エピローグ
そのずっと先の春。
縁側に座る老人が、庭に咲く桜を眺めている。
頬をなでる風は、若い頃と変わらない。
「おじいちゃん!」
元気な声が庭に響く。
小さな男の子が、転びそうになりながら駆け寄ってくる。
「そんなに走ったら転ぶぞ。」
老人は笑いながら、その小さな頭を撫でた。
「だいじょうぶ!」
得意げに胸を張る姿が可笑しくて、思わず笑みがこぼれる。
家の中から、優しい声が聞こえた。
「ご飯できたわよ。」
「はーい!」
子どもは元気よく返事をして家へ駆けていく。
「ほら、おじいちゃんも。」
振り返った先には、一人の女性が立っていた。
白い髪が少しだけ増えたその笑顔は、昔と何も変わらない。
老人は照れくさそうに笑う。
「今行くよ。」
女性も微笑み返し、家の中へ戻っていった。
老人は立ち上がろうとして、ふと縁側の隅に置かれた写真立てへ目を向ける。
幼い頃の自分。
父。
母。
笑顔の家族。
仲間たち。
職場で撮った集合写真。
孫が生まれた日の写真。
どの一枚にも、大切な人が写っていた。
そして、その写真たちを見るたびに思い出す。
『今の湊のままなら、私たちはきっと幸せになれない。』
あの日の言葉。
あの日の涙。
あの日の別れ。
老人は目を閉じる。
「ありがとう。」
その一言は、何十年経っても変わらなかった。
あの日の別れがあったから。
母と向き合えた。
父と笑い合えた。
たくさんの人と出会えた。
そして、自分自身とも向き合えた。
風が吹く。
桜の花びらが一枚、膝の上へ舞い降りた。
『生きる意味は、見つかったか。』
懐かしい声だった。
若い頃、何度も聞いた声。
老人は空を見上げる。
青く澄んだ空の向こうには、何も見えない。
それでも、穏やかに笑った。
「分からないよ。」
「でも……。」
少しだけ考え、ゆっくりと言葉を続ける。
「今この瞬間、誰かと向き合って。」
「誰かに向き合ってもらって。」
「笑って、泣いて。」
「そうやって生きてきた。」
「それだけで、十分幸せだった。」
風が吹く。
桜が空いっぱいに舞い上がる。
老人は静かに立ち上がった。
「おじいちゃん、早くー!」
家の中から、また元気な声が聞こえる。
「ああ、今行く。」
その声に応えるように、老人は歩き出した。
ゆっくりと。
穏やかに。
春の日差しに包まれながら。
その背中を、満開の桜がいつまでも見送っていた。




