39 竜の話
「馬鹿な」
漏れたつぶやきは俺のものだ。
だって――竜種。竜種だと?
竜が現れたとリリイは言った。
けれど、それはない。そんなことはありえないはずだ。
「そうね、レオン。そう思う気持ちはよくわかる。わたしも、これは誤報なんじゃないか、何かの間違いなんじゃないかって思ってる」
「そう、そうだよな。きっと間違いだと思う。なにか、新手の見たことのない魔獣か何かを取り違えたんだろう」
「そうかもしれない。わたしだって、レオンに全面的に同意するわ。この手紙の差出人が、ザビーネ本人じゃなかったらね。ザビーネは、軽々に人を惑わせるような虚報をもたらすような人じゃない。そのことは、レオン以外の、ここにいるすべての人がわかっているはずだわ」
思わず見回すと、全員が複雑な表情でうなずいていた。ザビーネへの信頼は厚い。であれば、本当に竜が現れたとでもいうのか?
でも、だって、それじゃあ――。
「わたしだって知ってる。竜種はこの世界から滅んだはずだわ。千年前の、大賢者たちとの戦争で。けれど、生き残りがいたか、他の何かのからくりがあるのか、レムシャイトに姿を現した。真偽はどうあれ、とにかくそう心構えをしておいた方が良さそうね」
ババアは、その竜種との戦争に関わった、というか、戦争を終わらせた張本人のひとりだ。そのババアから俺は聞いていた。
竜と人の争いの物語と、竜たちの恐るべき強さを。
リリイの視線を捕まえる。さすがに、気丈な顔に影が落ちている。あるいは、迷いの色が。これからの行動を考えているのだろう。
でもレムシャイトとその付近には、ザビーネと彼女に従うものたちが避難しているのだろう。それを放っておけるようなリリイではないことを、俺はもう知っている。
「リリイ。竜と、戦う気か?」
「……騎士団が束になっても敵わない相手よね」
「伝説が本当なら、羅羅を千頭相手にしたほうがまだマシだろうな。生身の人間が太刀打ちできるような存在じゃない。あれは天変地異か自然現象みたいなものだ」
と、俺はババアに聞いている。
リリイは小さく息を吐いた。握りしめた拳が震えている。
「それでも、ザビーネたちを見殺しにはできない。レオン、わたしと一緒に、今すぐレムシャイトに行ってくれる? 馬で向かうより、あなたの足の方が早いでしょ」
「お待ちください、リリイ様!」
俺の返事を待たずに叫んだのはユリアナだった。
顔色を失って、珍しく狼狽を隠せていない。声だって震えている。
「ザビーネ、その手紙でなんと? 救援を請うているのですか? リリイ様に、自分たちを助けてほしいと?」
そうではないはずだ、と確信を抱いている顔だった。
「あなたの想像通りよユリアナ。ザビーネは、アスムスから離れるように、可能な限りレムシャイトから離れるように忠告している。そうね、ここからレムシャイトは近すぎる。竜が本当に街を襲うつもりなら、明日か明後日にでも、この町にやってくるかもしれない」
「そんな!」
悲鳴を上げたのはゲルタとエッダだ。そう、これが竜だ。
俺たちの世代は、竜なんてものを見たことがない。その姿と強さ、恐ろしさは、ただ伝えられてきただけのものだ。
それでもまだ、こんなに怖い。恐ろしい。竜が現れたと聞いただけで、まともな思考能力さえ失ってしまう。
本能に、あるいは遺伝子に刷り込まれた恐怖があるのだ。決して立ち向かってはならない脅威がこの世にあることを、俺たちの血は知っている。
「ならば、リリイ様がレムシャイトに向かう理由はないはずです。ザビーネはただ、リリイ様の身を案じ、この国の危機を知らせるために、その血まみれの手紙を出したのでしょう。レムシャイトに向かわれるというのは、そのザビーネの心意気を無にすることになります!」
ユリアナの主張は、そのままヴァルターの気持ちでもあったのだろう。深くうなずき、懇願するようにリリイを見る。
その視線を真っ向から受け止めて、リリイは悲し気に首を振った。
「あなたの言うことは正しいわ。ザビーネはわたしの救援を望まず、わたしの無事こそを願っている。けれども、それは彼女の祈りであって、わたしの決断ではない。それだけの話よ」
「しかし!」
「いずれにしても、竜が現れたのであれば情報は必要だし、脅威の正体が不明である以上、ここが安全とも限らない。であればわたしは、わたしの王道を進むしかない。そうあれかしとわたしが誓った、わたしの在り方を貫くしかない」
「リリイ様!」
「ごめんねユリアナ、時間がないわ。お説教の続きは、帰って来てから聞かせて。必ず、あなたの小言を聞きに帰ってくるから。約束するわ」
ユリアナは何かを叫ぼうとして口をつぐみ、発せなかった言葉の代わりであるかのように、一筋の涙を流した。その涙の意味するところを、俺は知らない。
ユリアナは大きなため息を吐いて、首を振った。
「リリイ様は、約束を破られたことがない。私は、そのことを知っています」
「決まりね」
リリイは、かつっと靴を鳴らして、一同に向かって手を掲げた。全員の背筋が伸びる。
「では、命を下します。レオンはわたしを抱えてレムシャイトへ。ユリアナとヴァルターは、人数を集めてわたしたちの後を追ってきて。ただし、危険を感じたらわたしを気にせず引き返すこと。それから、ゲルタとエッダは、この手紙を持ってクラディア様のところへ。アスムスと協力して情報を集め、適宜、鳥便でわたしに報せて頂戴。異議は?」
ない、あるはずもない。
リリイは満足そうにうなずいて踵を返し、俺はその背を追った。
「リリイ、敵が竜なら勝ち目がない。戦うだけ無駄だから、引き際を見極めて撤退するぞ」
「わかってる。でも意外ね、レオンがそんな弱気なことを言うなんて」
「こう見えて、馬鹿じゃないんだ、俺」
「それもわかってるわ」
視線は合わない。屋敷を出て、街道へ続く門へ足を向ける。北東の空に、まだ異変は認められない。
しかし、そこには、固いうろこで全身を鎧った、暴力の化身がいるかもしれない。
足が震えた。恐怖に。それでも、向かうしかない。
一路、死地へ。




