第44話 笑顔のあとで、扉は開く。
刹那と敦子の視線が、静かに離れる。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
「……なんか、お腹すいたわね」
敦子が、ふっと肩の力を抜いた。
何事もなかったかのように。
正人を見る。
「ケーキ買ってきて」
命令だった。
「うん、いいよ」
正人は、あっさり頷く。
「じゃあ、ここから四駅先にいい店あんのよ」
スマホを操作しながら続ける。
「そこのが食べたい。住所は送るから」
「えっ、そんな遠く……この辺で良くない?」
当然の疑問。
だが。
「女子が三人もいるのよ?」
にこり、と笑う。
反論の余地はない。
「買ってきて」
刹那が、静かに言う。
エリュアールも、無言で頷いた。
「母さんには、お見合いの件……うまく言っとくから」
敦子が、両手を合わせる。
「ね?」
拝むような仕草。
だが、その目は笑っていない。
「……仕方ないな」
正人は頭をかく。
「けっこう遅くなるぞ?」
「うんうん、いいよ」
軽い返事。
それが――最後だった。
◆
玄関の扉が閉まる。
カチャリ。
その音が、妙に大きく響いた。
沈黙。
数秒。
そして。
敦子が、ゆっくりとエリュアールを見る。
「ねえ」
笑顔。
「今日は、飲みたい気分なんだよね」
財布を開く。
万札を、数枚抜き出す。
「外人さん、お酒買ってきてよ」
「えっ、私!?」
自分を指差すエリュアール。
「うん、あなた好きでしょ?」
ひらり、と札を差し出す。
「好きなの買ってきて。お釣りは好きにしていいから」
ウインク。
「刹那ちゃんと、ゆっくり話したいの」
一拍。
「……空気、読んでくれると嬉しいな」
にこり。
断れない。
「やったーーーー!!」
エリュアールは、満面の笑みで札を掴む。
そのまま駆け出した。
玄関へ。
「……あの子、ギャンブルしてくるわよ」
刹那が、ぽつりと呟く。
だが。
敦子は、答えない。
――興味がない。
バタン。
足音が遠ざかる。
タタタタタ……。
消える。
完全に。
その瞬間。
空気が、変わった。
◆
「――てめえ」
低い声。
先ほどまでの柔らかさは、欠片もない。
「兄さんに、何しやがった」
敦子が、立っていた。
笑っていない。
目が、冷たい。
完全に別人。
刹那は、黙っている。
「なんで」
一歩、近づく。
「魔眼なんか持ってんの」
吐き捨てる。
「あれ、どこの誰がばら撒いてるか……知らないわけないでしょ」
沈黙。
刹那は、ゆっくりと頭を下げた。
「……申し訳ありません」
深く。
逃げない。
「あんた、何なのよ」
腕を組む。
「呪いまでかかってるし……」
舌打ち。
「最悪だわ」
一拍。
「誰から?」
短く問う。
「……盲です」
その瞬間。
「……っ!」
敦子の顔が歪んだ。
「くそっ……なんであいつらが……」
頭を押さえる。
「私の呪いを緩和する対価として……」
刹那が続ける。
「彼に、契約を……」
「……あんたが仕向けたの?」
鋭い視線。
「いいえ」
即答。
「彼の選択です」
そして、再び頭を下げる。
「……申し訳ありません」
沈黙。
数秒。
やがて。
敦子は、大きく息を吐いた。
「……はあ」
スマホを取り出す。
「そういうことか」
タップ。
「――母さん」
回線は、すでに繋がっていた。
スピーカーに切り替える。
ノイズ。
そして。
『……盲かい』
女の声。
低く、重い。
『なら……不幸中の幸いだね』
ぞくり、とする響き。
『力を使わなきゃ、どうにでもなる』
「で、この子」
敦子が、刹那を見る。
「どう思う?」
短い沈黙。
「私と同じくらい……か、少し上」
淡々と答える。
「でも、母さんほどじゃない」
一瞬。
刹那の瞳が揺れた。
『……なるほどね』
電話の向こうで、笑う気配。
『連れてきな』
空気が、凍る。
「いいの?」
『いいさ』
即答。
『最終的には、爺さんが決める』
「……わかった」
通話が切れる。
静寂。
その直後。
――空間が歪んだ。
床に、魔法陣が展開される。
じわり、と。
赤黒く。
脈打つ。
そして。
“扉”が現れた。
それは――
扉ではない。
肉だった。
臓器だった。
蠢き、脈打ち、揺れている。
生きている。
呼吸している。
ありえない存在。
ゆっくりと、開く。
ぬめりとした音を立てて。
奥は――見えない。
「……来てもらうよ」
敦子が言う。
その声は、静かだった。
逆らえない。
絶対に。
刹那の手を取る。
強く。
逃がさないように。
そして。
二人は、その向こうへと――
消えた。
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