第9話 地表の裏事情
黙りこくったシウォンの右腕を背負う泉。
胸中にあるのは、ただ、生きて地上へ出ることだけ。
それだけ――しか、考えてはいけない。
誰のせいで何がどうなったなど、考えても思っても良い時ではないのだ。
良いことなど、何もないから。
生きていれば全てがどうにか上手く回る――そんなことを浮べた覚えはない。
かといって、手放しで死を待てるほど達観できる人間でもない。
足掻ける余地があるなら足掻く。
全てが終わった後で全てが無駄だったと分かっても。
ツェンを殺した動揺は未だ尾を引くが、立ち止まる訳にはいかなかった。
……自分一人なら、それも良いかもしれない。
だが、とても残念なことに、泉は今、一人ではないのだ。
ちらりと斜め上を見やれば、苦い顔つきで前方を睨む獣の貌があった。
己から背負った腕は丸太のように重いが、温かさは血の巡りを知らせる。
生きている、と訴える。
そして――
前方へ視線を戻し、思うのは黒一色の店主。
人間が好きだと言い、しかし死んだ者はどうでもいいと言う。
なればこそ、きっと探しに来るだろう。
幽鬼の時も最初に攫われた時も、今回も。
泉が……人間が死んだのを確認するまでは、必ず。
呆れるくらい素晴らしいことに、物理的にも精神的にも、泉は一人ではない。
反面、気力だけで歩を進めるには、寝不足空腹続きの身体も、背負う腕も、何もかもが重かった。
このため泉は、そこから少しでも意識を逸らそうと、激痛と戦っているだろうシウォンへ声を掛ける。気後れはあっても、そうでもしなければ、限界を迎えた足が今にも止まり、崩れてしまいそうだった。
「……ここって、奇人街……ですよね?」
どこに光源があるかは分からないが、ぼんやり見える空間を問う。
靴越しに伝わる感触は堅い金属であり、奇人街にあっては異質な材質だが。
「ああ。……この床のことか?」
端的な問い掛けに対し、意図を汲んだ答え。返って来た声は少し熱っぽく反響するが、頷きだけで終わらなかった応じに、ほっとした泉は「はい」と頷いた。
受けたシウォンは続ける。
「元々、ここら辺一帯は、傾斜の緩い丘だったらしい。その時にはまだ、地下がなかったそうだが、人狼を誘致……いや、押し込むために作ったようだ。奇人街を造ったヤツがな」
「押し込む?」
「ああ。人狼だけじゃない。奇人街を造るに当たって、別の土地から色んな種が巻き添えを喰らった……が、まあ、それはいい。で、だ。人工的に無理矢理空洞を作ったもんだから、当然負荷は掛かる。当時は地盤沈下が激しかったと聞いている。これを解消すべく、人間が一人、連れて来られた」
「連れて?」
言い換えればそれは、攫われたのではなかろうか。
泉が知る、奇人街へ来る方法は、迷い込むか、自力で来るかしかない。
前者は竹平、後者には史歩とスエが該当する。
以前、元居た場所へ帰る参考にと思い、史歩とスエがどうやって来たのか尋ねたが、どれも単独で、奇人街側から招かれたような話は聞かなかった。
……史歩の反応には若干の苦みがあったが。
ともあれ、迷い込んでも自力でも、奇人街へ来た覚えのない泉には、興味深い話である。
シウォンの顔を覗きこむように見上げれば、こちらへ向けられていたらしい緑の光が、さっと前へ戻された。
感じの悪い動作だが、文句を言うつもりもない。
それでもため息を小さく余所へ零し、シウォンの返答を待つ。
「……ああ、連れて、だ。一応、人間の意思だったらしい。まあ、それで、その人間は期待通り、見事に問題を解消したんだ。その結果がこの床。とはいえ、長く保たれる代物でもなくてな。芥屋の隣にいるだろう? スエという変人が」
「……変人…………はい、いますね」
否定する義理もない。
浮かんだのは、色っぽい人狼女の竹平。
しかも原因がパンツにあると来た日には……どんなフォローも無駄だろう。
「ソイツが来て早々、己の足元が覚束ないのは冗談じゃない、と言って、自己修復機能を搭載した金属と、張り替えるための人形を一体造ったんだ。完成と同時に人形はぶっ壊れ、ヤツは一つ齢を重ねた訳だが……以来、どれだけ上の住人が暴れようが、それにより沈下しようが、しばらくすれば元通りになるのさ。……俺たちが落ちた穴は、猫が思いっきり開けたからな。修復までには少々、時間が掛かる」
「はあ……」
シウォンの口が閉じ、泉が発せたのはそれだけ。
理解はできたものの、どれに対して感想を述べたモノか迷う。
己のためが根本にあるとはいえ、スエが奇人街に貢献したこと。
自己修復という機能付の金属やら何やらを、彼が作ったということ。
スエの齢を取る条件が、発明品が壊れた時らしい、ということ。
地盤沈下引き起こすほど住人が暴れること。
虎狼公社で猫の援護を受けた際、街が落ちて来ないかと心配したのが杞憂だったこと。
修復が追いつかない穴を開けてまで、猫が泉を助けてくれたこと。
そして――
にも関わらず、そんな穴へあっさり落ちてしまった自分……のこと。
奇妙な沈黙が泉を包めば、シウォンの方も語りを止める。
自然、重苦しい空気が漂う。
……物理的には、ずっと重かったりするのだが。
しかし、歩みは止めず、別の話題を探す泉。
黙々と歩けば、いらない考えが巡りそうだった。
例えば――やっぱり自分は先を目指しちゃいけないんじゃないだろうか、とか。
シウォンには悪いが、ここで立ち止まり、斃れてしまおうか、とか。
(ワーズさん……探して、くれるかな? 人間……竹平さんがもういるから、いらないかな? 私は……)
とか。
碌でもない思いが、泉を支配し始め、乗じ、重かった足取りも更に重くなっていく。
「……小娘?」
何かを察したシウォンの問う声すら、遠く響く。
と、その時。
うなだれた泉の耳に、場違いなほど陽気な歌が届いた。




