第45話 化け物の家
昭和三十九年――四国中央部、山中。
夜霧を裂きながら、二つの影が木々を蹴って駆けていた。
黒装束。
一人は男。
一人は女。
息は荒い。
背後からは、山そのものが追ってくるような圧。
「くそっ……十人いたのに……」
男が血を吐くように呟く。
「もう俺たちだけ――」
「黙って走れ」
女が鋭く遮る。
その声に、男は唇を噛む。
月光が枝葉の隙間から差し込む。
その瞬間。
二人の前方。
木々の上に――“それ”は立っていた。
白銀の髪。
月光を弾く白い肌。
長い耳。
神話の女神のような美貌。
だが。
その瞳だけが、凍てつくほど冷たい。
生き物を見る目ではない。
虫でも見るような目。
女は双剣をゆっくり構えた。
「返しなさい。」
静かな声。
だが山が震える。
「鍵、持ってるでしょ?」
黒装束の二人が止まる。
殺気。
肺が潰れそうな圧力。
女は口角を吊り上げた。
「今返せば――」
一拍。
「楽に殺してあげる」
――ゾクリ。
視界が裂けた。
殺気。
瞬間。
刃。
ギィン――!!
火花。
空気が爆ぜる。
振り下ろされた手刀を、紙一重で避ける。
そのまま首筋へ。
止まる。
あと一ミリで頸動脈を断ち切る位置。
静止。
空気が凍る。
目の前。
敦子が冷や汗を流していた。
ぽたり。
汗が床へ落ちる。
震える声。
「……いつも言ってるじゃない……」
「昼間っから焼酎飲んで、寝タバコするなって……」
成川戮子は、ゆっくり目を開けた。
その視線だけで、敦子の呼吸が止まる。
灰皿。
煙草が今にも落ちそうになっていた。
あと数秒で床に落ちていた。
つまり。
家が燃えていた。
だが。
戮子は、まるで気にしていない。
「ふん」
大きく煙を吐く。
「惜しかったねぇ」
その瞬間。
ズパァン――!!
背後。
数メートル先の壁が、音もなく斜めに裂けた。
切断。
敦子の顔が引きつる。
戮子は一度も後ろを見ない。
まるで当然のことのように、煙草を咥え直す。
昭和の匂いが残る台所。
木目の食器棚。
黄ばんだ換気扇。
古いシンク。
ビーズ暖簾がしゃらしゃら揺れていた。
その中心。
ヒョウ柄シャツに黒レギンス。
パンチパーマ。
どこにでもいそうな六十過ぎのおばちゃん。
だが。
空気だけが異常だった。
刹那は、一歩も動けない。
本能が理解している。
――勝てない。
絶対に。
この女だけは。
触れてはいけない。
魔力が震える。
背筋を嫌な汗が流れる。
まるで山そのものが意思を持ってこちらを見ているような威圧感。
それなのに。
戮子は煙草をふかしながら言った。
「で、その娘かい」
刹那の視線が上がる。
戮子と目が合う。
瞬間。
心臓が止まりかけた。
目の前の女。
パンチパーマ。
ヒョウ柄。
焼酎臭い昭和のおばちゃん。
なのに。
その眼だけが違った。
山の夜気を思わせる冷たさ。
獲物を追い詰める狩人の眼。
その瞬間。
刹那の背筋に、理由のわからない悪寒が走る。
――知っている。
ありえないのに。
初めて会ったはずなのに。
この眼を、どこかで見た気がした。
刹那の指先が、わずかに震えた。
だが戮子は、ただ不敵に笑った。
「まあ座んな」
敦子がようやく息を吐く。
「母さん……ほんと殺す気だったでしょ……」
「当たり前だろ」
ケロリ。
「不意打ちでも私を倒せたら、正人を好きにしていいって約束だったじゃないか」
「だからって毎回本気で迎撃しないでよ!」
「手ぇ抜いたら死ぬだろ。」
当然のように言う。
敦子は頭を抱えた。
「この親ほんと最悪……」
刹那だけが笑えない。
今の一瞬。
敦子がどれほど速く動いたか、刹那には理解できた。
その敦子を。
寝起きで。
煙草を吸いながら。
戮子は視線だけで制圧した。
化け物。
そんな言葉すら生ぬるい。
戮子は、椅子へどっかり腰を下ろす。
ギシリと木椅子が軋む。
「で?」
煙を吐く。
「うちのバカ息子を誑かしたのは、お前かい?」
刹那の喉が鳴る。
逃げたい。
本能が叫ぶ。
だが。
ここで逃げれば終わる。
正人を失う。
それだけは嫌だった。
だから刹那は、震える膝を押さえ込む。
ゆっくり頭を下げた。
「……篝月刹那です」
戮子が笑う。
その笑みは。
獲物を見つけた猛獣そのものだった。
「へぇ……」
「やっと見つけたよ」
空気が凍った。
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