第7話 温度差
伸ばされた手。
取らずに弾いたのは矜持ではなく、死を怖れる存在が腕の中にいたから。
何より――怖かった。
迷いなく手を伸ばしてきた、その相手は――宿敵と定めた小僧は。
彼から一度、全てを奪い取っていたから。
腕を亡くすよりも恐ろしい記憶。
それは、狡月の名が小僧へ引き継がれて後の目覚め――
聞こえたのは水音。
ぼんやり目を開けば映る、無機質な金属と配線で構成された天井。
斜め右に、上へと続く裂け目を捉え、急に息がつっかえた。
「かっ……がはぁっ…………く……」
こぽり、喉奥から水が溢れ、反射で身体が曲がる。
と同時に激痛が走った。
ゾッとする痛みに声が潰れる。
元を辿ろうとして、右腕を持ち上げ――愕然。
「っぃずみ!」
先ほどまで確かに抱えていた少女の姿が、体温が、ない。
痛む左腕を顧みず、水音のする右へと身体を無理矢理起こした。
その間に辿るのは、目を閉じる前の記憶。
猫が作った亀裂。その先にあるのは幽玄楼――人魚のいる部屋と目星をつけていたシウォンだったが、落ちた先にあったのは、水。
理由は分からないが、落ちた身を受け止められた深さを鑑みるに、あの部屋から直線状に続く楼内は水没しているらしい。海から水を引いている特殊な造りには、当初から対策を施しているため、浸水の被害は最小限に留まっているだろうが。
一度、水に深く沈んだ身を足だけで、岸となりそうな地へ寄せたシウォン。右腕で引っかけるように抱いたままの少女は、彼がクッションとなっても、生じた衝撃から気を失っていた。
ぐったりとした身体、硬く閉じられた瞼。
とはいえ、浅い呼吸を繰り返す音を聞き、無事を確認して安堵。自らの身体を完全に引き上げては、仰向けになり、そのまま気を失い――
(まさか……落ちやがった?)
さすがにこれだけの音、幾ら薄暗い空間だろうと、人間の彼女でも水の急流を想像できるはず。
だからといって、姿の見えないこの状況では、嫌な想像だけが膨らんでいく。
背筋が凍り、心臓は激しく脈打つ。
同じ感覚をシウォンは過去、経験したことがあった。
狼首を下し、成り代わったものの、仮初としか感じられなかった群れ。
それでも失うのは恐ろしいと思い知った、敗者の記憶。
ラン・ホングスに負け、目覚め。
手当てはされていようとも、傍には誰もいない。
察した事実に身は強張り、心音が乱雑に内を叩く。
狼首は負けた時点で殺されるのが定めであるにも関わらず、おめおめ生き延び、挙句、群れだけを奪われた。
――その事実に。
増して孤独感が募った。
種族の理から排斥された己を思い、見失いかける。
後に、ランが狼首を拒み、シウォンが継続するに至ったと知らされては。
矜持を穢された憤怒の裏で。
情けなくも。
群れたがりの人狼、その本性。
なぞるシウォンは、身が打ち震えるほどの喜びに苛まれて――
「うわっ、シウォンさん!? 気づいた途端に入水って、早まらないでください!」
見えぬ朱の衣を求め、流れへ爪を伸ばせば、ガンッと後ろから頭を殴る声。人間の身で発したとは思えない質感のある大声に、クラクラしつつ振り向いたなら、駆け寄ってくる姿がある。
「泉……」
無事だったか。
姿が見えたことで、愚かしいほどに安心し、それでもまだ足りないと手を伸ばした。すると、無意識に避けられると思った手が握られ、碌でもない想像に速まっていた鼓動が、その大きさと激しさを増していく。
しかし泉は、初めて感じる激しい動悸に喘ぐ間も与えてくれず、体重を掛けて、シウォンを引っ張ってきた。
「腕一本失ったからって、死のうとしないでください! 大変なのは想像でしか分かりませんけど、人間、やる気になれば何だって!」
「……俺は人狼だが?」
「言葉のアヤに茶々入れないでくださいぃっ!」
あまりに必死に引っ張るものだから、この程度の力で動かない身体が動いてしまう。
それを知らない泉は、無事、シウォンの身が流れから遠ざかるなり、あっさりと手を離した。少しだけ残念に思えば、左腕から再度届く痛み。
「ぐっ……」
蹲りながらも、自嘲する。
肘から先の感覚がない理由に。
大本はどうあれ、宿敵を庇ったのは紛れもない事実だった。
これで死んだらイイ人扱いだろう。
恥さらしも良いところ。
おかしすぎて涙が出そうになれば、慌てた気配が近寄ってくる。
しゃがみ、決して痛む身に触れはせず、覗き込む、心配そうな顔。
「痛みますか?……って聞くのも変ですけど。一応、布を巻いてみたんですが」
「布?」
言われて視界に入れた、己の腕。
ちらちら映っていた赤を、自身の乾いた血の色と思い込んでいたシウォン。綺麗に巻かれた朱の衣を知り、薄暗い中でも鮮やかな緑の双眸が揺れた。
次いで、泉の姿を改めて見、気づく、生地の少なさ。
彼女に宛がった衣には、たっぷり上質の布を用いたはずなのに、重ね着た一番上の、腿から下が無くなっていた。
荒い破れ目には、引き千切ったような跡がある。
「あ……と、その、すみません。血は止まっていたんですけど、剥き出しなのは危ない気がして。布、手頃なのがなかったので……あと、切るのにちょっと、爪をお借りしました」
「…………そう、か」
なんともワイルドな処置を事後に知らされ、言うべき言葉がなかった。
ただ、爪を使われた際、意識を失っていた自分を惜しむ。
きっと、先に意識を取り戻した彼女は、重い腕から必死に這い出て、シウォンの腕の状況を把握、腹の上に置かれたままの爪へ、腿――正確には布を宛がい……。
想像だけでも生唾が出てきた。
こっそり呑み下し、心底、残念がるシウォン。
しかして、心情を如実に表す深いため息は、うなだれた口から勝手に漏れてしまい、勘違いした様子の泉がシウォンの右手へ触れた。
途端、逸ることを思い出す鼓動。
のろのろ顔を上げると、そこには申し訳なさそうな泉の瞳が至近にある。
「もしなんでしたら弁償します。今は手持ちがありませんけど、必ず!」
キュッと軽く握られる手は嬉しいが、語られる言葉に色気はない。
苦笑が漏れたなら、泉は更に慌て、身を乗り出した。
「そ、それはもちろん、手触りは良いですし、すごく高価な品でしょうけど、ちゃんと弁償しますから!」
重ねてそんなことを言う。




