44 竜の身に、まことに奇怪なことが起こっているという話
調べる? 調べると言ったのか、いま、ザビーネは。
竜を?
聞くに堪えない言葉だった。
「冗談だということにしておきます。早く出発の準備を」
「お聞きください、わたくしたちがここに留まったことにも、理由があるのです。あの竜を、このまま野放しにしておけない理由が」
「そんなものはないわ」
俺の反論を遮って、リリイが冷たい声を出した。青色の瞳が、闇の中、ザビーネの視線を絡めとる。
いかなる反論をも許さないと決めた、槍のようなまなざしだった。
「朝になるまでここにいれば、翌日には竜に焼き殺される。まして、竜に近づくことなどすれば、朝を待たずに全滅することになります。ここにいるすべての人間の命を賭してまでやらねばならないことなど、この世にはなにひとつない」
リリイの意思は鋼鉄よりも固い。しかし、ザビーネとて愚か者ではない。そうしたリリイや俺の反応など、想像していただろう。
それでもなお、彼女は留まると言った。その理由を、聞かないわけにはいかなかった。ザビーネは一度、俺の顔を見た。それから諦めたように首を振った。
「すみません、みなさん。しばし席を外してもらえますでしょうか」
あたりを取り巻いて、聞くともなく俺たちの話を聞いていた兵たちが、顔を見合わせながら散っていく。
その様子を眺めてから、ザビーネはすこし、気を緩めたような表情になった。彼女にもプレッシャーはあったのだろう。これからするべき深刻な話にはふさわしくないような、若やいだ微笑が口元に残る。
「他言無用に願います。わたくしがこの目で見たものを、お伝えしてよろしいでしょうか」
「わたしはレオンを信頼しているわ。あなたと同じくらいに」
「では申し上げます。竜に、アメルハウザーの紋章を見ました」
出し抜けに、ザビーネはそう言った。その意味がリリイと俺の脳に浸透するのを待つように間をおいてから、続ける。
「竜の腹に、です。攻撃を受けたとき、わたくしはたしかに、魔力によって編まれ、刻まれた、あの双頭の鷲の紋章を目にしました」
「どういうこと? いいえ、それより、見前違えってことは……」
「わたくしが、アメルハウザーの紋章を見間違えることなどあり得ません」
「そうね。それはその通りだわ。でも、だとしたらどうして」
リリイが眉を寄せる。何に困惑していいかわからない、というような表情だ。
しかし、悪いことが進行している。なにか底知れぬ悪意の蠢きが、たしかにここに、芽吹いている。
「わかりません。しかし、あの竜は街のひとつやふたつは軽々と消し飛ばすでしょう。そのとき、焼かれていく人々の目に最後に焼きつくものがアメルハウザーの紋章でなど、あってはならない」
「それは、まずいな」
言いにくいが、死んでしまった人間の目であれば、問題は心証の話にすぎない。貴族の誇りには関わるだろうが、実害はほとんどない。
より悪いのは、その災厄から生き延びた人の口から、アメルハウザーの名が漏れることだ。竜にゆかりがある。竜と結託している。そうした、根も葉もない噂を立てられかねない。
家名に傷がつく、どころの話ではない。街のいくつかの存亡にかかわった、世界を危機に陥れた、となっては、軽く見たって家は断絶するだろう。
もしもその際、アメルハウザーの名を持つものが、ひとりでも生き残っていたとすれば、だが。
「今のところ、わたくしと、麾下の者たち以外に紋章を目にしたものはいません。しかし、これ以上の狼藉を竜が続ければ、必ずよからぬ事態を引き起こします。
その通りだった。ようやく、ザビーネがここに留まった理由に得心する。
俺たちは、アメルハウザーの家を取り戻すために戦っているのだ。この状況を野放しにすれば、守るべき家そのものが消し飛びかねない。
たしかに、命に代えてでも食い止めなければならないことだった。
背中に冷たい汗が走る。顔色を失って考えこむリリイに代わって、ザビーネに向き直る。
「ザビーネさん」
「はい」
「その、紋章を見た、というときの話をもう少し詳しく伺ってもいいでしょうか。何か、ヒントになるようなことがあるかもしれない」
俺とザビーネの目が、同時にリリイを見る。しかし、その視線にも気づかぬように、リリイは口元に手を当てて、何事かを考え込んでいる様子だ。
仕方ない、といった感じで、ザビーネは息を吐いた。
「昨日のことです、わたくしたちは、廃坑を利用して、いつものように訓練をしておりました。その際、突如として天が崩れ、大粒の雨と雷が降り注ぎました。そして間もなく、重い雲を割って、竜が姿を現したのです。それはまったく、突然のことでございました」
突然、とザビーネは言った。そうだ、ずっとこの胸にわだかまっていた違和感の正体はこれだ。竜の出現を、誰もが予期できなかった。でも、それはおかしいのだ。
だって、理に反している。
「ザビーネ、それはおかしい。あり得ない。いや、話を疑うわけじゃないんだが」
「そう、おかしいのです。竜は生体であると聞きます。決して、魔力で編まれた幻想体などではない。であれば、出現には必ず予兆があるはずです。まして、あれだけの巨体、魔力量を貯蔵しているものが、自然に影響を与えずに移動を可能にするとは思えません」
まったく同意見だったので、うなずいて話の先を促す。
「出現の直後、竜は口から炎を吐きました。我々は廃坑の中に潜り込み、わたくしの魔剣で風のシールドを展開しましたので、九死に一生を得ました。しかし、直撃を食らった街は、石さえも溶け落ちて消え去りました。雷の数百倍も太い、巨大な火柱が空から落ちてきたようなものです。住人たちは、そうと気づかぬまま絶命したに違いありません」
せめてそれを、小さな慰めとしたい、とザビーネの声音を語っていた。
なるほど、たしかに、と俺は場違いな納得をしていた。たしかにザビーネに、騎士団の団長は務まらないだろう。
この女の魂は、あまりにも清らかすぎる。
生き馬の目を抜く世界を、したたかに生き抜いていくには。
「わたくしが紋章を見たのは、その時です」
「見える距離だったのか」
「魔力で一時的に、視力を強化しました。せめて、敵の姿をしっかりと観察しておかねば、後日の対策も立てようがないだろうと」
「大したものだ」
魔剣を操れるのであれば、たしかに五感の瞬間強化くらいは楽にやってのけるだろう。しかし、そのような天変地異を目の当たりにした瞬間に、後日あるを予期した行動を取れるというのは、並大抵の胆力ではない。
「見間違えようもなく、あれは、アメルハウザーの紋章でした」
「わかった。あなたを信じるわ、ザビーネ」
真っ白にした顔のまま、リリイは静かに言った。
耐えがたい痛みに耐えるように。




