第16話 ”彼女”の昔語り
誰もが寝静まった深夜、彼女の腕を取ったのは引き取った親戚の男だった。
乱暴に抱き締められ、呼ばれた名は、彼女ではなく男の伴侶のモノ。
酔っ払っていると察し、間違いを訂正しつつ逃れようともがく。
しかし、男は全く気づかない。
迫る唇は頬に避けたものの、手を緩めずそのまま首元へと降りていき――
怖い。
そう思った。
どれだけ足掻いても、男と同じく酔い潰れた大人は誰一人起きず、男の子どもらも起きる気配がない。
重みを押しつけられて倒れたなら、身体を弄られて怖気が走った。
助けて!
叫びたい言葉は声にならず、詰まった音だけが喉を打つ。
次第に彼女の精神を蝕んでいく、一種の諦め。
どうせ自分はこの男に養われている身。
どうせ自分は助けなぞ望めぬモノ。
壊れるなら、壊れてしまえ。
誰かが内で囁く。
そうだ。
どうせなら、一緒に壊してしまおう。
酔い潰れた男を――男の娘である、あの子の家庭を。
羨ましいと、彼女を指してのたまう、あの子のことを。
そうすれば、もう、羨まれることもないのだから……。
抵抗を止めたところで、酔いの回った男は不審がる様子もなく、彼女の服へ手をかける。
もどかしいとばかりに、ボタンが引っ張られた。
だが、男の凶行はそこで終わる。
綺麗な手が、男の手首を掴んで止めていた。
諦めた彼女の前で、静かな瞳が首を振る。
男の喚きすら霞む柔らかな声音で。
彼女はあなたの妻ではない、と。
すると酒で濁った目がこちらを向いて言う。
ああ、そうだったか。いや、すまない。
一人、頷き納得しては、どこかへふらふら去っていった。
突然のことに瞬きを数度繰り返す。
と、こつり、頭を叩かれた。
叩かれた箇所を押さえて見上げたなら、静かな瞳が言う。
諦めるな、抗え。
そうしたら、俺も、他の奴も、お前を助けてやれるから。
ふっと微笑む顔は、薄暗い中でも優しく響いた。
ふいに緩む涙腺。
嗚咽を殺して泣いたなら、ハンカチを差し出されてまた泣けた。
両親が死んでから、泣かなかった――泣けなかった自分を思い、涙が止めどなく溢れる。
幼子のように蹲って泣いても、彼はあやす素振りも見せず、立ち去る様子もなく。
ただ、黙ってそこに居てくれた。
堪えていた泣き顔を見られたせいか、気が緩んだ彼女は不平不満を饒舌に吐き出す。
それでも彼は、時折相槌を打って、傍に居続ける。
全て吐露したなら、時刻はすっかり明けの空。
早起きの女が泣き腫らした彼女を見て驚き、彼の頭を気安く叩く。
驚けば知る、彼の名前。
金森玲治――従兄弟の嫁の兄。
彼女の、初恋の、人。
* * *
砂浜に一人、膝を抱えて座り、昇り行く陽を見つめる。
姿を完全に取り戻せば青白く滲む陽。
しかし、この時間、朝日の時だけは、眩く白く輝く。
「……彼は名刺を置いていった。居辛くなったら来れば良いと。そして彼女は行ったの。彼を完全に信用した訳じゃないけど、親戚の男の下は怖くなってしまったから。ううん、あの男だけじゃなくて、全部、あの時ただ居てくれた彼以外の人間が、恐ろしくなってて」
ぽつりぽつり、呟く声は、ひび割れた唇のように嗄れ掠れていた。
「彼は彼女の父親の教え子だった。恩があると言って。彼の家には彼の他に母親が居て、彼は自分の家で塾の講師をしてて……楽しかった」
遠くを見つめる瞳は、濡れた黒髪の中でただ青く透き通り、別の場所を視る。
「でもある時、経営が苦しくなって、彼は選択を迫られたの。彼には裕福な幼馴染の女がいて、融資する代わりに結婚して欲しいってさ。作り話みたいよね。彼はそんなことできないと言ったのだけれど……生徒に慕われていたから、簡単に辞める選択もできなかった。しかも、悪いことって重なってしまうのね。彼の母親が病気になってしまった」
ため息が零れた。
痛む胸はあれど、これは自分のモノではない。
首を振って払う。
「初めて、彼女は見たの。男の人が泣くところを。それも自分の肩を借りて。彼の理想は彼女の父親だった。それなのに、上手く行かなかった。自分が情けない、あの人に申し訳が立たないって。初めて会った時、泣いた自分の傍に居てくれた彼が。彼女も、傍に居れば良かったの。何もせず、ただじっと、居れば良かったのに」
ふと、どうして自分は喋っているのだろうと考える。
聞いてくれるかも分からないのに。
それでも唇は動く。
「抱き締めて、自分の父親を語ってしまった。顔を上げた彼は彼女に問いかけたわ。こんな自分でもまだ良いのか、と。彼女は頷いて……でもね、思い始めたの。自分が傍にいたら、彼は理想に潰されてしまうって。丁度その頃、彼の生徒だった子と、一緒に応募した雑誌モデルが合格していたから……夜、近くの海に散歩と称して、彼を引っ張り出して。出て行くと、告げた」
