5-6 「今日という選択」
第六話
数年後。
春。
窓の外では、桜が静かに揺れていた。
「神谷部長。」
湊は顔を上げる。
若い社員が、資料を抱えて立っていた。
「少しご相談してもよろしいでしょうか。」
湊は時計を見る。
もうすぐ会議が始まる。
昔なら。
「あとで。」
そう返していた。
会議を優先し、仕事を優先し、自分に言い訳をしていた。
でも今は違う。
湊はパソコンを閉じた。
「もちろん。」
青年の表情が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。」
相談は十分ほどで終わった。
決して難しい内容ではなかった。
それでも青年は何度も頭を下げた。
「神谷部長に相談してよかったです。」
湊は笑う。
「困ったら、また来て。」
青年は嬉しそうに頷き、席へ戻っていった。
湊はふと窓の外を見る。
春風が桜の花びらを運んでいく。
スマートフォンが震えた。
父からだった。
今度の日曜日、美咲たちも来る。
久しぶりにみんなで食事でもどうだ。
湊は微笑み、すぐに返信する。
行くよ。
子どもたちにも会いたい。
送信して間もなく返事が届く。
楽しみにしてる。
短い文章だった。
それでも、昔よりずっと近く感じた。
昼休み。
社員食堂で食事をしていると、後ろから声を掛けられた。
「部長。」
振り返る。
朝比奈だった。
以前より少し落ち着いた雰囲気になり、後輩たちから慕われる存在になっていた。
「隣、いいですか。」
「もちろん。」
朝比奈は向かいへ座る。
他愛のない話をする。
新しく入った社員のこと。
仕事のこと。
休日のこと。
それだけなのに、不思議と心地よかった。
ふと朝比奈が笑う。
「神谷部長って、変わりましたよね。」
「そうかな。」
「はい。」
少し考え、照れくさそうに続けた。
「昔は、誰よりも優しいのに、誰よりも自分を後回しにしてる人でした。」
「今は違います。」
「ちゃんと、自分も笑うようになりました。」
湊は返事をしなかった。
ただ、少しだけ笑った。
午後の仕事を終え、退勤時間が近づく。
書類を片付け、鞄を手に取る。
その時だった。
「神谷部長。」
朝比奈が立っていた。
少しだけ緊張した表情で、こちらを見ている。
「あの。」
「今日、仕事終わりに少し時間もらえますか?」
湊は、その言葉に一瞬だけ立ち止まる。
胸の奥で、懐かしい感覚がよぎった。
別れの日。
結の声。
『少し話があるんだけど。』
母の笑顔。
アルバム。
手紙。
すべてが一瞬で過ぎ去り、静かに現在へ戻ってくる。
湊は穏やかに微笑んだ。
「もちろん。」
朝比奈も笑った。
「ありがとうございます。」
二人は並んで会社を出る。
夕暮れの街へ、一歩ずつ歩き始める。
その先に待つ未来は、まだ誰にも分からない。
だからこそ。
今日という選択を、大切にしたかった。




