46 最後の手段はまだまだ残されているのだという話
滴るような闇が、くろぐろととぐろを巻いている。
蟠竜は微動だにしない。眠っているのだろうか。朝日はすでに、東の果てを濡らしはじめている。この灰褐色のうろこに覆われた竜が目を覚ましたときに、俺たちの命は尽きるのかもしれない。
夜の街道を駆けに駆けて、レムシャイトにほど近い山のふもとまでたどり着いた。距離にして2キロもない。ここからであれば、竜の姿がはっきりと見える。逆に言えば、目が覚めてしまえば、向こうからもこちらが見えるということだ。
リリイとザビーネと俺。三人で、震えながらその巨躯を見据える。口数が少ないのは疲れのせいでも眠気のせいでもない。全身を浸す、絶望の予感によるものだ。
途中でとらえた騎獣は、ザビーネの主張で、ここにたどり着いた時に放してしまった。魔獣とはいえ、人を襲う類のものではなかった。訓練すれば人に慣れるだろう。ここで道連れにすることに意味はない、ということだった。
それ以上の意図もあるのだろうという気はしたが、強いて詮索はしない。したところで意味がない。
「まだ竜は目覚めていないようね」
「そのようですね。叶うならば、このままずっと眠り続けていてほしいものですが」
「それは難しいでしょうね」
どういう心境によるものか、リリイはそう言って笑った。
「ザビーネもレオンも、聞きたいでしょうね。なぜあの竜の腹に、アメルハウザーの紋章が刻まれているのか」
「そうだな。自分が死ぬかもしれない理由くらいは、できるなら知っておきたい。もしかしたら、それを知ることが、死なずに済む理由になるかもしれないから」
「違いないわ」
リリイは俺の軽口を受けてから、ザビーネに目をやった。
「わたくしも、聞いてよいものであれば、お聞きしたいと思います。わたくしはまだ、何も諦めておりません。あの竜をどうにかすることも、アメルハウザーのあるべき形を取り戻すことも、ここでリリイ様を終わらせないことも」
「そう。そうね。わたしにはわからないことでも、ふたりに話せばそれが突破口になるのかもしれないなら」
そうして、リリイは語った。アメルハウザーと竜についての物語を。
それは彼女が父と兄に連れられ、城の地下の古文書を紐解かれるところからはじまった。いまから三年前のことだという。
「わたしだって、本気では信じていなかった。千年前からアメルハウザーの家があって、邪竜戦争に関わっていて、しかも竜を従えていたなんて。お父様もお兄様も、きっと半信半疑ではあったのだと思う」
「その話は、代々そうやって伝わっていたのか?」
「そうね。正式には、正統後継者にだけ伝えられている話だったわ。それが、当時は第二位の継承者だったわたしにも伝えられたことには、意味があったのかもしれない」
「リリイ様?」
「ううん、それはいいわ。続きね。その本にはたしかに、竜を喚び出すための手順が記されていた」
おそらく、コルネリウスはその本を見つけ、竜を喚びだしたのだろう、ということだった。数千の書物の中から手引きなしに引き当てるのは考えづらいことだが、現にこうして眼前に竜がいる以上、疑うことはできない。
「その古文書には、他に役に立ちそうな記述はなかったのか。たとえば、竜を従える方法とか、あるいは動きを鈍らせる方法とか、封じる方法とか」
言い募る俺を苦しそうに見上げてから、リリイは悲し気に首を振った。
「なにも。なにもなかったわ。首尾よく喚び出したところで、竜が人間にまつろうことそのものが奇跡であって、どんな変事が出来してもおかしくない、とだけ。必ずしも、盟約と契約が生きているとは限らない、むしろその可能性のほうが低いだろう、と」
それは、ある意味では、今まで聞いた中でももっともおそろしい情報だった。
竜がアメルハウザーに喚び出されたものだとすれば、危険は実は限定的だ。だってコルネリウスの目的は世界を焼き尽くすことではない。
おそらく、リリイを灰にすることだけが、コルネリウスの願いだ。あるいは、リリイに付き従った人間たちもその範疇に含まれるのかもしれないが、いずれにせよ対象はそう多くない。
国や人類世界が覆る、というほどの大事にはならないはずだった。けれど。
「じゃあ、あの竜はコルネリウスもコントロールできてないのか?」
「そうかもしれない。ううん、その可能性のほうが高いと思う。だって、コルネリウスはわたしがアスムスに潜んでいることを知っていたもの。あの竜の行動を完全に支配できていたなら、レムシャイトを焼く必要なんてなかったわ。わたしの命だけを取りに来れば済む話なのだから」
落ち着いた口調で語るリリイの理屈には、筋が通っていた。
であれば、何とかして人間勢力によって、竜を止める必要がある。しかし、あんなものをどうやって?
頭に浮かんだ、しわがれた顔があった。首を振って幻影を振り払う。この期に及んで、死者頼みもないだろう。
くそ、ババアめ。死ぬのがちょっと早かった。せめて生きて、この事態への対処くらいは言い残してから死んでほしかった。
「つまり、絶体絶命、ということですね」
人間、諦めがつくとかえって心身は清らかになるものだ。意想外に朗らかな声で言ったザビーネの顔は澄んでいた。
「ならば、ここに留まる理由もないでしょう。真実、あれがコルネリウスによって喚び出された災厄であるのなら、そのことを王府に訴え出るべきです。それで少なくとも、無実の罪にリリイ様が問われることはなくなるでしょう」
「わたしに、アメルハウザーの家名を売ってでも生き延びろ、ということ?」
ザビーネは首を振ってから俺を見た。説得に加勢しろ、ということだろう。
「そうじゃない。そうじゃないだろう、リリイ。ザビーネの言いたいことはそういうことじゃない」
「じゃあ、なに?」
「アメルハウザーが竜を喚び出したことが明らかになれば、たしかにその名声は地に落ちる。爵位だってはく奪だろう。しかし同時に、コルネリウスは罪に問われ、立場を追われる。国家そのものを危機に至らしめたんだ、極刑もあるだろう」
「でしょうね。でもそれじゃあ、意味がないわ」
「あるんだよ、意味は。だって、リリイが生き延びるじゃないか」
「わたしばかりが生き残ったところで――」
「違う。リリイ・アメルハウザーが生き延びることができれば、汚名を雪ぐチャンスが訪れるということだ。耐えて耐えて、いつの日か家を再興する。それができるのは、リリイが生きていた場合のみの話だろう?」
リリイは沈黙し、ザビーネは満足したようにうなずいた。どうやら俺の説得はザビーネの意を得ていたらしい。
「レオンの言うことはもっともかもしれない。けれどね、それは最終手段でしょ?」
「いま、ここが最究局面じゃないなら、なにが最後になるっていうんだ?」
「わたしがいま考えていることが、失敗に終わったら」
自信と不安をないまぜにして、リリイは笑った。その笑みの意味を問う前に、大地が震撼した。
大気を歪める咆哮が響き渡る。巨大な蛇に似た暴虐の化身が、動く。
竜が目覚めた。
持ち上げられた瞼の下で、金色の目が、俺たちを射抜いていた。
身をすくめる俺とザビーネに見向きもせず、金髪の少女は、挑むように竜を睨み返していた。
「ここからが、最終局面よ」




