1-6 「大切な瞬間」
第六話
「間に合った!」
結が嬉しそうに席へ腰を下ろした。
イルカショーが始まるまで、あと一分。
前から三列目。
水しぶきが飛んできそうな場所だった。
「絶対濡れるぞ。」
「それも思い出。」
「ポジティブだな。」
「湊が心配性なの。」
照明が少し落ちる。
場内に音楽が流れ始めた。
大きな拍手とともに、イルカが勢いよく水面を跳ねる。
「すごい……。」
結は子どものように目を輝かせていた。
その横顔を見ているだけで、湊まで楽しくなる。
「ねぇ。」
「ん?」
「イルカって毎日同じジャンプしてるのかな。」
「たぶん。」
「でも見てる人は毎日違う。」
結はそう言って笑う。
「だから同じジャンプでも、誰かにとっては一生忘れられない日になるんだね。」
湊は頷いた。
「そういう考え方、結らしい。」
その時だった。
「見えない……。」
前の席から、小さな男の子の声が聞こえた。
両親の間から何度も背伸びをする。
でも前に座る大人に隠れて、イルカがほとんど見えない。
母親が申し訳なさそうに抱き上げようとするが、すぐに腕が疲れてしまう。
結はその様子を見ていた。
そして何も言わず立ち上がる。
「ぼく。」
男の子が振り向く。
「お姉さんと席、替わる?」
「え?」
母親も驚いた顔をした。
「でも……。」
「私は後ろでも見えるから。」
結はそう言って笑う。
男の子は母親の顔を見る。
母親は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「すみません、本当に……。」
「大丈夫です。」
結はいつもの笑顔だった。
男の子は嬉しそうに結の席へ座る。
ちょうどその瞬間。
イルカが高く跳び上がった。
「わあっ!」
男の子の歓声が響く。
結は一歩後ろへ下がり、立ち見スペースからショーを見上げていた。
ショーが終わる。
帰り際、男の子が小さく頭を下げた。
「お姉ちゃん、ありがとう。」
結も笑って手を振る。
「どういたしまして。」
館内を歩きながら、湊が聞いた。
「本当は前で見たかっただろ。」
結は少しだけ考えた。
「うん。」
「ちょっとだけ。」
「じゃあ何で。」
結はさっき男の子が笑っていた方を振り返る。
「今日一番楽しそうだったから。」
その一言だけだった。
湊は何も返せなかった。
結はまた歩き始める。
少し照れくさそうに笑いながら。
「でもね。」
「あとで湊の撮った動画、見せてね。」
「え?」
「撮ってたでしょ?」
「……バレてた?」
「五年一緒にいるので。」
結は得意そうに笑う。
湊も笑った。
その時の僕は、まだ知らなかった。
結は、自分が幸せになることよりも、
誰かが幸せそうに笑っている瞬間を、大切にできる人だった。




