第4話 呼名
近くなる生白い姿、強烈なニオイは意識の外に置き、泉は黒い姿が見えなくなってもなお、その一点を見つめ続けていた。
取り返しのつかない事態が、抱えられた身体から力を奪っていく。
それでも動じない人狼は、淀みなく先へ進む。
幾度か角を曲がれば、唐突にシウォンが身を捩った。
間髪入れず、通るは鋭い刃。
命の危険から勝手に怯える心が生じ、泉はこれに怯えた。
同じコトをツェンへしたばかりだというのに、なんて勝手な。
しかし、そんな泉の内面なぞ知らぬシウォンは言う。
「大丈夫だ。傷つけはせん……が」
足を止めたシウォンに合わせ、揺れる彼の左腕。
黒い皮膚、爛れた紅、張りつくのは色褪せた体毛。
シウォンが対峙する相手も見つめられない泉は、己のせいで傷ついたソレに胸が締めつけられた。最悪の結果しかもたらさない自分を思い、心が萎縮する。
「何のつもりだ? 連れて行くんじゃねぇのか? コイツを」
「「「あらあら、どうでも良いのよ、そんな子。かのえはこちらに在るんですもの。もう、いらないわ」」」
「…………」
届いた嘲笑に顔を上げたなら、見知らぬ女たちがいた。
人魚と同じひび割れた声と、人魚だというかのえの姿を浮べれば、彼女らも人魚であると結論づけられる。
だが、泉の弱った心を占めるのは、そんなことではなかった。
いらない――そう言われて。
騒ぐ心。
反対に、身体は動作を放棄した。
泉に許されるのは、見聞きすることだけ。
人魚の応えに対し、シウォンは「そうか」と頷き、地を蹴った。
目指すのは、人魚たちがいる場所と逆の方向。
泉を抱えたままでは戦えず、かといって狙われている身を下ろすこともできない。
足手纏い。
お荷物。
増える、望まない肩書きに、悔しいと浮かぶ涙もない。
「「「逃がさないわ」」」
人形のように抱えられた泉が遠退けば、追ってくる人魚が言う。
「「「その子さえいなければ、私たちは面倒を避けられるの。かのえは手に入れたけど、その子が生きてると邪魔なの。最初はいなかったのに、後からシンの心に残ってしまうなんて……本当、邪魔だわ」」」
「…………」
「……連れ去るだけの人魚が、勝手な口を利きやがる」
苦々しい言葉があり、次いで泉が呼ばれた。
「おい、小娘。奴らの言葉に耳を貸すんじゃねぇぞ」
こくりと頷けば、ほっとしたような安堵が上にある。
しかし泉は、追う人魚の攻撃を避けるシウォンの腕の中で、冷えた心を抱いた。
小娘。
該当する呼称。
名ではない呼び方。
ただの、役割。
一人ですらない――
なのに奪う、他者の自由や命。
不安になればなるほど、思い浮べる姿があった。
名前があった。
ここには今、いない人の名が。
口に出そうとして、留める。
その名を呼び、殺めてしまった人がいたから。
切っ掛けは違うのかもしれない。
だが、合ってしまったタイミングに躊躇してしまう。
ただ口にすることすらできず――
「泉嬢!」
先に、呼ばれた。
瞠目し、緩慢だった動作が姿を求めて速まる。
見つけたのは、史歩とランを伴う、黒一色の店主の姿。
「ワ――」
今度は迷いなく、口をつく名前。
だがしかし。
「クッ!?」
シウォンの身体が大きく傾いだ。
何事か、理解する前に。
地を捉えるべき身体が、巨大な暗がりへと投げ出された。
* * *
突然上がった炎。
何故か常では恐れるその方角へ、一心不乱に向かう人魚を追い続けていたなら、何度も角を曲がる内に見失う姿。不可解な人魚の行動から、目星とつけた炎まで消えては、進む先も失いかけた――矢先。
黒一色の店主がランの迷う足を通り越して叫んだ。
「泉嬢!」
いつもの歪んだ声でありながら、焦燥に駆られる響きは、初めて聞く代物だった。
ランの目が驚きに少しばかり見開かれる。
だが、はためくコートの先に見知った白い衣と、それによく合うデザインの朱の衣を認めたなら、落ちていた足の速度を取り戻した。
すると、こちらに――店主に気づいた少女が、縋るように叫ぶ。
「ワ」
「クッ!?」
しかし、続く言葉は、シウォンの体勢が大きく崩れたことで消えてしまった。
彼らの後方から飛んできた凶器は、シウォンがきっちり避けたというのに。
一体何が起こったのか。
よくよく目をこらせば、地面に巨大な穴が開いていた。
反響する風の音が、二人を呑み込む獣のような咆哮を轟かせている。
(これは……猫か!?)
思い至る、少女の下へ店主を届けた、影の獣の所業。
あの時は救いとなった、瓦礫の降り注いだ位置と、現在、路幅一杯に走る渓谷染みた穴の位置は、ぴたりと重なる。
相も変わらない威力を見せつけられても、怯んでいる暇はない。
脚力を高めて地を蹴り、シウォンへと手を伸ばす。
「シウォン!」
幸いなことに、縁から手を伸ばせば白い衣の胸元に届く距離。
――だが。
「ちっ」
他方を向く緑の双眸、忌々しげに吐かれた舌打ちが、ランの胸を逆に押し退けた。
鈍く響く音を体内で聞いたランの上半身は大きく仰け反る。
こんな大事の時にまでプライドを取るのか。
「かはっ……な、にをっ――!?」
どうにか持ち直し、鋭くシウォンを睨みつければ、鮮血が舞った。
紅く、赤く、朱く……染まる視界。
源は、ランの頬を薄く切り裂き、後ろへ跳び、ごとり、地面に落ちた。
いつもの艶やかさの失せた毛並み、黒焦げた人狼の――。
背筋を冷たさが降りる。
声を失い、茫然と見つめる先には、少女を抱えたまま渓谷へ落ちる姿。
手を伸ばせないほど遠くへ投げ出された身。
軌跡を描くは、横合いの刃からランを遠ざけた、どろりとした液体。
切断面から続く、紅い――
金色の瞳の焦点が揺らぐ中、張りつめた灰色の耳に嘲笑がこだました。
「「「あははははははは! 落ちた、落ちた! 死んだ死んだ! これで、終わり。かのえは手中、私たちの勝ち――」」」
高笑い。
終える直前。
女たちに襲いかかるのは史歩。
逃げれば問題ないと、ひらり、これを避ける人魚の足取りは軽く。
続き、起こるは。
――地を揺るがす慟哭。




