5-7 「春風の先へ」
第七話
会社を出ると、夕暮れの街を柔らかな風が吹き抜けた。
桜の花びらが舞い、歩道をゆっくりと転がっていく。
「急に誘ってしまって、すみません。」
朝比奈が少し照れくさそうに笑う。
「いえ。」
湊は穏やかに首を振った。
「誘ってくれて、ありがとう。」
朝比奈は一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
「そんなこと言われるとは思いませんでした。」
「昔の部長なら、仕事を理由に断ってたかもしれません。」
「……そうだね。」
湊も苦笑する。
「昔は、そうだった。」
二人は駅前の小さな喫茶店に入った。
新人の頃、プロジェクトの打ち上げ帰りに何度か立ち寄った店だった。
窓際の席に座る。
コーヒーの香りが静かに広がる。
他愛のない話が続いた。
最近入社した新人のこと。
休日に見つけた美味しいパン屋のこと。
失敗ばかりだった昔のプロジェクトのこと。
何度も笑った。
気づけば、一時間以上が過ぎていた。
朝比奈はカップをそっと置く。
「今日、お話ししたかったことは……もう話せました。」
「ありがとうございます。」
「話したら、すごく気持ちが軽くなりました。」
湊は優しく笑う。
「それならよかった。」
席を立ち、店を出る。
夕日は街を茜色に染めていた。
駅までの道を並んで歩く。
改札が見えてきたところで、朝比奈が立ち止まる。
少しだけ迷うように視線を落とし、それから顔を上げた。
「あの……。」
「また、ご飯に付き合ってもらえますか。」
その言葉は、とても自然だった。
だからこそ、湊も自然に答えられた。
「ああ。」
「ぜひ。」
朝比奈は嬉しそうに笑う。
「今度は、私がお店を探します。」
「楽しみにしてる。」
短い約束だった。
けれど、それで十分だった。
朝比奈は改札を抜ける前に、もう一度振り返る。
軽く手を振る。
湊も手を振り返した。
人混みの中へ、朝比奈の姿が少しずつ溶けていく。
湊はしばらくその背中を見送っていた。
ふと、春風が吹く。
桜の花びらが一枚、肩に落ちた。
空を見上げる。
結と過ごした日々。
母と交わした最後の言葉。
父と笑い合えるようになった今。
職場で交わす、何気ない会話。
そして、今日という一日。
どれも、あの頃の自分には想像できなかった未来だった。
湊は肩の花びらをそっと払う。
自然と笑みがこぼれる。
「……幸せだな。」
誰に聞かせるでもない、小さな独り言。
春風だけが、その言葉を優しく運んでいった。




