5-3 「もう十分」
第三話
母は、湊の手をそっと握り返した。
「温かいね。」
「昔は、お母さんの方が手が大きかったのに。」
湊は苦笑する。
「追い越したからな。」
「そうだね。」
「いつの間にか、大人になっちゃった。」
少しだけ間が空く。
母は天井を見上げた。
「お母さんね。」
「ずっと思ってたことがあるの。」
「何?」
「あなた、自分のために頑張ったことって、あった?」
湊は言葉に詰まる。
仕事。
昇進。
資格。
全部、誰かのためだった。
父を安心させるため。
母の治療費を払うため。
家族を守るため。
自分が何を望んでいたのか。
考えたこともなかった。
「……分からない。」
その一言を聞いて、母は微笑んだ。
「やっぱりね。」
「あなたらしい。」
湊も微笑んだ。
しかし、その微笑みは長く続かなかった。
母は小さく咳き込み、呼吸を整える。
「ねえ、湊。」
「うん。」
「もう十分。」
湊は母を見る。
「お母さんのために頑張らなくていい。」
「え……。」
「美咲のためにも。」
「お父さんのためにも。」
「誰かの期待に応えるためだけに、生きなくていい。」
病室が静まり返る。
母はゆっくりと言葉を続けた。
「もちろん、人のために生きることは素敵なこと。」
「でもね。」
「あなたが幸せじゃなかったら、きっと周りの人も幸せになれない。」
「だからこれからは。」
「自分が笑える人生を選びなさい。」
「あなたが笑っていたら。」
「それだけで、お母さんは嬉しい。」
湊は目を閉じる。
涙が頬を伝う。
「母さん……。」
「ごめん。」
「もっと会いに来ればよかった。」
「もっと話せばよかった。」
母はゆっくり首を横に振った。
「ううん。」
「今日、話せた。」
「それで十分。」
少しだけ息を吸う。
「ありがとう。」
「生まれてきてくれて。」
「私の子どもになってくれて。」
湊は声にならない。
母は最後に、優しく笑った。
「幸せになってね。」
その笑顔は、どこか結に似ていた。
母の手から、少しずつ力が抜けていく。
心電図の音だけが、静かに響いていた。




