女とメタル狂いの殺し屋夫婦――“母が来る”その一言で、部屋の温度が凍りついた――

スナック――

 『ボヘミアン・ラプソディ』。


 ネオン看板は半分切れている。


 “ボヘミアン”の文字だけ点滅していた。


 怪しい。


 どう見ても怪しい。


 だが中は意外にも繁盛していた。


 昭和の空気をそのまま瓶詰めしたような店内。


 赤いソファ。


 古い洋楽ポスター。


 煙草の煙。


 薄暗い照明。


 そして流れている曲は――



 アラビア語。


 謎コーラス。


 突然のオペラ。


 意味不明な転調。


 カウンター席で、

 ハルシャが頭を抱えた。


「マスターぁ!!」


 ダン、とカウンターを叩く。


「クイーン好きなのはわかる!!」


「でもなんでそこ攻めるんだよ!!」


 正人と定男が、

 無言でうんうん頷く。


 今流れているのは、

 ファンの間でも“迷曲”扱いされるやつだった。


 しかもその前に流れていたのは、

 自転車のベルが鳴り続ける曲。


 さらにその前は、

 『フラッシュ・ゴードン』のテーマ。


「ラインナップが尖りすぎてる……」


 正人が引きつった笑みを浮かべる。


「そうそう! もう少し王道いこうぜ王道!」


 ハルシャがビール片手に叫ぶ。


 するとカウンターの奥で、

 白タンクトップのマスターが鼻で笑った。


「ふん。お子様ねぇ」


 短髪。


 濃いアイライン。


 無駄に姿勢がいい。


 そして絶妙にフレディ・マーキュリーに寄せている。


 正人は思わず言った。


「マスター、それ絶対フレディ意識してますよね」


「当然よ」


 即答だった。


「だって店名が“ボヘミアン・ラプソディ”だもの」


「しかもゲイだし」


「違うわ。バイセクシャルよ」


 マスターはグラスを磨きながら、

 妖艶に笑う。


「どちらも愛せるの」


「本当の博愛主義者ってやつよ」


 そして。


 三人へウインクした。


「だから、あなたたち全員恋愛対象」


「「「うわっ」」」


 三人同時に眉間へ皺を寄せた。


「失礼ねぇ!」


「いや怖いって!」


 ハルシャが笑う。


 定男もクスクス笑う。


 気づけば、

 最近はこういう時間が増えていた。


 昼酒。


 ロック談義。


 どうでもいい雑談。


 正人にとっては、

 少し不思議で、

 でも心地いい時間だった。


 その時。


 スマホが震える。


 画面を見る。


 ――刹那。


 正人の背筋が伸びた。


「あっ」


「彼女?」


 ハルシャがニヤつく。


「う、うん……」


 電話に出る。


「はい」


『今日は何時に帰るの』


 声は穏やか。


 だが。


 穏やかすぎる。


「えっと……もう少ししたら?」


『へぇ』


 一言。


 その“へぇ”だけで、

 店の温度が三度くらい下がった気がした。


『楽しそうでいいわね』


「いやそんな……」


『十五分前も“もう帰る”って言ってたわよね』


「うっ」


 ハルシャが吹き出す。


 定男は怯えた顔になる。


「ご、ごめん……」


『好きにしたら』


 プツッ。


 通話終了。


 沈黙。


 ハルシャがニヤニヤする。


「正人ぉ〜」


「彼女、束縛強ぇなぁ」


「愛されてるってことだよね……?」


「いやあれは重い女の声だ」


「うん。かなり」


 定男まで頷いた。


「正人さ」


 ハルシャがビールを煽る。


「ちゃんと言った方がいいぜ」


「束縛きつくて息苦しいって」


「えぇ……」


「ハルシャさんはどうなんです?」


「私?」


 ハルシャは隣の定男を見る。


「こいつがこんなんだからな〜」


「少しは外で遊んでこいって思う」


「ぼ、僕無理だよぉ……」


「まあそこが可愛いんだけどな」


 ニヤつく。


 その視線には、

 確かな愛情があった。


 だから正人は、

 少しだけ羨ましく思った。


 そして。


「じゃあ俺、帰ります」


「おう。またな」


「気をつけてねぇ」


 カラン――


 ドアベルが鳴る。


     ◆


 マンション。


 ドアを開けた瞬間。


 正人は悟った。


(あっ……やばい)


