35 ご飯を食べること
「おかえりなさい」
「うん。ただいま。ちょっと遅くなった、すまん」
「いいわよ、まだ朝のうちだわ」
リリイは、宿の前で待っていてくれた。朝日を、俺が背負う形になる。まぶしそうに目を細めて、微笑を浮かべている。
俺にしてみれば、生死のきわまで体験した、一夜にしちゃ濃い冒険だった。でも、リリイにとってはそうではなかった。
俺の服はファビアンに借りたものだ。往路に着て出た、あのリリイに買ってもらったものではない。
肌についた血や泥は落としたが、髪の毛にべったりとへばりついたものはそのままだ。乾いてこびりつき、髪を癖のある束にしてしまっている。
あちこちに包帯が巻いてあって、すり傷や切り傷を数えればきりがない。
どう見ても尋常ではない様子のはずなのだが、リリイの顔は曇らなかった。
「あなたも、無事で本当に良かった、エッダ」
「リリイ様……、リリイ様~!」
あんなにしがみついていたのに、リリイの顔を見るや、エッダはもがくように身をよじり、すたっと地面に降り立った。そのまま外聞もなくリリイに駆け寄って、その華奢な体に抱き着いて、おいおいと声をあげて泣く。
「リリイ様、あたし、もう会えないかもって思ってました。でも、でも、リリイ様、ご無事で、笑顔で……!」
「そんなに泣かないでよ。こっちまで涙が出てきちゃうみたい」
困ったように眉を寄せて、リリイも目頭を熱くしている。
まあ、エッダも大概変わった女の子のようだったが、明日も知れぬ境遇で耐えてきたのだ。主の顔を見て緊張の糸が切れるのも無理はない。
「エッダ、よかった……あたし……」
リリイの横からゲルタが顔を出す。目が赤いのは、まさか徹夜のせいだけではあるまい。
エッダはリリイの腰を出した姿勢のまま、嗚咽交じりにゲルタににじり寄り、今度はまたその細い腰を抱いた。
「ゲルタ、ゲルタも無事で、本当に……!」
「エッダこそ……どこにも、怪我もない?」
「うん、平気。平気だった。ああ、ゲルタ。相変わらずかわいいねえ。うんうん」
「かわいいって……。あ、ちょっと、人の服で鼻水拭かないでよ!」
「だって、だって~!」
ふたりとも、泣き笑っているのだった。ゲルタもエッダも、ずいぶん長い間、感情に蓋をして過ごさなければならなかったはずだ。爆発するのも無理はない。
その様子を、しばらくは目じりをぬぐいながら見ていたリリイが、俺に向き直る。
「レオン、ありがとう。なんか気の利いてない言葉だけど……他に言いようもなくて」
「いいよ。そんなの」
エッダと抱き合って泣いていたゲルタが、鼻水交じりの顔でこっちを見る。笑っちゃいけないけど、結構おもしろい顔をしている。指摘すると一生恨まれそうだったので、照れ隠しの振りをして視線をそらす。
ゲルタは、ずびっと鼻を鳴らしたあとに、俺の手を取った。もちろん、包帯の巻かれていない左手の方だ。
「レオン君、あたしからも、本当にありがとう」
「だから、別にいいって」
まっすぐに言われると、照れる。これが無傷であっさり、颯爽と任務をこなして帰ってきているのならばともかく、助けるはずのエッダにも助けられて、命からがらだったのだ。
頬をぽりぽりやりながら、思い出したように腹に手を当てる。
「なあ、リリイ、そんなことよりさ、ちゃんと約束、守ってくれた?」
「約束?」
「結構、運動したからさ。おなか、減ってるんだけど」
リリイはゲルタと顔を見合わせて、笑った。
「そう。そうだと思って、朝ご飯、ちゃんと作って置いたの。まだ温かいと思うから、すぐに食べる?」
「食べる!」
「いいの? お湯を使って汗とか土ぼこりを落としてからでもいいけど」
「あ、気になる?」
たしかに、走ってきたのだから土ぼこりも気になるところだ。手だけ洗ったくらいじゃ、食卓に着くには無礼なのかもしれない。
そこら辺の常識、あんまりない。けれど、リリイは笑顔で首を振ってくれた。
「わたしは気にしないわよ。レオンが気にするならって意味」
「じゃあ、すぐに食べたい」
「うん。じゃあ準備するわ。エッダも食べるでしょ?」
え、と目を丸くしてから、ぺたんと地べたに座ったままのエッダが、こくこくとうなずく。
「た、食べてもいいんですか?」
「もちろん。じゃ、中に入って。ゲルタ、準備、手伝ってくれるでしょ?」
「は、はい、喜んで!」
ゲルタとエッダが走り出す。俺は肩の下辺りにあるリリイの顔を見て、笑った。
「じゃあ、お手並み拝見だ」
「なにが?」
「手料理。貴族のお姫様だから、いままで人に任せっぱなしだろ? 食べるのが楽しみだ」
ふふっと手で口元かばいながら、リリイは笑った。
「じゃあ、期待していいわよ。わたし、むかしから料理は好きだったから。うちの厨房に入ってほしいくらいだって、いつもコックから言われてたんだから」
「え、まじで。じゃあ、なおさら楽しみだ」
リリイに促され、先に宿の扉をくぐる。たった数時間の外出だったけど、なんだかこう、安心する。
「なあ、リリイ」
「なあに?」
「ファビアンの家で、いろんなことがあったんだ」
「でしょうね、その様子だもの」
「うん」
「それで?」
「リリイに、話したいことがいっぱいある。あんまり大した話じゃないかもしれないけど、聞いてほしいんだ」
俺は立ち止まって、リリイの顔を見る。妙なことを言っているわけじゃないはずなのに、なんだか変に恥ずかしい。
リリイは俺の隣にたって、長いまつげをぱたぱたさせてから、ん、と小さくうなずいた。
「わたしも、聞きたい」
「そっか。なんかさ、はじめてなんだ。自分のこと、誰かに聞いてほしいって思ったのは。これは、なんなんだろう。成長なのかな」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「どういうこと?」
リリイは俺の先に立って歩き出し、とん、と床を踏んで振り返った。
金髪が、羽のように広がった。
「なにも知らず、なにも求めない人は、なにを失っても怖くない。そういう人は強いでしょ?」
「そうだな」
「だから、レオンがいろいろな経験をして、いろいろな気持ちを知っていくたびに、あなたはもしかしたら、少しずつ弱くなっていくのかもしれない」
それは、とても素敵なことなのだと言うように、リリイは頬を紅潮させる。
「それは弱くなったんじゃなくて、豊かになったんじゃないか?」
「そうね。わたしもそう思う。わたしはね、レオン。あなたに、そういう豊かさを、これからもたくさん知ってほしい。だから、なるべく長く、わたしの傍にいてね」
「うん。期待してる」
食堂へ続く扉を開ける。食欲をそそる匂いが、部屋の中に充満している。
高級な食材を使っているわけではないだろう。得意と言ったって、リリイの腕前だって、素人の趣味の域を越えるものではないはずだ。
それでも、俺には確信があった。
この朝食は、俺の人生で、もっともうまい飯になると。
ここで一区切りです、次回から新章に入ります。




