第19話 切られた堰
逃げ切れなかった圧の中、追いつかない状況を整理するのに数秒。
すり寄られたことで押し倒されたのだと理解しては、慌ててシウォンの胸を跳ね除けようともがく。
が、密着した身体はびくともしない。
「あだだだだだだぁっ!!」
それどころか、泉が頑張った分だけ、傷を抱える右手の痛みが増していく。
とりあえず、包帯巻きの手を避難させ、ほっと一息つく――間はなかった。
キッと涙目で睨んだのとほぼ同時に、宥めるような口づけが目元に落とされる。
「!?」
何がどうなったらこうなるのか、さっぱり分からない泉は、答えを求めるべくシウォンを見た。これを受け止めた表情は、華が綻ぶような艶やかさを纏う。
「つまり、順序を踏むべきだった訳か……」
「はぃ!?」
勝手に何かを納得するシウォン。
全く持って理解できない泉は、とにもかくにもこの状態から脱するべく身を捩る。
だが、抜け出た左手はシウォンの右手に取られてしまった。
しかも触れ方が優し過ぎて落ち着かない。
なので、顔をそちらへ背け――途端、柔らかな感触が右の首筋を撫でた。
その意味に全身の毛が逆立つ。
決して悪寒だけではない、対処の困るソレへ強く目を瞑れば、端に涙が滲んだ。
「ああ……すまない」
すると酷く気弱な謝罪が届く。
離れた涼しさに顔の位置を戻せば、戸惑う微笑がそこにはあった。
「し、シウォンさん?」
伺うように名を呼べば、鮮やかな緑がくるりと揺れる。
そして、時を置かず、告げられた。
「好きだ、泉」
(は…………………………はいぃ!?)
押し倒された状況では相手の正気を確かめることもできず、心の中だけで叫ぶ泉。
呆気に取られつつも、次第に赤くなる顔は決して気のせいではないだろう。
混乱する泉を余所にシウォンはなおも言い募る。
「生涯、俺に添うてはくれまいか。常にお前を感じていたいんだ。……厭きのないお前の姿を見つめていたい。安らぐお前の香りを抱きたい。滑らかなお前の肌を味わいたい。触れるお前の鼓動が愛おしい。焦がれて止まない唇から紡がれる、吐息のような言葉の数々を聞き続けたい――でき得るならば」
再度近づく顔に、慌てた泉は顔を逸らす。
艶かしい動きを素肌に感じつつ、悲鳴の如き声を上げた。
「し、シウォンさんっ!? じゅ、順序はどうしたんですか、順序はっ!? それに、こういうのは、普通、了承を得てからとか、そういうモノがあって然るべきで!!」
「了承……? この期に及んでおかしなことを言う奴だ。そんなモノ、とっくに得ているだろう? 何せ俺はお前を好いていて、お前も俺が好きだと言ったんだ。好き合う者同士、想いを告げ合えば、後に来るものは決まっているだろう?」
心なし、シウォンの呼気が荒い。
相まった語り口には、熱が籠められており、切なげな響きをもたらしている。
だが、やっていることは、どこまでも俗物的。
雰囲気があれば良い――という話でもないが、性急にコトを始めようとする動きは危険である。大体、百歩譲って、シウォンが泉を嫌ってなかったとしても、この状況は突拍子がなさ過ぎた。
そのため、ある結論が泉の中で弾き出される。
(シウォンさん、酔っ払ってる!?)
人狼時はさておき、人間に似た昼の姿の時には似ても似つかないランの姿がシウォンに重なった。耐え難い痛みを受けると、人狼の体内ではアルコールに似た麻酔成分が生成されるという。ランと違い、シウォンは酒に強そうに見えるが、怪我の度合いが昨日のラン以上に酷い。
で、あるならば。
「は、早まらないでください! シウォンさん、絶対後悔しますよっ!?」
もがきつつ力説する泉。
酒の勢い、などという話はよく聞くが、これを身に被った者は、フィクションであれ、ノンフィクションであれ、目が覚めては洒落にならない状況に陥るのが常。
酔っ払った憶えのない泉なら、尚のこと、現状は回避したい事象であり、
「ほ、ほら、私って、シウォンさんの好みじゃないでしょう? 齢だって、身体つきだって!!」
思い起すのは、クイとレンの妖艶さ。
あんな女たちを囲うシウォンを考えれば、泉など足元にも及ばない――と自分で思いながら、ちょっと傷つく。
こうなったら、とことん堕ちるトコまで堕ちてやると意地になり、
「それにっ!! わ、私……私、私っ、ふ、ふふふふふ太ってますしっ!!?」
思いっきり地雷を踏みしめた。
涙目にまでなった告白。
対し、シウォンは答える。
「だからどうした? 好みなぞ、真実欲しい相手の前では無力だ。それに、俺は言ったはずだ。お前は軽いくらいだと」
不発……!
低く甘い吐息の前では、自爆技すら通用せず。
またも思い起すのは、泉の身体を軽々運んで見せた、人狼であるシウォンの行動。
(……よ、よくよく考えてみれば、人狼相手に人間の体重なんて、全部軽いんじゃないのっ!?)
今更気づき、礼まで言った自分を泉は詰った。
がっくりする心に併せて力が抜ければ、ほぼ同時に頬へ落とされる唇。
「ひぇっ……し、シウォンさん、ストップです! それに私、強引なの嫌って!」
「ああ、分かっているさ。安心しろ、泉。手荒な真似はしないと誓ってやる。他の誰でもない、お前自身に」
「ひゃっ」
宥めるような口づけが幾度となく落とされ、大きく逸らした首元へ、シウォンの顔が埋まる。
「やっ……くっ……っ!」
這い上がる熱から息が切れ始め、苦悶を浮かべた瞳が緩く閉ざされた。
声を殺していた唇から、呼気とは違う音が漏れ始め――
矢先。
「ぐっ」
くぐもった声と共に上の重みが浮いた。
逸る鼓動を抑えて顔の位置を戻せば、丁度真上に表情を歪ませた美丈夫が、
「い……ずみ」
左手を掴むシウォンの右手が、絡みつく強さを持つのに乗じて、ゆっくり泉へと影が落ちる。脂汗を浮べたその顔は、やけに色を増して見えた。
それはまるで、本当に求められているような錯覚を泉に与える。
「…………」
魅入られて動けぬ泉の唇が、鮮やかな緑の注視に震えた。
迎え入れるようでありながら、その実、泉の内はいけないと叫び――




