50 長い長い人生を生きてきた男が、一縷の望みにかけてその人生を振り返るという話
両膝をついて倒れ掛かるリリイを、間一髪で抱きとめた。細い身体の至るところから、可憐なほど赤い血が流れ出ていく。胸のあたりから、とくんとくんと、小さな鼓動が伝わってくる。
抱きとめて、俺は涙をこらえた。こんな小さな身体で、こんな細い身体で、こんな若い少女が、なんという重圧を背負っていたのだろう。
「レオン……」
名を呼ばれたが、返事はできない。ぐっとこらえて、なるべく負担をかけないように抱き上げる。外傷は見たところ、そこまで深くはなさそうだった。派手に血が流れているので見た目には不穏だが、命に届くような傷ではない。
しかし、あれだけの魔力の反動を受けたのだ。中身の方はどうだかわからない。内臓がやられているかもしれないし、神経を持っていかれたかもしれない。脳にダメージがないとも限らない。
可能な限り早く、安静にできる場所にたどり着かなければならなかった。
状況が指し示す絶望を受け止めるのは、そのあとでいい。
「ザビーネ、とにかく落ち着いてリリイの傷を見たい。なるべく早くに。どこか、心当たりはありますか?」
「このあたりに街はありません。けれども、東のほうへ数時間も行けば、清流が溜めた湖があるはずです」
「そこでいい。水があれば、最低限の手当もできるだろう。案内してもらえますか」
リリイを抱き上げたまま、歩き出す。なるべく衝撃を与えないように、膝のクッションを最大限に使って歩く。
ザビーネが先に立って、太陽に向かって歩き始めた。
「ふ、ふふ」
笑い声は、腕の中から聞こえた。
「リリイ?」
「ううん、なんでもない。大丈夫。わたしは正気だから」
目を閉じたまま、血のりを唇に張り付かせて、リリイは笑った。その笑いが、響き通りの愉快なものでないことくらい、誰にだってわかっただろう。
「リリイ、今は口を閉じていたほうがいい。少しでも体力を温存して――」
「情けないわね」
「リリイ、喋るな」
「あんなに大口をたたいて、わたしには結局、時間を稼ぐことくらいしかできなかった」
震える手で、少女は自らを抱くようにした。爪が皮膚に突き刺さるのを、俺は止めることさえできなかった。
「違う、リリイ。あんなこと、竜に対して時間を稼ぐなんてはことは、リリイ以外の誰にもできなかった」
「オアマンド、ふふ。竜にも、意地や見栄はあるのね。大丈夫、一両日なんて嘘よ。さすがにもうちょっと手ごたえはあるもの。短くても三日、うまくすれば五日くらいは眠ったままよ、あいつ」
「リリイ、もういい」
「三日や五日で、あれをどうにかする方法を考えないといけない。ふふっ、誰に聞いたって無理だって言うわね。そんなのできっこないって」
それがどれだけの無謀か分かっていながら、あえてリリイは言った。
「けど、やるしかない。やるしかないの。レオン、ごめんなさい、すこし眠っていい?」
目を閉じたまま、微笑んだ。限界だったのだろう。心も、身体も。
それでも、彼女はやるべきことから逃げなかった。自分の使命から目をそらすことをしなかった。
どこまでも強く、だからこそ、どこまでも救われない。
それこそが、少女の背負った運命なのかもしれない。
「うん、寝てろ。すぐに湖で血を流してやるからな。そしたら、今後のことを考えよう」
「頼りにするわ」
すぐに寝息が立った。その響きが安らかであることに無意味な安堵をして、俺は再び歩き出す。
「ザビーネ」
「わかってます。大丈夫。わたくしも同じ気持ちです」
「うん。じゃあ、ひとまずとにかく、湖を目指そう」
朝を迎えているので魔獣の動きは活発ではない。それでも散発的な襲撃はいくつかあった。リリイを抱えたままで戦えない俺に代わって、彼らを相手にしたのはザビーネだった。
美しい剣舞と、怜悧な判断力。魔剣の使い手であることを差し引いても、右に並ぶ剣士を探すのは一苦労だっただろう。
ザビーネは強い。しかしそれでも、竜にはかなわない。
やがて太陽が天頂に駆けあがるころになって、俺たちは目的の湖にたどり着いた。常緑の森の中だった。清流は山から雪解けが垂れてきたものだろうか。あるいは、地下水が湧き上がったものか。ひと目でそうと分かるほど、清らかな泉だった。
木々の間から、柱となった光が降り注ぐ。落ち葉をかき集めて作った簡易ベッドにリリイを横たえて、火を起こす。
森は平原より魔獣が多い。さすがに水で身を清めるところに居合わせるのも憚られるので、そこはザビーネに任せ、哨戒を兼ねて森の小路を歩いた。獣がつくった道だろう。水場への通り道ということだ。
襲い掛かってきた魔獣をことごとく返り討ちにしながら、考える。何か打つ手はないか。なにかやるべきことはないか。
頭のどこを探しても、必要な知識はなかった。けれど、そんなはずはないのだと、俺は思いはじめていた。
あのババアは、本当に何でもお見通しだった。全知という存在があるのだとすれば、それはきっとあいつのことだ。過去のことも未来のことも、あのババアはすべてを知っていた。
だから、ババアが本当に俺を思ってくれていたなら、すでに俺は教わっているはずなのだ。竜という邪悪が再び世に現れた時にとるべき手段を。なにしろ、教わる時間は腐るほどあった。三百年も、二人きりで暮らしていたのだ。
蜘蛛の巣が張った脳みそをフル回転させる。なんでもいい。なにか手がかりがほしい。
この状況を打破できる何かが。
なぜか、確信があった。それを見つけることができるのは、あの大賢者を知る俺だけなのだと。
かつて竜と戦い勝利した、今はなき大賢者。
「ババア」
声が漏れた。
「助けてくれ」
答えはない。しかし、遠くで、高笑いが聞こえた。それで十分だった。それで十分、力はわいてきた。
できる。できるはずだ。だって俺は、あの大賢者の奴隷を、三百年も勤め上げた男なのだから。
俺は必ず、竜を倒せる。
そう信じた。
「ここからが、蟠竜討伐戦だ」




