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49 深く深く傷ついた命には当然のようにできることとできないことがあるという話

「リリイ」

「リリイ様……」


 俺とザビーネの声は、リリイの耳にはきっと届かない。魂さえ焼き尽くすような反動の炎の中で、必死に歯を食いしばって耐えている。

 身を焦がす激痛と、心をさいなむ自責の念に。


『ぐ……お、こ、小娘風情が……ここまで……!』


 竜の顔が苦悶に歪む。長い胴体に巻きついた神罰の雷は、そのいましめを緩めることなく猛り続ける。

 すでにリリイの皮膚はあちこちが裂け、顔も血まみれだった。それでも、大地を踏みしめる足にだけはいささかの揺らぎもない。


「腹に我がアメルハウザーの紋章を持つお前が、遊び半分に焼き尽くした命のすべてに、かけがえのない未来と過去があった」


 呟きは遠い。

 その調べは、従者に過ぎないものたちには、あまりにも尊すぎた。


「愛する人がいて、大切な暮らしがあって、明日の望みがあった」


 悔いるように、詫びるように。

 少女はとつとつと、己の罪を数え上げた。


「それを、すべて焼き尽くした。我がアメルハウザーの紋章のもとに、おまえが」


 許されれば涙を流したのだろう。膝をついて許しを乞うたのだろう。けれども、天に神はなく、頼るべき父兄も彼女にはなかった。

 だから背負った。背負うしかなかった。数百の、あの焼野原でついえた命の意味を。


 それを咎であると。

 ほかならぬ自身のあやまちであったのだと。


 そう、受け止めることを、リリイは選んだ。


「アメルハウザーのあやまちは、アメルハウザーの手でただされなければならない。おまえをここで封じたところで、失われたものは戻ってこないけれど」


 紅涙が光った。文字通り、眼球の血管が破裂したがゆえに流れた、血の涙だった。


「もうこれ以上、なにひとつ失わないように。わたしがここで、おまえを!」

『笑わせるな人間風情! 貴様らが、貴様らごときが、神たる竜を抑え込めると思うな!』


 リリイの絶叫と竜の咆哮が響き渡った。両者の拮抗は数分ほども続いただろうか。リリイの白い肌が次々と裂け、辺りは血で染まった。

 竜の鱗が弾けとび、弾丸のように大地に降り注ぐ。牙が折れ、爪が砕けた。


 生命と生命のぶつかり合いだった。それを、眺めることしかできなかった。俺は。

 俺は。


 なんて、役立たずなのだろう。


 唇を噛んで、拳を握って、呆然と立ち尽くす以外になにもできなかった。痛みと罪の意識に苦しむ主に触れることもできず、助けることもできず、声をかけることも血をぬぐってやることもできない。

 なんのための従者だ。歯を食いしばった。握りしめた拳が震えた。なんのために、俺は山を降りたのだ。


 自由だ、と言ったババアの声が蘇った。お前は自由だと、あいつは言った。

 何でもできると思った。そうではなかった。俺はあまりにも無力で、あまりにも無価値だった。


「リリイ様! ああ、リリイ様!」


 ザビーネの絶叫が轟いた。瞬間、オアマンドとリリイを繋いでいた紐帯のような雷が、真っ白な炎を上げて輝いた。


「あ、ああああああああああああああああ!」

『ぐ、ぐおおおおおおおおおおおおおおお!』


 二つの咆哮がはじけ、混ざり、溶けあう。視界は一時、光の洪水におかされ、鼓膜が破れてしまったかのようにあらゆる音が失われた。

 影さえかき消す莫大な光の海は、数瞬であたりの景色を一変させた。光は青空へ抜けていった。轟音と爆風が過ぎ去った。


 残ったのは、滑稽なほどの静寂だった。


 荒野だった。

 空は、子供が遊びで塗りたくったような青空だった。


 リリイは、地面に横たわっていた。全身から血を流し、意識を失っているようだった。糸の切れた人形のように、手足が力なく投げ出されている。

 生命は、とまずそのことを考えた。この肉体に、まだ生命は残っているのだろうか。


 俺は、その肌に触れられなかった。もしもそこに脈動がなければ、自分がどうなってしまうかわからない。老いさらばえて朽ちていったババアの姿がよみがえった。もう嫌だった。あんな思いは、もう二度と。

 硬直して動かぬ俺の代わりに、ザビーネがリリイを抱き起した。胸に手をやり、首に手をやり、大粒の涙をこぼした。リリイの血が、ザビーネの衣服を濡らしていく。


 禍々しいほどに赤い血。その血を手のひらにべっとりをつけて、ザビーネは臓腑の底から息を吐き出した。


「生きて……生きていらっしゃいます……!」


 俺がその言葉に何か反応を返す前に、リリイが瞼を開いた。しかし、瞳孔はうつろだった。何も見えていないのだろう。それが一時的なものであることを願い、俺は主の、虚空に伸ばされた手を掴んだ。


「リリイ、リリイ!」

「ち、がう。……レオン、ちがう……わ」


 うわごとのようにリリイは言った。その言葉が意味するところを、脳よりも先に身体が理解した。

 振り返った。赤黒い荒野を、咎めるように日輪が照らしていた。赤土と青空。その、あめつちの間に、影は蟠踞していた。


 蟠竜――オアマンド。


 邪悪の化身はなお、その身を保って、そこにあった。


『人間、まったく愚かな、人間よ』 


 声に応えるように、リリイは身じろぎした。しかし立ち上がれない。立ち上がれるようなダメージではない。

 それでも、燃えるような使命感だけが彼女を動かした。動かぬはずの筋肉と関節に鞭うって、リリイは立った。


 憎むべき敵に対峙するために。


「そんな……ああ」


 ザビーネが絶望の声を漏らす。

 俺は、拳を握った。


 ほかに、するべきことが見つからなかった。なんであれ、どうであれ、この戦いが俺たちの負けであったとしても。

 あの面に一発ぶち込まない限り、死んでも死にきれない。


「オアマンド」


 リリイはつぶやいた。その声には、いかなる感情も込められていなかった。

 それ以外に言葉を知らぬ赤子のように、リリイは繰り返した。


「オアマンド」

『気安く名を呼ぶな。しかし、そうか、そのせいで足元をすくわれた。いかんな、もう持たぬ』


 え、と顔をあげる。灰褐色の竜は、心底疲労したと言わんばかりに、その分厚い瞼を下ろそうとしていた。


『封印の呪法がこの身の心臓に届いた。これは眠らねば外せない。だが、せいぜい一両日だ。一両日のうちに、再び目覚める』


 希望と絶望を、それは同時に口にした。


『今は大したものだと言っておこう。しかし、貴様らの命はたった一日、延びただけだ。これは誓いだ。目覚めればすぐにでも貴様らを焼き尽くそう。その時を待ち、その時におびえ、この最後の一日を過ごせ』


 言って、竜はもたげていた首を大地に沈めた。ずぅん、と深い音がする。

 決して倒せぬはずの竜は、そうして倒れ伏した。わずか一日の猶予と、その先の絶対の滅びの予言だけ残して。

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