40 途方もなく珍しい魔獣に出会うがそれどころじゃない話
リリイは柔らかく、羽のように軽かった。その身体を抱いて、街道をまず北へひた走る。昼下がりだというのに、人の姿がまばらだった。おかげで全力で走れる。
アスムスの北へ延びるこの街道の先に、大きな街はない。すっかり廃れた炭鉱と、荒涼たる大地が広がるばかりだ。したがって、商人たちはこの道を使わなくなって久しい。
舗装が行き届いているわけではないが、それでも悪路というほどのものではない。雨も数日降っていなかったから、道の状態も悪くない。
やけに喉が乾くのは、水気を失って乾燥してしまった大気だけの問題ではないだろう。気を抜くと足取りが重くなることを、リリイに勘付かれた。
「ねえ、レオン」
「うひゃ!」
「な、なによ、変な声出して」
そのほうが安定するから仕方ないのだが、リリイは俺に横抱き抱かれ、首に両手を回している。従って、話しかけられると耳元か首筋に微妙な息がかかるのだ。
「すまん、くすぐったくて。で、なに? 急いでるところだから、あんまり返事はできないぞ」
「返事はいいわ。ただ、あなたの疑問に答えておこうと思っただけだから」
お言葉に甘えて、返事はしない。風の音で常人なら聞き取れるかどうかあやしいリリイの声も、俺の耳には聞こえる。
甘やかな声は、恐怖の気配に、やや濁っていた。
「あえて、レムシャイトに向かう必要はない。ユリアナの言っていたことは正論よ。でも、わたしは行かないといけないと思った。理屈じゃないの、あの手紙を受け取ったとき、運命のようにわたしはそう思った」
「…………」
言葉は独りごとに近い。いや、実際そうなのだろう。
俺に聞かせることを理由にして、リリイは自分の心情を吐き出しているのだ。自分でも不可解な情熱に浮かされて出てしまった、この決死行の意味を探して。
「きっと、竜は本物よ。そしてザビーネたちは窮地にいる。わたしには何の力もないけれど、わたしの存在が、声が必要になるときがくる。そんな気がするの」
「わかった」
「付き合わせて、悪かったわ」
「謝るなよ。置いていかれるほうが嫌だった。二人旅は光栄だ」
そう、と細い声で言って、リリイは俺の胸元に顔をうずめた。
恐怖を噛み殺しているのだ。強いだけの少女ではない。彼女は、これから目の当たりにするであろう地獄を、すでに理解している。
***
二時間も走ると、すぐに炎の気配がやってきた。北に走った後、東に折れてすこし行けば天に駆けあがる煙の柱が見えた。
その向こう。山に、影が落ちている。
「うそだろ」
あまりの巨躯で、峰を新たに形作るようにして、山肌にそれはいた。遠目では、俺の視力をもってしてもその細部まではわからない。
けれどもそれが、他のいかなる生物にも該当しないサイズであり、フォルムであることは理解できる。
「竜――本物か。どうして」
それは、巨大な蛇だった。ここから見る限り、体表は灰色の鱗に覆われているか。とぐろを巻いて、鎌首をもたげるようにして辺りを睥睨している。目の色まではわからない。
「――蟠竜」
「バンリュウ?」
思わず漏れた呟きに、耳ざとく反応される。
「とぐろを巻いて、地を這う竜。飛べない竜だ」
「未成長の竜ってこと?」
「そうとも限らない、らしい。ああ、いや、すまん、俺もよくわかってないんだ」
こんなことならババアの話をもう少し聞いておくべきだった。でも、仕方ない。まさか生きている間に竜にお目にかかることになるなんて想像もしていなかったんだ。
「レオン、レムシャイトは、このあたりだったかしら……?」
もう少し進んだところだが、この煤煙と、あちこちにくすぶっている炎の気配を考えれば、向かうだけ無駄だ。
すでに焼き払われている。跡形もなく。
そう言葉にするのがためらわれて、俺は首を横に振るだけに留めた。
リリイは意図を察してか、何も言わずにまた俺の胸に額を当てた。
「慰めてやりたいところだけど、すまん、そういう状況でもないらしい」
「え?」
ここまで休まず動かしてきた足を止める。ここらの木々はまだ焼けておらず、巨石があちらこちらに散乱している。その一つを背負う姿勢を取って、リリイを下ろす。
竜の特性か、魔性に引きずられたか、血の匂い、肉の焦げる音に魅せられたか。
「炎駒……」
巨石の影から、禍々しい巨体が姿を現した。全身を炎のような赤い毛皮で覆った、一角獣の化生。
災害指定とされている。見かけたら通報の義務があり、その噂が聞こえただけで近隣の村からは人の姿が消えるという。
たった一頭であっても、一夜にして森を炎で消し炭にすると言われた、伝説級の魔獣。
竜につられて出てきたか。
「すまんな、リリイ」
「え?」
普通の馬の二倍もある、巨大な魔物だ。額から映えたシンボルの角には薬効があり、毛皮は信じがたい値で取り引きされる。肉は喰えば万病に効くとされ、骨は鉱石よりも固く、油を絞れば一年でも燃え続ける。
もったいない。
「でも、仕方ない」
ぐん、と踏み込む。周囲に気を配ったが、仲間を連れている気配はなかった。孤高、孤独を好む魔獣だと聞いた。群れを作らずに生きていけるのは、天敵を持たない強者だけの特権だ。
が、それが仇になることはあるのだ。
「慢心の仇だ、諦めて成仏しろ」
炎駒が鬣を振るって角で俺を串刺しにしようとするのと、俺の拳がその角をかいくぐって腹を破ったのが同時だった。
噴き出る血が炎を宿した。触れれば骨まで溶かされる。紙一重で避けきって、さらに回し蹴りを首にくれてやる。
それで終わりだった。
「呆れた強さよね。何度見ても、信じられないわ」
「俺より、竜のほうが強い」
「…………」
「先を急ごう。このレベルの魔獣が寄ってきているなら、この周辺は遠からず、地獄になるぞ」
生命の気配は、まだ絶えているわけではない。前後は知らず、まずは命ある人間に出会い、この一帯で何が起こったのかを知らねばならない。
知って、どうにかなるものであればよいのだが。
再びリリイを抱き上げて、竜から距離を取るように、円を描いて走りはじめる。
ぬるい風が拭いた。汗を冷やして、吹き去っていった。