 空気が冷たい。


 物理的に。


 五度くらい低い。


 ソファには刹那。


 無表情。


 だが。


 目だけが冷えている。


「た、ただいま」


「……おかえり」


 声が低い。


 怖い。


「楽しかったみたいね」


「えっと……」


「淀川夫婦と」


 刺々しい。


 完全に刺々しい。


「ご、ごめん……!」


「明日どっか行こう!?」


「ふーん」


 刹那は頬杖をつく。


「その人たちと遊べばいいじゃない」


「いや刹那と行きたいんだって!」


「ふーん……」


 冷たい。


 めちゃくちゃ冷たい。


 正人が冷や汗を流していると。


 部屋の隅から、

 ひょこっとエリュアールが顔を出した。


 そして手招き。


「ちょっと」


「え?」


「こっち」


 廊下へ連れていかれる。


 エリュアールは、

 呆れた顔で言った。


「まずいよ。あんた」


「何が?」


「刹那のこと理解してない」


「えぇ……」


 エリュアールは指を折る。


「あんたにはさ」


「会社」


「友達」


「家族」


「いろんな居場所がある」


「でも刹那は?」


「……」


「あんただけなんだよ」


 正人の表情が止まる。


「刹那ってさ」


「自分と繋がってる世界が、

 もうほとんど“正人だけ”なの」


「だから依存する」


「執着する」


「当たり前なんだよ」


「……うん」


 正人は静かに頷いた。


 そして。


 リビングへ戻る。


 刹那はまだソファに座っていた。


 不機嫌そうに、

 顔を逸らしたまま。


 正人は隣へ座る。


 ゆっくり。


 刹那の手を取る。


「……ごめん」


 刹那の肩が小さく震えた。


「当たり前よ……」


 声が掠れている。


「私の気持ち……わかる?」


 簡単に“わかる”とは言えなかった。


 だから。


「……ちゃんと考えてなかった」


 正人は正直に言う。


「君の気持ち……」


「私には……」


 刹那が俯く。


「あなたしかいないの」


 その言葉は重かった。


 でも。


 嘘じゃない。


「こんな重い女にしたの……あなたなんだから……」


 ぽろり、と涙が落ちる。


「責任……取りなさいよ……」


 正人は静かに刹那を抱き寄せた。


「うん」


 その瞬間。


 ようやく。


 部屋の温度が少しだけ戻った。




 その時だった。


 テーブルの上に置かれていた正人のスマホが、不意に震える。


 ブルルルル――。


 画面に表示された名前を見た瞬間。


 正人の表情が固まった。


「……母さん?」


 その一言で。


 刹那の肩が、びくりと跳ねた。


 空気が変わる。


 さっきまでの穏やかな沈黙が、一瞬で張り詰めた糸へと変わっていく。


 正人は気づいていない。


 だが刹那だけは分かっていた。


 ――成川戮子。


 あの女は、“普通の母親”ではない。


 下手をすれば。


 自分を殺せる側の存在だ。


 正人は不思議そうな顔で通話ボタンを押した。


 なぜか無意識に、スピーカーへ切り替える。


「もしもし?」


 数秒の沈黙。


 そして。


『……久しぶりだねぇ』


 低い声。


 煙草と酒で焼けたような、しゃがれ声。


 その瞬間。


 刹那の喉がひゅっと鳴った。


 肩が小さく震える。


 顔から血の気が引いていく。


 正人は気づかない。


 だが刹那には分かる。


 ――捕食者の声だ。


 電話越しなのに。


 まるで背後に立たれているような圧迫感。


「う、うん。どうしたの?」


 努めて普通に返す正人。


 しかし。


 返ってきた言葉は、あまりにも唐突だった。


『明日、お前んとこ行くから』


「……えっ?」


 思わず、正人は刹那を見る。


 刹那は黙っていた。


 だが。


 ほんのわずかに頷く。


 ――いいわ。


 ――逃げても意味ない。


 そんな覚悟を決めたような目。


「う、うん。わかった」


『ああ』


 一拍。


 そして。


 電話の向こうで、戮子が笑った気配がした。


『そこにいるんだろ?』


 ドクン――。


 刹那の心臓が大きく跳ねる。


 冷や汗が背中を伝った。


 見えている。


 この女には。


 何もかも。


『会えるの、楽しみにしてるよ』


 ブツッ。


 通話が切れる。


 静寂。


 エアコンの駆動音だけが、やけに大きく聞こえた。


「……」


「……」


 正人と刹那は、無言のまま顔を見合わせる。


 だが。


 抱えている“不安”は、まるで別物だった。


 正人にとっては。


 “彼女を母親に紹介する緊張”。


 普通の男なら誰でも感じる程度のもの。


 しかし刹那にとっては違う。


 あの女は。


 自分の過去を知っている。


 自分の血を知っている。


 自分が何者かを知っている。


 そして。


 必要なら、迷わず殺せる側の存在だ。


 刹那の顔が沈む。


 静かに。


 ゆっくりと。


 処刑台へ向かう人間のように。


 すると。


 正人が、そっとその手を握った。


 温かい手だった。


「……大丈夫だから」


 優しい声。


 何の疑いもない声。


 刹那は、その横顔を見る。


 この男は知らない。


 自分の母親が。


 どれほど危険な存在なのか。


 そして。


 今、自分の隣にいる女が。


 どれほど危うい場所に立っているのかを。


「……うん」


 刹那は小さく頷く。


 だが。


 その声はかすかに震えていた。


 ――不安の種類が違う。


 母の正体を知らない息子。


 恋人の母の正体を知っている彼女。


 同じ“明日が怖い”でも。


 見えている地獄の深さが、違いすぎた。



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