目を閉じて浮かぶのは、途端に泣いてしまった彼女の視界。
強く掴まれた肩の痛み。
懇願と泣き言と罵声。
目まぐるしい変化に惑う。
「でも、彼女は出て行った。彼の生徒だったその子と。親友とまで位置づけたその子と……動かなくなるまで首を締め上げたその子と。後で、自分は彼に憧れていて、いきなり現れた彼女と少しでも引き離したくて、応募に誘ったと白状した、その子と」
ゆっくり目を開け、残った左手を見つめた。
瞳を焼く陽の光にも目を細めず、じっと、彼女の震えとその子の息遣いを感じる。
「そうして……シンに会った。先に声をかけたのは、彼女。澄ました顔をしながら、内側に何かを秘めた姿がよく似ていたから。彼にも……彼女にも。幾度か会って、恋人と呼べるところまで至って。彼女は自分の想いに終止符を打つため、彼に電話をしたの。そこで彼の母親が亡くなったのを知って、彼女は彼の家に行って。目に見えて憔悴した彼には胸が痛んだけれど、幼馴染がずっと傍に居たと知らされて。近況を話す内、彼女は恋人ができたと告げた。彼は驚いた顔をして……喜んで、くれた」
――はず、だった。
一つの想いしか知らない自分では、彼の想いを知ることはできないが、少なくとも彼女はそう思っていた。
「恋人の顔が見たいと言うから、シンを連れても行った。また、以前のように話せるようにもなって。仕事も順調で。でも、有名になった彼女にはストーカー被害が待っていた。俳優業で成功したシンには相談できず、彼に相談して。彼はシンに相談できない彼女へ苦笑しつつ、親身になってくれた。……本当は、別の人間に相談すれば良かったのかもしれない。でも、彼女は彼を頼り……ある日、彼は言った。結婚すると。胸を衝く痛みはあったけれど、彼女は言った。努めて明るく、おめでとう、と。しばらく沈黙があって、彼は礼を口にして」
その時彼女が描いた彼の姿に、喜びなぞ欠片もなかった。
だが、彼女は気のせいだと片付けた。
まだ残っていた淡い想いが都合良く解釈しただけと。
「彼が何か言いかける気配を感じて、彼女は先に言ったの。奥さんに悪いから、もう電話はしないと。茶化すように、そのまま通話を切った……それが最期とも知らずに」
原因は、飲酒による運転ミス、とニュースは伝えていた。
折しも忘年会シーズン。
彼を知っている者でも、そのせいだったと思うだろう。
酔い潰れた男から、彼女を助けた彼が、下戸だと知っていても。
時期柄の不幸な事故だった……と。
彼は母親の死を切っかけに塾を閉め、結婚相手の父親が経営する会社に、役員として迎えられていたらしい。そのせいもあって、勧められる酒を断り切れなかったのではないか、という声も在った。仮にも、一時は人にモノを教える立場だった人間が、法に触れる真似をするなど、と陰口を叩く声も。
葬式のざわめきが耳に遠く宿る。
「彼の車が崖から落ちて……先にあったのがあの海だと知った時、彼女は後悔に襲われた。本当のところは分からない。彼の気持ちも、電話口での気配も。でも、ね。シンとの関係が公になって、その子の首を絞める前、言われたの。アンタが先生を殺したんだって。上手く隠していたはずのシンとの交際、その子に匂わせたのは彼だって、聞かされて……アンタに関わった人間は碌な目に会わないってさ」
「……で、殺したのか。中々どうして、強かな女だったんだねぇ、かのえも」
ぷかり、浮かんだ煙が潮風に溶けていく。
凪海の波打ち際にしか吹かない緩やかな風は、先ほどからじっと語りを聞いていた鬼火の髪を揺らした。
「……どう思う、クァン? ううん、クァンはどうだった?」
ここに来て視界の中に姿を入れたなら、陽を見つめる空の瞳がすっと細まる。
「碌な目、ね? んなもん、要はてめぇの感じ方次第だろう? 少なくともアタシャ好きだったよ。……娘ができたみたいで、楽しかったし」
「…………妹、じゃないんだね?」
「……うっさい」
決してこちらを見ず、吸い口を強く噛み締めては唸るクァン。
苛立ちの中に照れを感じては、くすくす笑う。
「でも……そっか。そうだよね。……シンも、ね。クァンと似たようなこと言ってたの。全部語ったかのえに、それでも自分は好きだったって。たとえ誰を重ねていたとしても……殺されかけても」
「ああ、そういや、アタシも殺されかけたっけねぇ? ま、結局さ、何が遭っても何を思っても、変わらない想いは良くも悪くもあるもんさ」
冷ややかな眼差しが語る。
どこまでも穏やかな口調で。
かのえと同時に、別の存在を両の目に見つめながら。
「……かのえも」
つと海を見やった。
陽の光に視覚が覆われて苦笑する。
「かのえもどうせなら……クァンと話してから、逝けば良かったのに、ね?」
困ったような微笑みが、かのえの輪郭を保つ”彼女”を彩った。




