表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/45

第31話 境界の向こうに、あなたがいる。

 ――その週の土曜日。


 朝。


 キッチンに、小さな歌声が満ちていた。


 刹那は鼻歌を口ずさみながら、手際よく弁当を詰めていく。


 サンドイッチ。おにぎり。唐揚げ。

 彩りよく並べられていくそれは、まるで――


 “誰かと過ごす未来”を詰め込んでいるみたいだった。


「お〜、うまそう」


 カウンターに肘をつき、エリュアールが覗き込む。


 ついでとばかりに、唐揚げをひとつつまみ食い。


「……行儀悪いわよ」


 軽く睨む刹那。


 けれどその声に、棘はない。


「いいじゃんいいじゃん。感謝してよ〜? あれ、結構大変だったんだから」


「はいはい。ちゃんと報酬は払ったでしょ」


 淡々と返しながら――


 刹那の手が、ほんの一瞬だけ止まる。


「でも、その分は完璧よ」


 エリュアールは、にやりと笑う。


「半径150メートルの結界。この中なら、あんたの“傀儡化の呪い”は緩和される」


 ――150メートル。


 電柱、四本分。


 ほんの少し歩けば、終わる距離。


 でも。


 その外は、“自分でいられない世界”。


「……うん。わかってる」


 刹那は、静かに答える。


 弁当箱の蓋を閉める音が、やけに大きく響いた。


「おはよう……」


 寝癖のついた正人が、眠たげに顔を出す。


 その無防備な姿に、刹那の胸が少しだけ緩む。


「おはよう」


 何気ないやり取り。


 何気ない朝。


 ――それが、どれほど奇跡に近いものかを。


 刹那だけが、知っている。


 軽く朝食を済ませて。


 二人は、近くの公園へ向かった。


 初夏の風が、やわらかく肌を撫でる。


 木陰のベンチ。


 正人はTシャツにジーンズ。


 刹那は、レトロな緑の襟付きワンピース。


 揺れるスカートの裾と、白い肌。


 その姿に――正人は、思わず見惚れていた。


「ふふっ、どうしたの?」


「え、いや……その……」


 慌てて目を逸らす。


「ほら、いつもセーラー服だったからさ」


「……似合う?」


 少しだけ、試すように。


「うん。かわいいっていうか……」


 一瞬、言葉を選んで――


「きれいだ」


 刹那の時間が、止まる。


「……ふふっ」


 小さく笑う。


「そういうことも、言えるようになったのね」


 嬉しさと、くすぐったさと。


 ほんの少しの――怖さ。


 沈黙。


 風が吹く。


 木漏れ日が揺れる。


 少しだけ、ひんやりした空気。


 でも、それが心地いい。


「……もう一度」


 刹那が、ぽつりと呟く。


「こうやって、日の当たる場所に出られるなんて……思ってなかった」


 その言葉に。


 正人は、ただ頷くことしかできなかった。


「うん」


 それだけで、精一杯だった。



「あのさ」


 正人が、ふと思いついたように言う。


「キャッチボール、しない?」


 取り出したのは、グローブとボール。


「こういうの、誰かとやってみたかったんだ」


「え……でも……」


 刹那の視線が、わずかに揺れる。


 ――150メートル。


 ここは、その“境界”のすぐそば。


「大丈夫だよ、この辺なら」


 正人は何気なく言う。


 だが刹那は――


「いや、その……」


 言葉を濁す。


「ああ、そっか。日に焼けるとシミとか気になるよな」


「……はぁ」


 思わず、額を押さえる。


「ほんと、そういうとこよ……」


 でも。


「……いいわ。やりましょ」


 小さく笑った。


「あーあ……なんでこんな人、好きになっちゃったんだか」


 肩を震わせながら。



 ボールが、空を描く。


 正人は、取りやすいように優しく投げる。


「経験ある?」


「ないわよ」


 そう言いながら。


 刹那の投球は、正確にグローブへ収まる。


 ――パンッ。


 小気味いい音。


「すごいな、経験者みたいだ」


「手裏剣と同じよ」


「……物騒だな」


 思わず笑う正人。


 その笑顔を見て。


 刹那は――少しだけ目を細める。


「ねえ、正人」


 ボールを構えながら、刹那は言う。


「いつか――」


 ほんの一瞬、言葉を選んで。


「家族で来て、こうやって投げてあげてね」


「……え?」


 正人の手が止まる。


 次の瞬間。



 ――ボールが大きく逸れた。


「あっ、ごめん!」


 ボールは転がっていく。


 刹那の後ろへ。


 そして――


 境界の向こうへ。


 刹那は振り返る。


 足が、止まる。


 ――動けない。


 そこから先は、“外”。


「取ってくる!」


 正人が走る。


 その背中が、遠ざかる。


 たった、十メートル。


 それだけの距離なのに。


 どうしようもなく、遠い。


(ああ……)


 見える。


 声も届く。


 手を伸ばせば、触れられそうで。


 でも。


 絶対に、越えられない。


 その現実が。


 ゆっくりと、刹那の胸を締めつける。


(私は――)


 普通じゃない。


 隣に立てる存在じゃない。


 同じ場所に、いられるだけの存在。


 それ以上には――なれない。


「ごめん、取れなかった」


 正人が戻ってくる。


 息を弾ませながら。


 何も知らない顔で。


「……ううん」


 刹那は、笑う。


 完璧な、いつもの笑顔で。


「いいの。取れなくてよかったのかも」


 ――これ以上、知りたくないから。


「ね」


 弁当を持ち上げる。


「そろそろ、お昼にしない?」


 現実から、目を逸らすように。


 それでも。


 この時間を、守るために。




☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。


評価ポイント、ブックマーク登録 していただければ、励みになります。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