第29話 彼女と呼んだ朝と、雨の中で待つ君
次の日――。
湯気の立つ味噌汁の香りが、静かな朝の空気を満たしていた。
テーブルには、ご飯、味噌汁、卵焼き、納豆。
どこにでもある、だけどどこか――帰ってきたくなるような朝食。
「「「いただきます」」」
三人の声が、ぴたりと重なる。
その一体感に、ほんの一瞬だけ――正人の胸が温かくなった。
「うん、いいわね。でもさ〜」
箸を持ちながら、金髪の居候――エリュアールが味噌汁を啜る。
「私、赤味噌のほうが好きなんだよね〜」
異世界から来たエルフは、遠慮なく文句を言う。
だが――
「仕方ないでしょ。正人の家は白味噌なんだから」
納豆を丁寧にかき混ぜながら、刹那が淡々と返す。
その声音は自然すぎて――
まるで、何年も一緒に暮らしている“妻”のようだった。
(……いや、なんでそんな馴染んでるんだよ)
正人は苦笑しながら味噌汁を口に運ぶ。
「これ、美味しいな。なんか……ほっとする」
「……そう」
刹那の手が、ほんのわずかに止まる。
次の瞬間には、何事もなかったように動き出していたが――
その頬は、ほんのり赤い。
「卵焼きもさ、なんで甘くないのよ。なのに醤油が妙に甘いって、どういうバランスなの?」
エリュアールは相変わらず文句を言いながら、箸が止まらない。
「意味不明だわ」
「いいじゃん。これ、実家の味に近いよ」
正人は笑う。
その言葉に――
「……そう。喜んでくれて、うれしいわ」
刹那の表情が、ふっとほどけた。
その笑顔は、ほんの一瞬なのに――妙に胸に残る。
「あ、そうそう――はい」
食後、刹那が四角い包みを差し出す。
「いつもありがとう。これ、弁当」
「お、サンキュ」
「職場でね、よく聞かれるんだ」
正人はさりげなく言う。
「“誰が作ったの?”って」
「へぇ」
エリュアールがニヤニヤする。
「で、なんて答えてるの?」
「そ、その……彼女がって……」
正人は視線を逸らしながら言った。
一瞬、空気が止まる。
「……そ、そう」
興味なさげに返す刹那。
だが――
(……心臓、うるさい)
内側では、鼓動が跳ね上がっていた。
――“彼女”。
その言葉が、何度も何度も反響する。
逃げ場もなく。
「あんたにもね」
刹那はエリュアールにも包みを渡す。
「あ、ありがと」
「エリュアールも仕事始めたのか?」
「バイトよ」
意味ありげに笑う。
「楽しみにしててよ」
その視線は――どこか、獲物を見るようだった。
正人は気づかない。
だが刹那だけは、気づいている。
視線を落としたまま、刹那は黙り込んだ。
――夕方。
正人は走っていた。
「くそっ、なんだよ急に……!」
駅前を出た瞬間、空が裂けたように雨が降り出した。
最初は小雨だったのに――
今は、叩きつけるような豪雨。
スーツはすでにびしょ濡れだ。
(あとちょっと……!)
マンションまで、あと200メートル。
電柱三本分。
もう見えている。
――その時。
視界の中に、ひとつの影。
歩道に立つ少女。
黒髪、セーラー服。
傘を差して――
「……え?」
正人の足が止まる。
「刹那……?」
彼女は動かない。
まるで――そこから一歩も動けないかのように。
ただ、じっと。
正人を待っていた。
雨の中を、正人はゆっくり近づく。
心臓が妙に騒ぐ。
「せ、刹那……なんで」
「はい」
彼女は一歩、踏み出した。
そして――
自然な動作で、傘の中に正人を入れる。
距離が、ゼロになる。
「おかえりなさい」
タオルが差し出される。
「あ、ありがと……」
沈黙。
雨音だけが、世界を埋める。
「驚いたのはこっちよ」
刹那がぽつりと言う。
「あなた、傘一本しか持ってないのだから」
「いや、普通そうだろ……」
「でも、いいものね」
ふっと微笑む。
「初めてよ。誰かと相合い傘したの」
その言葉に、正人の胸が跳ねる。
「……うん」
「もっと寄らないと、濡れるわよ」
――ぎゅっ。
刹那が、正人の手を握る。
冷たいはずの手が――妙に熱い。
「っ……」
(近い……!)
距離が近すぎる。
息がかかる。
香りがする。
「そのさ……」
正人は思わず口を開く。
(なんで……フィギュア化してないんだ?)
本来なら、彼女は“戻る”はずだ。
なのに――ここにいる。
理由を聞くべきだ。
でも。
「何?」
刹那の一言。
その瞳。
逃げ場がないほど、真っ直ぐで。
(……今じゃない)
そう思ってしまった。
「いや……なんでもない」
「……そう」
少しだけ、寂しそうに。
でもすぐに、微笑みに戻る。
「あのさ」
正人が言う。
「少し寄り道、しない?」
「この近く?」
「うん。この前、エリュアールと行った喫茶店」
刹那の眉が、わずかに動く。
「……へぇ」
ほんの一瞬の沈黙。
だがすぐに――
「いいわね。何がおすすめなの?」
いつもの調子に戻る。
「オムライスとナポリタン」
「夕ご飯、下準備終ってるんだけど」
「じゃあ、コーヒーだけでも」
刹那は顎に手を当てて考える。
――数秒。
「……じゃあ、少しだけ」
ふわりと笑った。
こうして。
雨の街の中で。
喫茶店へ向かう二人。
世界は騒がしくて。
危険も、嘘も、秘密もある。
けれど今だけは――
ただ、静かで。
ただ、穏やかで。
ただ、二人だけの世界だった。
――その“平穏”が、
どれほど脆いものかも知らずに。
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