第13話 彼の言い分
最初にその姿を見た時、確かに食指は動かなかったが、娘の表情は眼に焼きついていた。
煤けた赤いソファに身を横たえ、黒いコートを掛けられた彼女の、安心しきった穏やかな笑み。頬の色は薄暗いことを差し引いても青ざめており、ともすれば骸のように質感が乏しい。
それでも、微笑みだけは温かく満ち足りていて――。
初めて見る類の顔つきは、酷く羨ましいモノであった。
己を狼首に掲げる群れに居ようとも、すんなり受け止められず、居心地の悪さを感じていたシウォンには、とても。
だから、というべきか。
娘が目覚めたという情報があっても、猫を操ると知らされても、再び赴く気にはならなかった。人間の小娘如きに羨望なぞ、幾度も感じたくはなかったのだ。
しかし、猫が群れ同士の諍いに介入したとなれば話は別。
シウォン自身は猫に歯向かっても殺されないが、群れの連中に同じ情けは在り得ない。
聞けば、死体は全て芥屋の取り分になったという。
せめて群れの奴らがどれくらい猫に殺られたのか、明確な数が知りたかった。
知ったところで死んだ者に対する思いなど、一片たりとも在りはしない。
ただ知れたなら、それを増す数で他を屠り、己の立ち位置を揺るぎないモノにしようと考える。猫が殺した数は問題にならぬと、誰よりも己へ示すために。
そうして店主を訪ねた芥屋で、遇う、意識外にいた姿。
正直、目を疑った。
困惑しかない、笑みのない、店主。
常に、嗤うだけの身を知っていた。
出遭いより一度として変わったことのない、乾いた嗤い。
満たされもせず、満たされたいとも感じていない、干からびたソレ。
だというのに、初めて見る戸惑いは、歪んでいてもあまりに無防備。
加え、これを引き起こしているのは、独りであるはずの店主へ自分から擦り寄る人間。
今まで、誰も、これほどまで近づく者はいなかった。
近づけた者は、誰一人――。
だからというべきか、こちらを見た店主は、ほっとした表情を浮かべた。
人間好きを豪語し人間以外を嫌う男の、無様な安堵が向けられて。
絶句する。
目を剥いている内に、店主が人間へこちらを理由に離れる仕草。
合った、瞳。
会釈したその娘は、初見の時より色づいた頬で。
惚けては、会釈されて返し……
自分に失望する。
人狼の、それも虎狼公社という群れを率いる狼首でありながら、脆弱な人間の小娘風情に、頭を下げるなぞ。
在ってはならぬこと。
半ば八つ当たり気味に猫を理由とし店主を弄ったが、アレの頑健さは気を晴らすに至らない。
しばらく、荒れた日々が続く。
しかし消え去らない、娘の姿。
店主を相手に激昂している内でさえ届いていた、軽やかに笑う甘い音色。
店主へと向けられる、柔らかな微笑。
呪われたように思い返してしまう。
ならば。
いっそ。
どうせ。
その内とは思っていたのだから。
相手は芥屋の従業員。
店主が庇護する人間の、たかだか一匹。
取り込めば良いだけの話。
……それだけの話だった、はずなのに。
弱気にも、誘う時では決して寄せつけない、同族の女を侍らせる。
まるで、自分に添うことの利点を示すが如く。
結果は拒絶。
小娘に頬を張られ。
それどころか、宿敵と定めた小僧に邪魔された挙句、娘が店主へ向ける信頼の厚さを知らされた。
だが、それ以上に。
絡めた肌の感触が身を震わせた。
毒を舐めたように痺れを起す舌が在り。
普段であれば、拒まれて終わるところを、無謀にも攫い。
同じく拒絶されても、交わす瞳と声が鼓動を逸らせる。
触れた身体が熱い。
嗅ぎ取る匂いの柔らかな甘さは、喰らうことよりも呑むことを望む。
信じ、られない。
信じてはいけない。
全ては猫がため。
そう思うことで己を保たせる。
なのに傷つけられたと知っては、己の傍に無い身が酷く恐ろしい。
右手の痺れが徐々に引いていく。
反し、胸の痛みは増していた。
紅珠玉の行使――
最上とされる紅皇珠の、粉とはいえ伴う反動は、自分で味わっても気が狂わんばかりだった。とするならば、珠玉のままの状態で他人の炎まで操った、人狼でもない人間の彼女が受けた反動たるや……。
考えるだけでゾッとし、そんな彼女のお陰で炎を免れた己の不甲斐無さに苛立つ。
アレを泉に付けさせたのは、飾りつけるためではなく、その身を守るためだった。
あの餓鬼に襲われた時、彼女はかんざしを身に付けていなかったらしい。水路に沈んでいたかんざしは、自然に落ちたか、彼女の意思で捨てられたか知れないが、例え後者だったとしても、そんなことはどうでも良い。ただ、もっと長く付けてくれさえしていれば、餓鬼の強襲には遭わなかったはずである。
だからこそ、泉へ渡したのだ。
何度も。
今度は傷なぞ付けられぬように……。
紅皇珠を所持する者の数は少なく、そのどれもが違わぬ実力を持つ。
なればこそ、抑止力になるはずだった。
泉を傷つければ、珠玉の持ち主から恨みを買ってしまうと、暗に示すよう。
それが、逆に彼女を傷つける結果をもたらすとは思いもよらず。




