第17話 おもいおもい
――心が定まらない。
暗さと狭さ、記憶にある痛みと、死。
呼吸を乱れさせるソレらは、何一つ、穏やかに語れるものではない。
ようやく見出した光さえ、坂の上にあっては遠く感じる。
踏みしめる一歩が重い。
その中で救いがあるとすれば、シウォンが大人しく腕を預けてくれている点か。
先ほどの話で知った、泉の負担を嫌い、離れようとしていたシウォン。気遣いとも取れる行動は、普段ならありがたいところだが、彼の腕の重みがあるからこそ、泉は歩けるのだ。
でなければ、もう、体力的にも精神的にも、動けはしまい。
竹平の安否は気にかかるものの、穴に落ちる直前見たワーズの姿のお陰で、幾らか明るく考えられた。
彼は……優先されるから。
真実、人魚に狙われているのは竹平であり、泉は付属品程度。現に、こうして落とされてしまった身を思えば、泉の存在など人魚にとって大して重要ではなかったのだ。だからこそ、そんな自分の前にワーズが現れたのならば、竹平は無事で――
(……なんか、やだ。今の私……すっごい卑屈になってる)
もしくは、自分を貶めることで救われようとしている。
ワーズは等しく人間が好きという理由だけで、自分たちを探してくれていたのに。
彼の行動に順序があるなら、きっと優先されるのは、近い方。
そこに個は、たぶん、ない。
これが他の者であったなら、自分という個を認めて欲しいと思うのかも知れないが。
あの混沌の瞳に、不可解な声に、闇に隠れた耳に、唯一人が居るとは想像もつかなかった。誰彼構わず向けられる血色の笑みの先には、いつだって、全てしかない。
蔑み慈しむ、へらりとした笑いにあるのは、それだけ。
しかし泉は安堵する。
全て、ある。
ワーズが嗤いかける泉も、確かに在ると、全ての中に在って良いのだと思えて。
確信できて。
「会いたい、な……」
ぽつりと呟いた。
口にした分、足に力が宿る。
会えば全て上手くいくなんて幻想、抱けるような可愛げはないけれど。
息をするため、身体が酸素を自然と求めるように。
黒一色の男の姿を、そのいい加減な笑みを渇望し――
突然、シウォンの身体がぐらりと大きく傾いだ。
「とぉっ!?」
合わせて泉も共に倒れる。
慌てて背負った腕を用い、シウォンの身体を引っくり返した。
肘から先のない左腕を踏まぬよう気をつけつつ、仰向けになった身へ覆い被さり、シウォンの顔色を伺う。
合わせ、背後から泉へと近づくシウォンの右手。
「シウォンさん!?」
死角から触れられた首に驚きはしたものの、
「……もしかして、眠いんですか?」
躊躇わず、シウォンの頬をぺちぺち叩いた。
すると、眉が思いっきり顰められ、泉は困惑に己の頬を掻く。
「……ええと、気づいてないんですか? 姿、変わってますよ? 人狼って夜行性だって言うし……そういえば、寝不足だとも言ってましたよね、シウォンさん。大丈夫ですか?」
人間の姿から人狼へ変わるのは見たが、人狼から人間の姿へ変わるのは初めてだった。
どちらの変化にしても、瞬きの間のことらしい。
不思議である。
どさくさに紛れて、美丈夫の頬を軽く抓ってみた。
益々眉間に皺が寄れば、調子に乗り過ぎたと反省し、お詫びの印と頬を擦る。
先ほどまでは、毛並みの良い犬を撫でている感触だったのに、今はしっかり人間のモノ。
これにより、今までより明確な体温の上昇を感じ取った泉。
再度シウォンへ声を掛けようとし、
「ぅげっ!?」
首根っこからいきなり後ろへ引かれた。
些か乱暴に解放されたのは、首を掴み上げた右腕の横。
頭は打たなかったものの、一瞬でも絞められた喉が咳を呼んだ。
「だ、だにするんですかっ、シウォンさん! けほっ」
苦しい咳を数度繰り返していると、シウォンが大仰なため息を吐き出す。
「ちっ……できる訳がねぇ」
「な、何のお話でふっ、がはっ、ぐくっ」
「……黙れ。咳なら咳、喋るなら喋るで、どちらか決めろ…………ったく、何だってこの俺が、こんな色気の欠片もねぇ小娘なんざ」
「わ、悪かったですね、色気なくてっ!」
投げやりに言われたなら、カチンと来るモノもあるが、相手は重傷人。
ぐっと堪えて、支えるための手を差し出せば、今度はぞんざいに払われてしまった。
こうなると、だいぶ加減された威力を鑑みる余裕はない。
元より、泉の精神は一杯一杯だった。
――ので。
「いい加減にしてよっ! 重傷だからこっちは気を使ってんのに、ちょっとくらい察しなさいよね! そりゃあ、あなたの周りには、色んな女の人がいて、そういう扱いでもきゃーきゃー騒がれてるんでしょうけど!? 私はそういう人たちとは違うの! 心配してるのに、こんな目に合うなんて! 人を馬鹿にするのも大概に」
「……心配?」
嘲笑混じりの鸚鵡返しがやけに響く。
息を呑むように言葉を詰めれば、右手で顔を覆ったシウォンがクツクツ嗤う。
「馬鹿に、か?……ああ、そうだ。馬鹿にしてるな? お前も……その喋り方はなんだ? ヒステリックに叫んで。その先は……結論を、出してやろうか? お嬢さん」
「何を」
口調に関してはぐぅの音も出ない泉。
うっかり感情のまま喋ってしまった羞恥を隠すべく、強めに睨みつければ、
「もう頼まれたって肩は貸さない、勝手にしろ……だろう?」
「……はい?」
思ってもみない言葉が返ってきた。




